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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立小石川中等/都立白鷗附属中/両国附属中/富士附属/都立戸山/都立青山/竹の会2020募集中

2019.11.10

⭕️竹の会冬期集中指導及び通常募集

冬期申し込みは、11月のみ
※竹の会の指導を知るための絶好の機会 受け入れ 1名可能

◎通常募集
小2  限定受け入れ
小3 2020年主力募集
小4 最後の募集です
※小5以降は募集しておりません

第26章 指導するとは、子どもの心の機微を読むことに他ならない
きび【機微】表面からは知りにくい微妙な心の動きや物事の趣。微妙な心理や趣を巧みに言い表す。

 子どもの心は偏見という固い殻に囲われた入れ物のようだ。文を丁寧に読んでその意味を理解しようとはしない。自ら不理解という鎧を好んで纏おうとする。鎧など脱ぎ捨てればいいのにとよく思う。簡単な意味も子どもには理解できない、厄介なものとしてしか映らない。「50円と30円は、どちらが、どれだけ多いか」と言うとわかるのに、「3月の雨量が1215mm、4月が1324mm、雨量は何%増えたか」と言うともうパニックになる。「増えた」ということを数字で表すこともできない。この理解の囲みの狭くて小さなことはかつてのわたしならもう理解させることを諦めていたに違いない。情けないのは、事実が本質的に同じものだということを例えを用いて説明することである。こういう子に、そもそも%などという概念を理解させられるのか、いつもそういう極みの悩みに苛まれる。この子らは、%という文字、言葉が、思考停止の呪文となる。そうなのである。こういう子は、不理解の鎧を纏いたがる。言葉が呪文となって心より、というか理解の扉を閉じる。思考停止の呪文を本能的に作る。わからない、見たこともない、未知の概念は、たちまち思考停止の呪文になる。この子たちは、これまでわかっていたことでさえ、言葉の文脈が違えば、思考停止の呪文になるのである。
 子どもたちの心の形は、目に見えない、偏狭で、歪な、形状をなす。それは、思考停止の呪文によってできた、わからないという輪郭線によって作られていった形である。
 子どもというのは、わからないもの、意味の理解できないものには、拒否反応を示すものである。それはこれまで平穏だった脳の治安を乱すものとして受け入れがたいものである。何か新しい概念なりが入り込んでくることはこれまでの幼稚な低次元の秩序世界を根底から壊すものであり、排除の意思が働くことは当然なのかもしれない。体に異物が侵入すると体が拒絶することは、よく臓器移植のときに言われることである。子どもは、新しい概念をこれまで頭の中にある言葉の世界だけで理解しようとする。子どもがわからないのはだから必然のものである。排除の意思は、理解を拒絶する意思である。
 わからないという子はいつまでもわかろうとしない。悩む風がない。意味を考えようとしない。彼らは、「割る」とか、「かける」とかいう号令に敏感に反応する。「あっ、割るのか」、「かけるでいいのか」とか、こういう合点のし方をする。
 そこに機微が働くことはないし、機微を表す兆候もない。
 知能とは、機微である。いや子どもがわかったかどうかは、子どもの心の動きでわかる。そこに機微が、読み取れるときは、子どもが本当にわかった、と推測することができる。
 頭のいい子というのは、まず意味を考える子である。意味を理解しない子の指導は、往々にして不毛である。彼らは自分が今何をやっているのかさえわかっていないことがほとんどである。数を見たら、かけるとか、割るとか、反射的に行動するだけである。つまり彼らには思考というものが本来ない。
 こういう子を指導するのは、基本的には不毛である。処方箋的には、ドリル型の教材を使って反復して、まず繰り返す。それから様子を、見る。この時、教材には、ある種の工夫が必要である。反復させるのは、割合なら割合の定義でなければならない。問題というものが、定義さえわかれば解けるのだということを実は教え込んでいる。定義は、手を替え品を替え繰り出す。同じパターンではなく、違った姿にも着せ替えして示す。
 わたしは、こういう子にこれでもかというほど定義を繰り返して教えてきた。正直わたしにはあまり面白くない不毛な指導である。しかし、わからないという子の目を開くには、本質的なことを思いつく限りの方法を使って教え込んで、そこから目を開かせるほかに手はない。
 竹の会は、ここ2、3年は、こういう指導にも取り組んでいる。以前であったら、入会試験に合格できなければ、それだけで入会は不許可とした。29年、30年は、仮合格という、仮の入会を認めて、6か月様子を見て、見込みのない子は、結局入会を認めないということにした。あまりにも合格できない状況が続いたことの救済の意味もあった。しかし、仮合格者の成功率は、大雑把ではあるが、5割そこそこのような気がする。俗に言う飲み込みの悪い子というのが、成功する可能性はほとんどない。親の、「うちの子は飲み込みは悪いが、頭はいい」ようなことをよく耳にしたけれど、わたしはそんな子はいないと思う。飲み込みの悪さは、知能の問題のように思う。
 問題を見て、よく問題を読みもせず、目についた数字をただ「かける」のか、「割る」のか、の二択で、処理する頭というのは、残念ながら、理解の容量がない、ということだと思う。メモリーに認識されない。したがって機微など一ミリもない。まず思考を感じさせる機微はない。下世話に言えば、頭が悪いということである。容量、メモリ不足で、認識した情報を組み立てて理解するなどというところまでいけないのである。こういう子の導き方というのは、延々と定義を手を替え品を替え教え込んでいくしかない。とにかく定義を根拠に解いているのだということを頭の中に知らしめるとか方法がない。大手や他塾の問題なのは、問題に対する解き方を説明して理解させようとするどころである。そうではなくて、やはり定義を問題の形を借りて教え込むものでなければならない。ただそれとしても、こういう子の指導は正直見通しの立たない、将来の見えない指導にならざるをえない。こういう子が家庭で、前に進める、少しでも建設的と思われる勉強行動をしているとはとても想像できない。件の飲み込みの悪い子が組み立てる勉強をすることも望み薄である。

 こういう子はある程度までは思考をつけることができるとしても、受検に成功することはまずない。よく中学になれば指導できるかもしれないということが言われるけれど問題はそれほど単純ではない。一般論としては、中学で伸びる可能性は低い。中学というのは、勉強しない生徒はまず除外される。勉強するとは、どの程度のことを言うかと言えば、平日最低5時間、休日10時間以上である。当然部活をやる奴は落ちていく。つまり、中学では、能力もさることながら、勉強の虫になれるかどうかが成否を決めるのである。だから先ほどの子が、中学で成功するかどうかは、まず、勉強の虫になれたとして、その上で、思考の未熟さが、どこまで塡補できるか、つまり勉強量でカバーできるか、ということになる。
 これまでの竹の会の経験値からは、勉強の虫になれた生徒は、たとえ能力的に足りなくてもそれなりの成功をすることが実証されている。
 つまり、中学で落ちていくのは、勉強の虫になれなかった、大多数の、おそらくは80%の生徒たちであろう。この中には、知能は高いのに、怠け者ゆえに落ちていく、愚か者も、当然含まれる。中学というのは、小学と当然色合いが違う。小学でも、低学年と高学年でまた色合いが違う。中学、高校受験を視野に入れるとき、やはり小学低学年の対応が、決定的なのかなと思います。この時期に、規則正しい生活習慣を確立させること、その場合、勉強は、その生活の重要部分を占めるものとして、位置付けられなければならないこと、を重々悟らなければならないであろう。
 さらに、この時期になすべき学習訓練として、何をなすべきか、いかなる指導をなすべきか、が、大きくその後の人生に影響することは疑いない。
 竹の会では、受検はもちろん高校受験を視野に入れても、この小学低学年指導の成否こそ、未来を確定する、と思料しております。
 このために、竹の会の考えた指導は、これまで小4の2月開始指導のスタイルをそのまま踏襲しました。ただし、小3スタートなら小3にカスタマイズし、小2スタートなら小2にカスタマイズした指導手順、方法、内容にしました。当然ですが、割合なら割合を易しく説けば説くほどそれは難しい仕事となります。
 竹の会は、このカスタマイズに力を入れてきました。何度も挫折しながら、確かな指導の跡を積み重ねて、わたしは有効な道筋をひとつの技として確立していきました。
 それは、実際の指導のたびに、子どもの反応を診て、理解の深度を探り、心の機微を読み取るという、困難な実験的仕事でした。わたしは、イマイチの反応をそのたびに是正し、新たな試みをレジュメとして、試し、確かな理解の証を得たもののみを積み重ねていったのです。指導の名人、神対応の指導というのは、裏から言えば、挫折と希望の夥しい集積があったということです。
 わたしは、近年にない、竹の会の指導技術の完成度を感じています。
 指導というのは、子どものすべての心の襞の動きまでを感じ取り、その時には最高の、処方をなすこと、施術することなのだと思います。
 断っておきたいのは、私の指導が、必ず成功するわけではないことです。指導というのは、いくら技術が高くても、相手如何です。入会試験をやるのは、そのためです。ただ入会試験に合格したから成功するということでもありません。親の教育姿勢、学歴、受験認識などが、子どもの勉強姿勢を規定するからです。スポーツ最優先の親、習い事、稽古事は別の親、法事、実家帰省は別の親、そういう「別」論理の親はたくさんいます。入会試験は、子どもの最低限の指導可否を線にしてますから、合格に必要な高い知能まではチェックしていません。また、子どもの精神の弱さとか、怠け心とか、そういったものも調べてはいない。ほどほどにしか勉強しない子なのかもしれない。だから、入会試験では実は何もわからない。
 小3の2月あたりの入会試験が、一番正確です。この時期だと、かつての仮合格の子でもそのほとんどが伸びていっている。ところが、小4の2月の仮合格では、伸びたという例がほとんどない。ましてや小5になってからでは況んやということです。この意味でも、小学低学年からの指導開始がすべてだといことが分かります。
 なかなか手強い子というのがいまして、まず、問題の文を読まない、文脈で読まない、意味を考えない、そういう子というのがいるわけです。わたしの噛み砕いた、もうこれ以上は無理かと易しく書いたレジュメが、理解できない。これは、指導する側としては、正直手詰まりなわけです。わかってきたのかな、と思っていると、基本を根底から覆す誤りをやる。つまりわかっていなかったのだ。手順に慣れてきて結局思考がなくなる、これもドリル型演習の欠点です。これは落胆を超えて、絶望感の方が大きい。正直内心は聳え立つ壁の前に立つ、鉄板の絶望感に苛まれた感である。わけのわからない、天の差配に支配された、いや八方塞がりの軍師の心境である。しばらくは考えよう。どうするか。諦めるのか。もう一度手を考えて取り組むか。いつも究極の選択に迫られる。

 機微というのは、指導する者が、子どもの反応を見るときに、必ず判断の考慮に入れる要素である。ほんとうにわかっている子には、わかっている子特有の機微が読み取れるものである。あっ、わかってらなと思わせる

 

 

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