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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

お知らせ等

2018.11.24

🔵冬期指導申し込み、11月まで。
 ご注意下さい。

🔵12月月謝は、前月払いです。
 前月前納をお願いいたします。

🔵小6のこれからの指導概要
 最後の詰めを誤らないように、くれぐれもご注意下さい。
 竹の会の、私の指示を完全に履行してください。
 これからは解き直しを最優先させてください。
 解き直し、7回を完全に終わらなければ、やりあげたことになりません。
 形だけの解き直しは、意味がありません。
 問題を初めて解くときと同じように丁寧に読み、考えて、ください。決して、暗記した答えを書いて終わらせないでください。解くときは、必ず問題の意図、出題の意図を考えて、その意図に答えてください。
 解き直しの対象は、「小学思考の素」などもはいります。「撰」シリーズ全6巻は当然です。推論シリーズももちろん入ります。課題は、理科クリア、社会クリア、新資料読み取り、教養なども入ります。「適性のための計算」「同理科」も入ります。「算数クリア」も入ります。
 12月には、過去問合格法を実施します。
 忘れていました。「適性答案の型と答案のスタイル」も解き直しです。
 毎回の指導では、作文、読解問題などを実施するほか、新作レジュメもやります。わたしは、今年は、本番ギリギリまで、過去問を精査し、みなさんが陥穽に嵌まることを予測し、想定して、問題を創作し、注意喚起、情報提供する決意です。
 どうか本番まで、竹の会、わたしにお付き合いください。

🔵受かる子の行動、受かる子の親の姿勢
 多弁な母親の子は成功しない。またやたら情報収集する母親の子も成功率は低い。わたしがこれまでに見てきた合格する子、その母親の態度というものは、あまりにも似通っていることに驚かされる。
 とにかく受かる子の親というのは、口出ししないですね。わが子を信じている。口出しする親というのは、子を基本的には信じていない。だから心配でいろいろと口出ししてくる。とにかく子どもどころか塾の先生も信用していない。そもそも実際に問題を解いたこともない母親がとやかく言うことがおかしい。受験というのは、実際に問題を解いて見て初めて分かることばかりなのである。下らない説明会の情報で右往左往してなにをしているのやら。それで学校説明会とか、ママ友と情報交換して、塾のやり方にもケチをつけてくる。最近は、父親主導のところもあって、四、五日おきにメールや電話をかけてくる父親がいて正直「そういう子の指導はしたくない」。それでなにやら理屈を言って止めたときは、心底ホッとした。
 わたしの経験では、合格する家庭というのは、基本窓口は母親であること、父親の影はほとんど感知しない、母親はあくまでも控えめである。母親が口出しするということはまずない。そして陰で子どもを支えている、そういう印象です。
 そういう母親の子だからこそ、健気に頑張る。母親のすごいのは、決して子どもの勉強に邪魔になることはしないことです。よくある法事による帰省、習い事、稽古事を持ち出すこと、家族旅行、そういうものが一切ない。私はかつて早稲田実業高校に合格した鈴木君に尋ねたことがある。「家族で食事に行ったりしないのですか」と。というのは、彼は、盆とか正月で休むということが一切なかったから。彼のお父さんは、大手電鉄の重役だったし、そういうこともあるのかな、と思っていたら、そういうことは一度もないのだという。彼は勉強すること以外のことに関心がなかったように見えた。生徒会長、柔道部長などをやりながらも3年間塾を休んだのは一、二回の印象しかない。思慮深く精神的にはすでに大人であった。最近、竹の会の子たちを見ていると、やはり精神年齢が低い子ほど伸びない傾向がある。幼いとどうして勉強に集中する時間が少なく、なにかと自分を自分であやす、あるいは他人にあやすことを求めることになる。小学生の場合、男の子は、精神的に幼いことが多い。小6になっても、あやされることで、飽きを紛らす。これは育て方とかいうことではなくて、もって生まれた性格のもたらすものであろう。なかなか困ったものである。昔からこういう類いはいまして、わたしも長い間、塾をやってきまして、こういうのはもういいかなと思っています。
 わたしは、今の指導技術を、無駄にしたくないのです。ですから、わたしは残された、あと少しの塾人生をほんとうに、勉強したい、そういう人にのみ、使いたい。わたしはずっとそう思っていました。
 わたしの、いや竹の会の、指導の技術は、今、最高の域にあると考えております。わたしの指導を受けた子たちは、確実に、伸びていく。子ども自身も伸びている意識がある。かなりある。子どもたちは、「わかる」ことの喜びを知る。だから竹の会を子どもたちなりに評価している。
 わたしは、子どもたちの指導とは、まず目の前の目標を与えてやる、その目標をこなしたら、次なる目標を課す。指導というのは、したがって、目標を段階的に仕組み、やがては大きな目標を達成している、そういうものでなければならない。わたしは、指導の単位を、小数の割り算、余りのある割り算、概数、四捨五入、切り捨て、切り上げ、小数を分数にする、最小公倍数、通分、分数の繰り下げ、約分など細かに段階分けしている。特に、分数のかけ算、割り算は、約分という枠に入れて、約分の訓練をしていたら、マスターしていた、という風に知らないうちに越えているという感じで仕掛けている。様々な計算の単位をクリアして、いよいよ実践練習へ、指導に入る。わたしは、計算の様々な要素を見ながら、子どもの段階を鑑みて、一問解かせては、さらなる一問と練習させる。子どもたちは、わたしのこの過程を通して、様々な、予期しない計算の障害をクリアして、実践を積み重ねていく。計算の最終段階は、逆算である。ここでもわたしは逆算の思考をどうしたら効果的にクリアできるか、腐心した。逆算は過去の経験から多くの普通の小学生が躓く難所だ。今のわたしの指導は、指導単位を細かく、段階的に整理して、そのそれぞれに合理的な方法を追求して出来上がったものである。こうして、小4なら、2か月もすれば、かなりの計算達者になる。そうしたらいよいよ思考訓練の次のステップ、割合思考に入る。よく大手などが「考える」塾などと言って宣伝しているのを見るが、ただ子どもに、テキストを与えて、考えさせる、だけなら、何もしないのと同じだ。考えさせる時間をとる、そういうことを声高々に言う意味がわからない。頭のいい子はそんな考えさせる塾なんかに行かなくても考える。頭の悪い子、普通の子は、考えてもわからない。ただ退屈な、我慢の時間を過ごして、結局教えてもらうことになる。
 考えさせるというのは、指導する側に、ここでも指導単位の細分化をして、そのそれぞれの単位で、合理的な思考の手順というものを与えるものでなければならない。ただ考えろで、カネとる塾なんかに、我が意を得たりと親が感動して通わせる意味がわからん。少なくとも、塾と言ってカネをとるなら、それはプロを宣言したのであり、プロならプロの実質を備えて然るべきであろう。ところが、昨今の塾は、謳い文句、看板だけ出して中身はない。
 竹の会の親御さんには、「塾は竹の会だけと思っている」と言って、他にいい塾を探すことに絶望している方もいます。また多くの親御さんが疑心暗鬼で竹の会に入れたところ、竹の会の真実を知る。そして竹の会のポリシー、指導に耐えない子は指導しない、という理念を入会の際に受け入れて指導契約を交わしたのですが、竹の会の指導を実際に知ることは、塾というもののこれまでの考え方を覆すカルチャーショックを受けたのか、と思われるくらいに竹の会の見方が変わるようです。だから竹の会の指導基準に達しないとしても、「他に塾がない」と竹の会を止めることを躊躇される。わたしも、巷に、ろくな塾などないことは当然知っています。わたしは、竹の会は凄い塾ですよ、とよく訴えてきたものです。しかし、大手を選ぶ親たちに冷たい目を向けられて、こんなちっちゃな塾と思ったか、鼻であしらわれてきました。竹の会に小4どころか、小5からでも来てくれる人はほとんどいなかったのです。こういう小さな塾だと、何か問題を抱えた子ばかりが、やってくる。学習不振に喘ぐ子たちです。だから、わたしは、こういう子たちの指導でも経験を積み、こういう子たちの指導について、研究をしてきました。そういう中から、指導できる限界というものを常に考えてきたのです。竹の会の今の指導限界論は、長年の指導経験から出された真実の叫びです。塾というのは、カネをもらって子どもの知的育成を請け負うものです。ですからカネを取れない、言いかえれば、指導できない子というのが必ずいる。こういう子からカネはとれない、とったら詐欺になる。ただ、竹の会が、指導できないとするのは、全く効果のないという子だけではない。とにかくよくなっている、そういう子でも、合格とか、成績トップとかの竹の会の掲げる基準からは、指導不可ということです。
 竹の会では、退塾というのは、よくあることです。竹の会から退塾を示唆することはよくやる。中学だと聡い親や子か多い。だから身を引くケースが多い。それは中学だと成績であからさまに出てくるから、親も納得しやすいし、子の勉強姿勢なんかも目立つ、少なくとも来たら寝ているというのでは、いずれ退塾となるのは目に見えている。
 小学生だと、わたしの指導方針と相入れなければこれは退塾ということになるが、模試で酷い成績を取って、消えるという子もいる。過去の例では、夏休みに、区の募集する海外ホームスティに参加して、夏を棒に振って、止めるとか、いうのもあった。竹の会の夏期などを休むのは、入試では、致命的な遅れとなって表れる。竹の会を一週間でも休むことの意味は普通考えられている以上に深刻なものである。
 あなたたちは、竹の会の内容を聞いて、よく眉をひそめました。生徒はただプリントをやっているだけ、質問できるのですか、最初からプリントなんですか、と。あなたたちは、授業とテキストと講師、これが揃わなければ、落ち着かないのです。問題なのは、子どもたちが、いかに「わかり」、いかに力をつけていくか、であるのに、こういう人たちは、設備とか、講師がどこの大学を出たかとか、テキストがいいとか悪いとか、講師が優しいとか、そんなことばかり言っています。あなたたちは、そもそも塾とはなんのためにあるのか、という肝心なところをすっかり忘れてしまい、わたしから見れば、どうでもいいとは言わないが、本質の抜けた判断をしている。
 竹の会は子どもを本当に伸ばすにはどうすればいいのか、これを長い期間、追求してきた苦悩の歴史に、今の竹の会の到達点がある。子どもたちを伸ばす、ただこれのみをわたしは追い求めてきたのであり、竹の会を見学して、大手と比べたのか、上から目線で言う母親、時には、父親はいくらでもいた。この人たちに何を語っても無駄と知っている。ある時から、竹の会は、竹の会の良さを宣伝することはやめた。学校説明会などでかつてはビラ配りをしたけれど、大手に行くと決めた人たちに、何を訴えても、糠に釘、暖簾に腕押しということである。
 わたしは、東京23区の皆さんに、このブログで、訴える、それしかできない、と悟った。一人でもいい、竹の会に、共鳴した人が、来てくれれば、そういう思いでした。今、竹の会に通っている子たちは、平均しても通塾に1時間前後かけて通ってくる。電車を乗り継ぎ、バスに乗ってやってくる。通うのが大変と入会を諦めた人たちもいますが、最近は、遠くから通ってくる、ということが、竹の会では、当たり前になって、そういうことを言う母親に不思議な顔をします。「この子が憔悴してしまって」などと言ってくる母親、「大きくなるまで地元の塾に通います、また大きくなったらお問い合わせします」などと言う母親、そういう人が後に来た試しはない。まあ、縁がなかった、母親にそれだけの気持ちがなかった、それだけのことですが、わたしには、こういう母親、子の辿る人生が見えてしまう。入会試験は、とても合格には程遠い、そういう子が、地元の塾に行けばどういう人生を辿るか。その他大勢の辿る人生です。この人たちは、地元の塾に通い、塾ならどこでも大差ないと結局考えることで内面の折り合いをつける。当面の便宜性を優先させただけの判断が、子の未来にどのような終焉をもたらすのか。問題の先送り、難題の回避という生き方、これを母親が、教育しているということ、この影響の方が怖い。こういう子が学齢期を終えて、どういう道を歩くのか。問題に突き当たると、困難であればあるほど逃げる、先送りする。そういう風に躾けてきたのは、あなたたちでした。あなたたちが、当座の便宜性を優先させた教育姿勢が、どのような結果をもたらしてきたのか、いずれわかるときがくる。母親が、子が入会試験を受けただけで、憔悴していると子の甘えを過大に受け入れる接し方、これは裏を返せば、来し方の母親の甘えを許す姿勢の表れであり、これは、これから困難に直面するたびに子のこれからのありようを規定することになる。母親の甘い判断が、子に、「あ、嫌なものは逃げてもいいのだ」、と免罪符を与える。これは人間の本性が、快楽的志向にあることと相まって、子は困難に会えばとりあえず逃げる、回避する、先送りする、ことを常とするようになる。母親は、困難に対するとき、子に逃げること、先送りすることを、教えたことになる。もちろん母親にはその自覚はない。
 教育とは、困難に対する処し方を教えることでなくてはならない。人生とは、困難の連続であり、だからこそ子どもには困難から逃げないで、立ち向かうことを躾なければならない。困難に立ち向かうとは、子どもに勇敢な行動を期待するわけではない。小学生が困難に立ち向かうことの実際は、ほとんどが、我慢することを内容とするはずである。我慢する、耐えるということが、教育の本質的内容をなす。
 過保護な親は、心配し過ぎて親が先回りして子の自ら困難に直面する場面を回避しようとする。子は判断して行動する機会をほとんど与えられないままに育つ。入会試験を受けただけで憔悴するというのは、これまで自ら判断行動したことがほとんどないことを推測させる。こういう子が「甘え」を中核として、人格を形成するであろうことは予測に難くない。これとは、逆に、親が、判断を受け持ち、子は従う、子に判断させない。しかし、子には厳しいノルマを課す、というのがあるけれど、子がかなり優秀なことがこのような親子関係を保持させているのであろうと推測させるけれど、子がいつか親の専権的判断に謀反を起こす日が来ることは確実に予測できる。
 かわいい子には旅をさせろ、とは、子に困難を経験させて、自ら判断の機会を得て、判断、行動、失敗を体験させよ、ということではないか。親は子にできるだけ困難に直面させ、判断させ、行動させ、失敗を体験させること、これが教育である。親が子の失敗することを恐れて、いや子はたいていは失敗するものであるから、先回りして、未然に失敗を防ぐ、回避する、などやっていたら、せっかくの子の教育の機会を親が自ら潰していることになる。子がすぐに「疲れた」と弱音を吐くのは、親が子から判断、行動の機会を奪ってきた、親の過保護の結果でしょ。それは子どもの判断ではない。なぜなら子どもはその親のせいで判断能力はないからである。しかし、親は都合よく、ここでは、子がそう言うからと言う。そうではあるまい。あなたが自分の考えで子を洗脳してきたからでしょ。
 実は、子がこう言う、ああ言うというのは、かような親の下では、子の判断、行動の機会を奪ってきた親の心を子が代弁しているだけなのである。親の、子があまりにも憔悴してなどという親の言葉を聞くたびにに、わたしはなんとも甘い親と甘えのシロップにどっぷりと浸かった子に、心からお悔やみ申し上げるほかない。
 親が先回りして、子に判断させない、ということをしてきた結果、子は判断する能力が欠落し、行動しない生き方をすることになる。親のリスク先回り回避のやり方が、子を消極的にし、何もしない、無気力、すぐに無理と言う、困難を回避する、何もしないでやり過ごす、そういう子に育てていることをいつか知る時が来る。昨今の独り立ちできない子の増加、引き篭もりという社会問題、働かない若者の増加、享楽的で刹那的な若者の増加、そうしたものが、子にリスクを負わせないという親の先回りの育て方と無縁ではない、わたしにはそう思えて仕方ない。判断しなくなった子は、行動もしない。親が当面の安全という安心と引き換えに子どもの将来を、判断しない、行動しない、人生に導いた可能性がある。いやそういう親のことだから、きっとまた先回りして、高校も、決めてやる。なんの変哲もない、並みの私立高校、並みの都立、学校出たら、よくて専門学校、たいていは高卒で社会に出て、どんな仕事につくのか、ここでも親が先回りしてやるのか。それにしても自分では、何もできない子にして、そんでええの?

 

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