画像
都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立日比谷>都立西>小石川中等>都立戸山/習い事、稽古事のために勉強を先送りすることの代償/末路/「わかりやすい解説」の正体

2017.05.19

 おはようございます。実は水曜日に油断をして風邪をひき、昨日は夕刻にとうとう38度に、なんとか8時までがんばり、帰り着くとへとへとでそのまま寝込んでしまいした。深夜になっても熱はひかずさすがに金曜日の指導が不安になりました。昨日の午前中に医者に行って薬はいろいろともらっていましたのでとにかくのむことにしました。今朝はとにかく平熱の高めぐらいには下がりまして、ほっといたしております。体と相談しながら指導の準備をしております。考えてみれば、もう32年も塾をやってきましたが、とにかく休まないように気をつけてきました。記憶に残るのはある年の夏に風邪をひき37度超の微熱が10日ほど続いたことがありましたが、微熱を押して夏期を乗り切りました。2、3日熟睡すれば治るものも仕事を休まないようにするのでなかなか治らない。とにかく指導を休んで迷惑をかけられないとの思いでこの32年は緊張の連続でした。それでもつい油断をしてしまいます。細菌、ウィルスの侵入を許してしまいます。病気になるといつももう潮時なのかと考えてしまいます。こういうハードな職業にどこまで耐えられるのか、・・・

 適性試験の指導をもう10年以上やってきましたが、合格する子というのは、速い、そして正解率が高い、ということがわかっています。わたしのレジュメについて適切な時間で正解を出す、そういう子が受かる。28年に小石川に合格した小6はそうでした。同級生には優秀な子たちがそろっていましたが、正解率がそのまま合否に反映しました。

 今年の小6はレジュメの正解率の低い子たちもいまして、「いくら考えてもわかりませんでした」と放棄してくる子もいます。なによりも時間がかかりすぎる、というのがかなりの不安要素です。指導開始の時期がほとんど小5以降ということも影響しているのかと思います。能力の高い子ならそれでもいいのですが、平均的な能力の子が小5からとなるとどうしても時間が足りなくなります。ひとつにはそれまで大手に一年なり行っていたはずなのに、それがまるで意味をなさないということがあります。大手に行くことの無意味さというのはわたしもことある毎に指摘してきましたが、大手に1年以上も行ってまともに計算もできない、割合などまともな理解をした子など皆無に近い、これはいったいどうしたことなのか。結局大手というのはもともと計算でも割合でも難なく理解できるほどの天才を集めただけではないか。できない子たちの手当てなどはできない、ほったらかしではないか。天才なんて超少数でしょ。大部分の人は平均的な能力しか持ち合わせていない。ほったらかしにされるのになぜか大手は信用される。子どもなんて訓練してなんぼでしょ。徹底して訓練する、普通の子はそうでもしなければ身につけるはずがない。

 それからたいていの小学生というのは何か習い事や稽古事というのを熱心にやっています。そういう子が受検するとして、どうしても習い事や稽古事を優先させることがある、勉強するのを先送りする、それで受かるのか、ということですけど、まず無理です。普通の子なら無理です。なかには5年生まで続けて6年になったら勉強にしぼるというような子もいますけど、5年の勉強というのがどれほど大事かがわかっていない。

 今レジュメが解けない、時間がかかる、やり残しがたまっている、そういうことが明らかなのにそれでも勉強は後回しとするという判断をする意味がわかりません。それから遅れているというので雑にやればそれはなんの効果ももたらさない。一問一問に精魂込めて取り組んでこその積み重ねです。

 ◎末路の考察

  竹の会には頼んでもいないのにどこやらの塾の団体から生徒集めの方法を売り込む雑誌類が毎月のように届けられる。たいていゴミ箱にポイなのだが、ふと表紙を見ると、面白い言葉が載っていた。部活引退生、学校が忙しいと塾を休みがちな生徒、成績停滞生、みないずれはフェードアウトする予備軍なのだそうな。ちなみに竹の会ではこういう類いはとっくに退塾にしているはずである。大手、巷の塾では、こういう類いの生徒をどうにかして引き留めるのに苦心しているのだそうな。

  部活引退生の末路、それは都立には行けず、低偏差値の私立に単願推薦で入る、しかないということであろうか。もちろん部活を名目にほとんど勉強してこなかった人たちのことである。親も子どもの部活には理解しいや率先して部活優先を宣う親もいた。かつてバスケやバレー命という親子がいたけれどそういう子たちが偏差値50前後の私立に行ったとして高校入学後も同じスポーツを続けているなどという話しを聞いたことがない。たいていはもうスポーツは止めたと言い、かといって勉強するでもなく無為に高校に通うだけ、社会にそのまま出る子がほとんどではないか。

 習い事、稽古事に熱心なのは別にいいけれど、あるいは部活に明け暮れる、とにかくも勉強することもなく日々を過ごす、それはそれでかまわないけれど、ひとつ言えることは、大学入試、大学卒業、就職、あるいは難関国家試験受験という区切りは好むと好まざるとにかかわらず、ある時期にやってくる、ということである。18才の区切りにあなたが習い事や稽古事、スポーツに時間をかけたとしても、大学入試は斟酌なしにあなたのその後の人生を規定するであろう。そのときにあなたたちが末路という人生を進むしかないということもそれは想定内のことであったということになるのか。

 先送り、回避というのは、末路の選択にほかならない。今やれることはやれるだけやる、それが末路という道を遮断する、唯一の方法である。

 ◎「わかりやすい」ということの正体

 もともと世の中というのはそれほど「わかりやすく」はできていないはずなのに、「わかりやすく」というのが今の世の中では受けがいい。テレビのコメンテーターもわかりやすくコメントする人に人気が集まる。そもそも「わかりやすい」とは何なのか。塾の講師も「わかりやすい」と人気が出る。東進の林先生は「わかりやすい」と評判である。この点、「わかりやすい」とはどういうことか、という分析をした故竹田圭吾は、それは、グレーなものを白か黒かに強引に分別してしまうことだ、あるいはわかりにくい部分を無理やり切除して変形させてしまうことだ、というようなことを言っている。本当はグレーなのに強引に白か黒かに分ける、これはあの小泉の郵政民営化のときがそうだった。B層の人たちを動かすにはこの方法がいちばんいい。とにかく結論を求めたがるというのは世の中の現実に則していない。結論がだせないことばかりなのが世の中だからだ。

 これと数学なら数学をわかりやすくというのはやや話しが異なる。わたしたちが科目を教えるとき、その科目で扱うことというのはほとんど正解のあることがらについて、正解を前提として説明するからである。そうなるとどう説明するかということの技術の優劣はある。割合ひとつとっても説明のしかたの巧拙は当然ある。ところがこういう予め正解のある問題についての説明はどうしても一義的に、これしかないみたいな説明をする講師が多い。説明に工夫がないのは、正解がわかっているから工夫しないともいえる。

 

 

ページトップへ