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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

2019年1月元旦

2019.01.01

 最後にブログを更新したのがいつでしたか、忘れてしまいました。12月6日の早朝に羽田から故郷大分へ、父がわたしが帰るまで生きているのか、そういう思いでした。大分空港から空港バスで別府駅まで1時間ほど、すぐタクシーに乗り、5分ほどで父のいる、わたしが二十代を過ごした家にたどりつきました。この家は父が国鉄を退職したときに、建てた家です。それまでは、同じ場所に、やはり父が建てた、古い家がありました。父が同地を買い求め家を新築したのは、28才のときだと聞いております。その頃は、それまで住んでいた堀田村の人たちがよく訪ねてきて、当時としては、モダンな家に感心したものでした。わたしはこの家で小学、中学、高校時代を過ごしました。

 父は仏間のベッドで横たわっておりました。胆管ガンでした。意識は息を引き取る直前まで、しっかりしており、わたしのことをよくわかっておりました。7日は、一日父の求めに応じて、手を取り、さすりました。やがてくる死を知ってか、信仰深い父は、両手を組み、じっと天井を見ては、疲れたのか、また手を差し出してきました。7日の夜は、震えが止まらず、わたしたちは死を覚悟しましたが、暫くして落ち着きました。8日の朝7時、わたしは心を残しながら、父に別れを言うこともなく、タクシーで別府駅、特急ソニックで小倉、新幹線のぞみと乗り継ぎ、子どもたちの待つに東京へと帰ってまいりました。翌9日は、何事もなかったかのようにAの指導をこなしました。10日の6時過ぎでしたか、Bの指導の最中に、姉からラインが入り、「今、息を引き取りました」と。わたしは、子どもたちに囲まれていました。押し潰されそうな胸を必死に堪えながらも思わず両手を顔を覆ったことを覚えております。

 それから指導をしながらも心は上の空でした。指導が終わって、子どもたちがいなくなって、教室の掃除をなぜか丁寧にしていました。そんなに丁寧にしたことがないのに、どうしたのでしょうか。机を愛でるように拭いていたら、なぜか涙が流れてきて止まりません。わたしは、もう塾を止めたいな、そんなことを考えておりました。

 なぜか、体から力が抜けていくのを感じました。無邪気で、竹の会の子たちは、勉強熱心で、子どもたちの中にいると心が少しだけ楽になりました。しかし、やはり苦しかった。もう、今までのように、ブログはとても書けないな、わたしにはそれがわかりました。あれほど好きだった時代小説も読めなくなりました。いつも仕事として読んでいた評論文もなかなか読めなくなっておりました。実は、最近は、小林秀雄の本を面白いと思うようになりまして、書架から小林の本を探し出しては、読んでおりましたが、それも今は中断しております。

 体重も減りました。父が他界して体重は激減しております。食欲がなくなってしまったのです。塾を始めたときは、57kgだったのを覚えております。昭和60年の10月のことでした。竹の会は元代々木町という、だれも知らないマンションの一室からスタートしました。ガリ版刷りのはがきをせっせと印刷して、代々木中学の中2に出しました。たまたま知り合いから借りた中2の名簿でした。そしたら代々木中学の三人の女子生徒が来てくれたのです。わたしは、中古店で机といすと白板を買って、始めたのでした。実は、あのとき、わたしが持っていた資料は、武蔵と開成の過去問集だけでした。教科書を買い、週2回、1回2時間の授業でした。そしたらわたしの噂を聞いた親たちが次から次に申し込んできました。元代々木に熱心な先生がいる、と評判になったのです。12月になると、後に青山学院高等部に合格することになる、上原中の男子生徒が来ました。河合塾に通っていました。東大の学生を家庭教師として頼んでいるとも言いました。初回の授業は個人授業でした。彼は、わたしの授業でたちまち竹の会に心酔し、家庭教師を断り、後には河合塾もやめてしまいます。わたしの授業はかれにはあまりにも衝撃的だったようです。「竹の会の阿部先生に」とかれのわたしへの信頼は心からのものでした。彼は、「僕は、いろいろな有名塾を転々としてきましたが、竹の会に出会って、竹の会がいちばんいいと思いました」と、このようなことを言ったと思います。

 当時のわたしは、勉強に明け暮れていました。高校入試の過去問を解き、英語の参考書を読み漁り、国語を解き、理科や社会についても勉強しました。市販の参考書、問題集を解き尽くし、過去問を解き尽くし、しだいにわたしは自信をつけていったのだと思います。青山学院高等部の生徒や新宿高校の生徒を教えた時期は、高校数学と高校英語の参考書をよく読みました。やったこともない数学Ⅲも独学で勉強しました。あの頃のわたしはさまざまな本を読み、知の吸収に余念がありませんでした。

 竹の会がいつの頃から、授業しなくなったのか、少なくとも平成9年は授業をしていました。なぜならこのときの授業で鈴木君が早稲田実業に合格したからです。もっとも四六時中授業をやっているということはなく、基本は、過去問を解かせて、添削し、わたしの解答、解説を示すという方式はよくやっていたと思います。

 平成17年から中学生のために、これまで使ってきたオリジナルテキストを、順次レジュメへと切り替えていきました。ちょうど中1だった女子を3年後都立西へ合格させるためのプログラムでした。平成19年には中学のレジュメ化を終えました。平成18年にやってきた小6を10か月後九段に合格させますが、このとき使った方法は、竹の会伝統の過去問合格法でした。小学ではまだレジュメ化はずっと先のことでした。19年に九段に合格させると、九段志望の小学生が数人きました。このときにわたしは、小学生が割合というものをまるで理解していないということを知るのです。そのことがわたしのライフワークになるとは。竹の会の小学生のためのレジュメ化は、子どもたちに割合をいかにして理解させるか、という問題提起から始まったのです。さまざまなレジュメを作っては、没、そういうことが1年、2年と続いたのです。わたしの作ったレジュメは、それは膨大なものになっていました。あの頃のわたしは寝ても覚めても、割合指導法のことばかり考えていました。平成20年には桜修館に1人合格しています。21年はゼロ、22年には、両国と桜修館に合格しました。この21年から22年にかけて、わたしは今の竹の会の軸となるレジュメの原案のほとんどを完成させています。23年は、小石川と桜修館に合格しております。24年には、富士に1人合格しただけです。24年から、いよいよわたしは、本格的に、推論シリーズなどのレジュメの執筆を始めたのです。24年は竹の会のレジュメ元年でした。初めてわたしのレジュメだけで、つまり過去問合格法を使うことなく、25年に、小石川、白鷗、桜修館に合格しました。26年はわたしの指導の失敗でした。24年制作のレジュメを使わず、わたしの迷いから、不本意なレジュメで子どもたちを煩わせてしまいしまた。このとき桜修館に失敗した子は、早稲田模試の上位の常連だったのに。彼は3年後都立日比谷に合格しております。26年は、24年の初心に戻り、レジュメの執筆に人生をかけました。

 長い時間が経ちました。わたしの指導法が、ひとつの体系として、確立しました。子どもたちをどう導くか、あの頃、ずっと悩んできたことが、嘘のように、わたしは、子どもたちを確実に導く方法論を完成させました。わたしの竹の会が到達した到達点は、正直比類無き、指導法だと考えております。一度、竹の会を知れば、竹の会に夢中になる、それは真実です。竹の会は子どもたちに「大好き」と言われる、それが今のわたしには辛いことです。長い間、父とはわたしの中ではどうしても寛解できない、感情の塊がありました。父がこの世を去って、何かを喪失した思いが、重くわたしの心にのしかかります。今は、今いる小6を最後まで導ききる、それしか頭にありません。その後、どうするのか、何も考えていない、ただここで立ち止まるわけにはいかない、そういう思いで、毎日はたらいております。

 

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