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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

10月、11月、12月、冬期、残された時間はこれだけ/小石川、桜修館には最低限才能が必要であるが、九段、富士は勉強量で勝てる

2018.10.06

 10月というのに大型台風が2つも来て、心を揉む日々でした。持病の腰痛は次第に悪化するばかりで打つ手がありません。受験、受検もいよいよ時間がなくなってまいりました。これまでの積み残しを解消する方法などありませんから、これからは積み残しをしてきた人には、失速という現実に直面することになる、しかし、わたしは、そういうことも踏まえて、なんらかの対策はとりたい、本人が受検の意志を失わない限り、手助けはしたいと思っております。それというのも、竹の会の子どもたちが基本だけはしっかりとしているという自負があるからです。

 🔴寺子屋のような塾を探した、という話

 竹の会を選んだ親御さんの中には、「寺子屋のような塾として、竹の会を選んだ」という人もあるようです。人との接触が苦手な子たちが、大手に入るのに、親は、特に、母親は、無理と判断した。そこで、寺子屋のような塾を探した。そういうことか。たまたま竹の会が、その候補に上がった。そういうことか。 確かに、竹の会には、いわゆるコミュニケ能力がほとんどない、そういう子が、何人か、いる。そういう子たちが、竹の会で、次第に、コミニュケーションというものを学んでいく、獲得していく、そういうことが、竹の会ではよくある。そういえば、かつて自閉症の子がそれぞれ別の時期だが、二人もいたことがあった。いずれも何が気にいったのか、三年近くもいて、いずれも高校受験をそれなりに成功させて進学して行った。彼ら彼女らには、竹の会が居心地のいいところだったのであろう、後から考えて、そう思っている。あの頃のわたしはそういう子のペースに合わせて、見守ってやっていた。彼ら彼女らの一挙手一投足に目を配り、彼ら彼女らの心を安寧に保つことに気を配った。 竹の会の居心地のよさというのは、竹の会が昭和60年に始まって以来変わらないものであったのだと思う。あの頃から、竹の会は、子どもたちに、とても気に入られ、「竹の会が大好きです」という子たちが、いっぱいいた。「うちの子は竹の会に行くのが楽しい」、「楽しみ、休みたくない」、そういう声がよく親御さんから届いた。 元代々木教室時代と竹の会は変わったけれど、今も変わらず、竹の会に行くのが楽しいという声だけは変わらない。 寺子屋のような塾とは、実は、もう随分昔に、言われたことがあった。わたし自身は、何かピンとこなかったのだけれど、昔から、竹の会にそのような、漠としたイメージを持たれた方は多かったようだった。「先生、お一人で見ておられるのですか」とは、よく言われたが、この言葉は、マイナスの見地からのようであると、気づいたのは、こういう言葉を言う親が、入会することはまずなかったからであった。かつて見学に来た父親が「公文と同じですね」「生徒はプリントやって、先生が、採点する、ということですね」と言ったとき、わたしはあえて反論することもなく、「そうですね」と言ってやった。この父親がマイナスの前提に立っていることがわかったからである。 大手が隆盛の時代だっただけに、大手を前提として、プラスアルファを求めて来る親ばかりだった。「この塾に入るメリットは何ですか」と質問してきた母親は、大手ありき、大手前提で、懐疑と批判精神に満ち溢れていた。大手はいい、というバイアスに支配されて、それでもなお竹の会に見学にやってくるのは、竹の会の何か他とは違う何かに、多少とも心を動揺させたということではないか。 大手を絶対と考えながらも、竹の会へコンタクトを取ってくる心理、これは、竹の会を否定するためにとにかく見ておく、そういうことではなかったか。「資料を送れ」というのも同じで、パンフなりを見て、否定するため、がたいていです。本当に関心があればパンフで済ますわけがない、が、先ほど述べたとおり、渋谷教室が、スタートした頃は、冷やかしで、入会試験を受けに来る者が後をたたなかったわけである。大手ありきでやってくる親たちが、わざわざ竹の会への迷いを断ち切るためにやって来ることは述べたが、こういう人たちは、竹の会を否定している点では同じだが、また別の次元にいて、迷いと戦っていたわけである。

 竹の会は、江戸時代の、素朴な、方法と言えば、素読と手習いだけの、なんの工夫もない塾ではない。もっとも、素読と手習いが、学問の 本質に迫る、大切な基本、核であることは、疑いないが、それだけでは、塾とは言えない。竹の会は、思考の枠組みを作ること、ひいては勉強のスタンスを作り上げること、を専門に、研究、教育する、研究教育機関である。 竹の会と地元の塾を比べて、まだ子どもが、小3だからとか、小4だからとか、結局地元の、特に 大手に行かせるという親もよくいたけれど、いや体力がなくてとか宣う親もよくいたけれど、だからこそ、早くから鍛えるのでしょ。小3、小4の時期というのは、この時期を逸したら、もう二度とない、機会なのである。それは竹の会の指導、訓練というものを、見くびっているからということなのかと思うが、竹の会というのは、あなたたちが想像している観念を、遥かに超えたところにある。それは、竹の会で、小3なり、小4なりが、夏などに体験の機会を得て、1か月指導を受けてみる、そういうことからわかってくる。大手のやる一週間かそこらの無料体験授業とは違う。竹の会の指導の成果がわかるには、少なくとも夏のような長期、長時間の、もちろん有料の指導体験を受けて見ればわかる。最近聞いた話しでは、どこやらの大手は、無料の夏期講習というものがあるという。さてそんなものを夏休みをかけて受けたところで、夏が終わって、そういう子たちに何が得られるのか、残っているのか、わたしにはさっぱりわからんけれど、どうせ夏前と夏の後で、何も変わらないに決まっている。なぜなら、ただを餌にして、生徒を取り込み、後から元をたっぷりとってやるという魂胆は見え透いているが、とにかくも、かつてわたしは2年も3年も、大手に通いながら、計算一つまともにできない、割合なんかも「できます」と言う言葉とは、裏腹に、何もわかっていない、そういう子を嫌という程見てきたからだ。夏1か月通って、ただ時間を浪費したに過ぎないことが後からわかるだけでしょ。 竹の会がこういうまやかし塾と違うのは、子どもたちは、小数のかけ算も知らなかった、そんなところから始めて、夏が終わる頃には、私立受験の小6でも苦労するような、計算ができるようになっている。中には、もともとの知能が高かったのか、割合の基本的な構造を組み込むまでにして終わらせた子もいた。つまり竹の会の1か月の外部生体験で、子どもたちは、確かな知的成果を実感して終えている。だからこそ一度でも竹の会の指導を体験したら、親も子も、どうしても竹の会に入りたい、という、もうここではなんの迷いもない、純粋に、竹の会を「本物」の、目に見える成果を実感させてくれる塾という、確信、評価がわたしにも感じ取れるほどに、意志が現れている。つまり竹の会を知ったら、もう迷いはなくなる。是非お願いします、という意志も鮮明である。 世の親御さんたちが、大手の手練手管にいとも簡単に取り込まれる、特に、ただという、それだけで、小3期、小4期の貴重な時間を無駄に過ごす、もちろんどこの大手もやっている無料体験授業のことです。ここで、わたしが取り返しのつかないと言っているのは、小3期、小数4期というのは、訓練する、最適の時期だということが、わたしの実体験に基づく指導を通して、実証されているからです。小5では、遅すぎる。況してや小6では、もう打つ手なし。このことは、わたしの指導の経験からも明らかです。小6に来た子が、当然受検に失敗して、高校入試をめざしてやるとして、成功の確率はかなり低いということです。これは、小4期での基本訓練がないからです。もともと知能の高い子を除き、小4期に、思考訓練をしてこなかった子というのは中学で、伸びない。これは経験で確定した真実です。小4期に大手に行ったことが、大切な訓練の、機会を奪い、知識を処理するだけの、不毛な頭に固められてしまうということは知っておいた方がいい。バカは問題を解くという脳の働きを訓練されてこなかったから、問題を、見たら、まず過去に似た問題を解いたことがないか、思い出そうとする。事実の検討もしないで、公式をあてはめることばかりに気を奪われる。大手に行っていると、そういう頭になる。バカが固定されるとは、このことである。 公立中高一貫校対策の大手だと、小4期は、平易な問題で時を無駄にする。バカになるとは、そういうことである。 要するに、巷の塾、古い体質の塾、画一化するしかない大規模塾というのは、知識を授けるというコンセプトに、本質的な欠陥を宿したまま、商売にしているから、バカ親は、無料体験なんかで、得した気になる。なんとも軽薄で与し易い人たちである。 子どもに教育するということの意味がまるでわかっていない。教育というのは、教え育む、と読むけれど、ここで、学校も含めて、もちろん巷の塾の話しであるが、「知識」を教える、ことが、育むことであると前提している。だから、無料体験でただでテキストもらってニヤニヤしている。何という考え違いであろうか。 小4期に、知識を知識として、教えてはならない。知っているからできる、という意味のない、無駄な、勉強観念を植え付けてはならない。 計算をただの「やり方」の問題として、通過するだけにしてはならない。大手に通う子は、小6になっても、小数の割り算を間違ったり、なかにはできなかったり、分数の計算もまともにできない子が多い。親はこういう結果になっても、まだ大手という看板にすがっている。もうあなたたちの子どもは十分に手遅れであり、高校入試にもすでに失敗していることを、中3になるまで悟らない。 頭のいい子の親は塾なんてまだ早いと考える傾向があるけれど、それも塾というのを知識をもらうところと考えているからです。 とんでもない考え違いです。

  計算は、1か月ないし2か月で、完璧にマスターしなければなりません。どんな難解な計算もたちまち正解できる、疾くて、正確な、計算技術を身につけなければなりません。私が念頭に置いているのは、小3ないし小4です。小5はもう手遅れです。特に、「割合」というのは、思考形成の道具です。この道具によって思考を作りあげてこなかったということが、中学での成績不調の原因です。割合概念は、思考というものを頭の中に芽生えさせ、頭の中に、構造化し、自分で「考える」ことを可能にする、最適の教育素材です。竹の会では、まず小4早期に計算概念によって、形式的な計算の論理を学んでいくことを訓練します。子どもたちに、抽象的な、数の処理の仕組みというものを理解させるのです。計算マスターになったら、指導のたびにまず計算を4問解かせるのが、竹の会の習わしです。計算は、中断したら、忘れるからです。割合概念というのは、竹の会では、小4でも計算マスターしたら、すぐ訓練を始めます。概念構造が頭の中に完全に組み込まれるまで、徹底して訓練します。小4だからできることなのです。小5では、もうタイムアウトです。小3、小4だから、訓練できるのです。、 私が小3、小4の早くに来いと言っているのは、ちゃんと理由があるからです。小5になってではもう遅いのです。 因みに、もうこの時期、つまり今の時期では、小4でも手遅れです。 この時期から、竹の会の募集は、小3になります。

 教育とは、まだ頭の柔らかい段階から始める、訓練に他ならない。 この時期に、勉強の正しい理解を前提に、勉強の習慣を生活の中に組み込んでいかなければならない。竹の会の課題は、家庭学習を指導するものであり、習慣という形でしか、勉強の実行を学べないということを、示している。課題をやりきることが、子どもに勉強というものの付き合い方を教育し、勉強のスタンスを植え付けている。 課題を先送りする子は、必ず失速する。 さて、大手の宿題について、あれは、ただの思考破壊です。偏差値知識主体の宿題に追われて、何かが失われていく。これはただの詰め込みです。このような宿題と、頭のいい子を前提にした、横並び授業で、大半の子どもたちの脳は、完膚なきまでに、壊されていくのです。つかいものにかならない、頭にされる。これが、昔からいた、中学受験の落ちこぼれの実態です。 いいですか、大手進学塾というのは、もともとの頭のいい子をのみ、軸に、作り上げられたカリキュラム構造を、並の皆さんにも、押し付けている。バカが、無理に天才を育てるシステムに、合わせてどうするのですか。

 かつて竹の会に冷やかしでやってきた、親子が、どうなったのか、知りませんが、また知りたくもありませんが、およそ漂着する先は、わかっております。漂着するために、何をしたり顔で、余裕を見せてやっているのか、わかりませんが、必死にらっきょうを剥く猿にその無益を説いても聞く耳を持たないのと同じで、失敗するまでわからないというやつです。

 話しは、突然変わりますが、裁判官というか、法律家というの、争訟に際して、まず結論ありきで、後から理論、すなわち法律的論拠を考えるということをご存知でしょうか。 実質的な価値観の領域では、もう結論は出ている。後から根拠を考える。そうすると、だれかが、何かを言っているときは、その人が、前提としている価値観なりを推測するのが、正しい読み取り方ということになる。 さてである、私があなたたちに言いたいのは、文章を読むときの態度である。論説文というのは、とにかくある問題について、価値判断をしている。そして論者は、それを論理で、説得しようとする。あなたたちが、読む文章というのは、なんらかの価値判断を「前提にして」、論を演繹するものである。してみれば、あなたたちは、この論が、その論が、どういう価値判断を前提にしてのものなのか、逆論、逆推理して、まず前提を確認しておく必要がある。ひとり国語だけの話しではない。適性問題を解くときにも、問いの前提を考えるというのは、有効な戦略である。 人が、何か、言ってきたとき、私たちは、なぜそのようなことを言うのであろうか、そういう論の出てきた前提の事情というものを考えることによって、相手の真意を、推測することができる。

 実例。 竹の会の作文問題に、「年金制度を充実させるべきが否か」というものが、あったけれど、子どもたちには、予め年金制度にまつわる問題についての解説レジュメというのが渡されているのであるが、子どもたちはそれを参考に作文を書くのがほとんどであろうが、解説レジュメを読んで、考える、そこが大切だけれど、ほとんどの子が、真似と丸写しである。ここで深く考えて、周りの大人にも聞いてみる、とにかく理解を深める、そういうことが、深みのある作文を書くことになる。 作文というのは、まず定義を書く。年金制度なら年金制度の定義を書く。次に、年金制度の趣旨を書く。そして次に、年金制度の問題点を書く。問題が大きいときは、テーマを二つくらいに絞る。そして何が問題なのか、について書く。問題となっている事実を書く。なぜ問題となるのか、書く。 そして、自分の立場を書く。、反対の立場にも、触れる。簡単に触れて、簡単に、反対説の問題点を指摘しておく。都合ここまでで、字数は尽きる。 よく意味のない結びを書いたり、展望を書いたり、抽象的な、意味のないまとめを書いたりする子がいるが、無駄である。 適性の作文では、体験を書くことが求められることが多い。このとき、体験は、せいぜい二百字でしょ。四百字も体験を書いた作文があったけど、あなたの意見を書く字数とのバランスを考えて欲しい。体験というのは、あなたの意見、主張の根拠、補強なのだから、そこを忘れてはいけない。 適性の作文では、この体験の取り上げ方が、かなり大切となる。登場人物が、お父さん、お母さん、友だちと貧困なのは、そのまま作文を貧困にする。主張を「なるほど」と頷かせるほどに、説得力のある体験を書けるように、練習を積んで欲しい。 いずれにしても、作文において、前提に言及し、そこから本質に迫る議論を展開することが、光る作文を書く極意となるであろう。

 さて、いよいよ10月になりまして、一日一日が、とても大切な時期ですが、例年この時期あたりから、失速すると小6が、出てくる、失速するのは、積み残しをしてきた子たちです。指導レジュメが、想定をはるかに下回るとか、課題をほとんどやっていないとか、そういう積み残しが、ボディーブローのように効いてくる。具体的には、試験レベルの問題が解けない、そういうことですが、試験というのは、そういうことなのです。 しかし、竹の会で鍛えてきた子たちは、他塾の子たちに比べると、やはり違います。 わたしも、今年は、そういう子たちを、何とか活かす道を探っている。その意味でも、これからの10、11、12、冬は、慎重に指導したい。

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