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「極意にかぶれる」/都立中高一貫校を受検するということ/高校受験に成功するには

2019.02.22

 2月22日、今日は都立高校の入試がある日です。都立中受検と都立高校受験のちがうところは、後者には「後がない」ということです。失敗すれば、志望の都立には行けない、併願した私立に行くほかない。都立高校受験はまず、内申で峻別されてしまう。頭がよくても内申が悪ければ、都立には行けない。こういう人は私立難関でも受けるしかない。それにしても公立中の8割の人は、まともな都立には行けないし、都立さえも行けない大多数の人は、単願、つまり無試験で低偏差値の私立高校にいくことになる。私立も偏差値が低いところは中途退学者が多い。昨今は少子化が進み、どこの私立も定員を満たすことができないから、生徒取り込みに必死で、高校は選ばなければどこかに入れる。少なくとも形の上では全員落ちこぼれもなく取り込まれることになっている。しかし、実質的には、もちろん高校受験は、人生を振り分けることになる。

⭕️「極意にかぶれる」という言葉がある
 垣根涼介の時代小説に出てくる言葉である、
 曰く、
 修業の途中で兵法の理ばかりを頭に詰め込むと、その動きや技を体得する前に、すべてがわかったような気になる。挙句、肝心の鍛錬がおろそかになる。体そのものに叩き込むことによって覚えさせぬ限り、技量は確かなものにならぬ。

 わたしはかつて法律を勉強したことがあるから、わたしなりの理解をしてしまうのだけれども、かつて政治学を学んだとき、丸山眞男の政治学入門を読んで、現代人は理屈をこねまわすけど、事実の裏づけというものがない、ただの絵に描いた餅、空論ばかりをこれ見よがしに、まるで自分が自分がと主張しているばかりで内容というものがない、ということを思ったことがある。
 まず法律論から言えば、例えば、わたしは、刑法の体系を、団藤重光の「刑法綱要」から学んだが、それはもう何十回も読んだものである。あるときは、1ページ読み解くのに何日かかかった。今ならLECのような予備校が、わかりやすいテキストを出しているし、試験に関係ないことは全てカットされるから、私のような読み方をする人もいないのかと思う。あの当時わたしに欠けていたのは、理屈ばかりで、生の現実を知らなかったということである。刑法230条の名誉毀損罪は、構成要件として、「公然、事実を適示して人の名誉を毀損した」ことと規定している。特定の人の名誉を毀損する故意をもって、人の社会的評価を低下させる行為を罰する。当時の通説、団藤先生の人格形成責任論を理解するのは困難で、団藤先生は、現実の犯罪者をリアルに想定していたに違いない。勉強していても、わたしは、実際例で演習するということをやってこなかったが、大学の時、教養課程で、同じクラスになったIが、単位試験のとき、民法の演習書を一通りやってきたのを見て、ショックを受けたことがある。彼が大阪高等裁判所の所長(判事)になっていたのを知ったのが、数年前のことだが、彼なら然りと思った、理論というのは、事実によって検証してこそである。理系の仮説というのは、実験で再現されなければ、屑だというのと同じである。

 政治学的な視点からは、事実の裏づけのない政治論はあり得ない。かつて読んだ政治学の本、例えば、原田綱の「政治学綱要」が、ちっとも面白くなかったのは、抽象的な定義と概念論ばかりで、事実による裏取りが、少なくも書物には一切なかったことによるものと分かるまでに何年か要した。概念的な理論が、それ自身価値があり、それを理解しない自分は能力的にダメだと思い込んでいたのだ。丸山眞男の「現代政治の思想と行動」は、事実をまるで手に取るように活写する。あれには魅了され、同じ本を数冊も買ってしまった。
 現代人に欠けているのは、事実を見ないことである。この点、かつて2チャンネルを運営していた西村が、テレビで、評論家、コメンテーターをこてんぱーにした体験を本にしている。彼は、著名人が、事実を知らないで、理論ばかりを言っている、だから事実を突きつけたら、彼らはグーの音も出なかった、と述べている。
 事実を見るとは、事実をありのままに観察することである。
 世の中には、事実を知らないで、いや無知なのか、事実というものにまるで関心を払わないで、理屈をこねる人間ばかりなのには驚かされるが、事実の下地のない主張など、意味のない、空論であり、何かを言えば言うほど、自分の底の浅さを浮き上がらせることになる。
 昨今は、ジャーナリストを名のりながら、取材をしない記者ばかりというのも、同じ文脈で理解できる。「裏を取らない」新聞記者、放送記者が増えたのは、インターネットの普及の影響が大きいのか、と思う。自分の足で、裏を取らない、取材をしない、これは、3.11の原発事故の時、第1原発に直接取材に行ったのは、フリーランスの記者だけだった。朝日などの記者は、半径80km内には、入らなかった。そういう危険なところには、フリーの他人に任せる。そういう自分は危険を侵さない、エリート記者が、記事をまるで自分が取材してきたかのように書く。こういう輩が社会に蔓延るよつになった。
 適性試験は、実は、事実の読み取り試験なのである、ということをまず知らなければならない。私は、受検、受験指導では、必ず自分で問題を解くし、解答解説も自分で書く。これは事実を知らないで何かを言うことはできないからである。
 学校説明会で耳にする情報など、少なくとも私には必要ない。ただ例えば、独自校を受けた人の実際の得点などは、事実として、わたしには、とても価値があるし、適性本番の得点も役に立つ。私は事実に価値を認める人間だから。
 それからマルクス・ガブリエルという哲学者が、NHK出版から、本を出しているが、彼は、SNSの害悪を正当に指摘している。ガブリエルは、軍事的な利用を憂慮しての、否定的見解かと思われるが、昨今は、SNSにより人を侮辱した事案が、有罪となるケースも増えてきて、判例に事欠かない。

 さて、垣根は、さらに、述べる。
「この修業の場を常に戦場だと心得よ。その気構えをもって死ぬ気で稽古ができぬ者など、いざ実戦になった時にはなんの役にも立たない。充分に力を発揮できるとは思えない。」
 受検に、受験に、成功する子たちには、ここに何か通じるものがある、あったのか、と思う。
 常に、勉強に対して真摯な姿勢で臨む、これはなかなか難しいことである。
 中学に入ると、たいてい部活に入る。体育会系の部活はもう勉強にはマイナスしかもたらさないが、最近は、文化系の部活でも立派に勉強回避の言い訳として害になる。
これでほとんどの中学生は、高校入試を棒に振る。私は知能の高い子たちでさえ、部活で勉強生活が崩れていくのを何度も目撃してきた。
 小学生には、1日5時間の勉強なんてできる子は少ない。だから、受検は、そういう少ない子たちのためにあるのです。
近年は、都立中の中心となる受験層は、大手進学教室、例えば、サピックス、早稲アカ、日能研、四谷大塚、希などのトップ層になって久しい。エナとか、栄光がどうのという話ではないのである。大手のトップレベルの子たちは、もう小学4年から、1日5時間はやっている。だから習い事、稽古事、スポーツ、家族旅行などやって、やりながら、受検に成功しようなどと考えている人たちは、最初から戦線離脱しているのである。
 こういう大手進学塾のトップの子たちと互角にやり合うには、算数力を高めるしかないのである。竹の会で、今年桜修館に合格した男子は、竹の会の算数カリキュラムのいわゆる5部作を小4で終わらせ、小5のときには、「推理の素」「1%下巻」、さらには、難関校用レジュメ「算数速解」「2010算数」などを終わらせている。この子は、攻玉社、巣鴨も、算数で撃破した。竹の会の算数は、灘や開成、麻布、早稲田中に特化した、「第6番」の研究レジュメシリーズで、日本で最も難しい算数をわたしのオリジナル解説で導く、最強の算数指導であることを彼は如実に実証した。
彼のお父さんとお母さんは、共に早稲田大卒の方だと聞いていますが、そういう知識の高い方たちが、竹の会に見えられて、竹の会の神様に手を合わせられたのには、感嘆いたしました。

 さらに、
「不利な状況下でも戦い続け、生き残れてこそ初めて強者となる、」
 勉強道を歩むなら、もはや他のことを考える余裕などないはずである。それは、勉強というものが、やればやるほど、ため息が出るほどの深淵な彼方に目指すところがあると知るからである。それほど深いものに、中途半端な気持ちで、態度で、行動で、ものになるはずがないではないか。

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