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こっちの世界、あっちの世界

2021.05.22

◎竹の会通信2021.05.22

  ○2021年夏期集中指導

 参加するかしないかは自由です。定数は新型コロナ感染対策、指導の効率のため少数に絞っております。

◎こっちの世界、あっちの世界
 世界が変わる、という思考転換
 「ある数を1と見る」とは、「あっちの世界」の話しです。
 例えば、4/11(11分の4 →これから分数はこう表します)を1と見ると、4/11は「こっちの世界」の話しですが、1は「あっちの世界」の話しです。つまり、「あっちの世界」では、違う姿をしている。
 「あっちの世界」と「こっちの世界」の関係はどうなのか。これは「こっちの世界」から「あっちの世界」へワープするには、ある道を通らなければならない、ということも含めての話しである。「こっちの世界」を11/4倍したら「あっちの世界」へ行けるということ、それがここでの道ということになります。
 なぜ「あっちの世界」で考えるのか?
 一言で言えば、シンプルに考えることができるからである。思考経済、思考節約、というコンセプトである。
 考えてみれば、
 「あっちの世界」とは、ここでは、割合の世界、ミクロの世界のことである。私たちは、「こっちの世界」を自由に別の世界に置き換えて考えることができる。例えば、「あっちの世界」が、面積図の世界だったりする。
 日本の人口が「こっちの世界」では、例えば1億2500万人としたら、「あっちの世界」では、1人とシンプルにしてしまう。つまり、「あっちの世界」は、すべて全体は、1とすることになっている。全体を1とすると、毎年インフルエンザに罹るのは、1000万人だから、「あっちの世界」では、0.125人、つまり1/8となる。
 このように「あっちの世界」では、数字がシンプルなのだ。相対的大きさがイメージしやすい。「あっちの世界」は、全体は常に1とするから、その部分は、例えば、0.12とか、0.125などと表せる。そこで、これを分数で表すことにした。分数で表す場合には、常に分母は100とすることにした。これはなぜかではなくて約束です。
例えば、0.12は12/100と表します。これを12%と呼ぶことにします。%というのは、「パーセント」と読みますが、➗の記号を斜めにやや左手に回転したものです。そうです。%というのは、「割り算」の商を100倍したものです。0.12は、12/100ですからこれを100倍して12%と呼ぶことにしました。
12/100は100等分したものの12個ということです。分母を100にするのは、100等分だからです。だから%のことを百分率と呼びます。
「こっちの世界」の100等分は、現実の、リアルな数です。例えば、1250kgの鉄塊の100等分は、12.5kgです。「あっちの世界」ではとにかく全体はすべて「1」としてしまう。だから1の100等分を考える。0.01ですね。これを1%と定義します。1にするというのは、「こっちの世界」の全体で➗ことです。「➗12500」です。1/12500 です。
「こっちの世界」と「あっちの世界」を結ぶ橋は、1/12500 という橋です。

 わたしは、「こっちの世界」をマクロの世界、「あっちの世界」をミクロの世界と名付けました。

 「こっちの世界」「あっちの世界」という比較思考は、さらに思考の方法、思考の可能性を多様にしました。
 「あっちの世界」はいろいろでありうるということです。二つの世界を結ぶ橋の暗号、パスワードさえ、わかればいいからです。
 「面積図の世界
  面積図思考もまた別の「あっちの世界」の話しです。
  面積図というのは、長方形の面積が、「縦❌横」 であることを利用して、視覚的に、幾何的に、考えるものです。ここでは、ミクロの数、マクロの数、「比」などなんでもありです。とにかく面積に置き換えられるものなら、なんでもこれで解決できる。面積図を使う利点は、何を置いても、少ない情報で、思考を意味あるものにできるということです。不足を補うのが、面積図です。
 竹の会には、面積図を特集したレジュメもありますが、体系化して書こうとしたら、面積図だけで、一冊本を書けそうです。
 面積図は、まさに魔法の方法です。
 
 私は、算数は、「比」が絡むのが、一番難しいのではないか、と思うのですが、比の問題は、実は、数学と相性がいい。それで、比の問題は、どうかすると連立方程式になってしまう。というか、どうしても連立方程式ぽく解かないと無理という場面がある。ここのところは、私ももっと研究しなければならない、のだと思っている。比を幾何学的に「あっちの世界」で、処理できたら、竹の会の子どもたちの算数力もまた飛躍的に伸びるのかな、と思う。今、よく使うのは、比を線分図で、処理する技だが、もう少しお待ち下さい、もう少しで「あっちの世界」が、建国できそうなんです。
 
 算数を解くことは、思考力をつける、これは間違いない、と思うのですが、ただどんな問題でも闇雲に解けばいいというものではない。
 考えるに値する問題でなければなるまい。
 私は、これは思考にいい、というか、思考に役立つ、そういう問題を探すのが一つの仕事になっています。これはという問題はそんなには転がっていない。わたしの愛用するのは、みくに出版の過去問なんですが、あれは解答だけで解説がないのが、私にはいい。解答も、たまに誤答がある。私がいくら解いても合わないということがある。ここは第三者の意見を聞くしかないわけで、具体的には、他の会社の過去問とかを仕方なく買って調べる。それでやはり誤答とわかればいいがときには他社の解答も誤答ということもある。高校入試だと、わたしの場合は、市販解答よりもシンプルな、それでいて教科書レベルの解法で解くことを喜びとしていた。それで他社の解答をコピーして、わたしの解法と比べて学ぶようにさせた。数学の解法というのが、市販に出回っているのが唯一なのではないということを教えたかった。市販の解答が難しいと絶望する受験生たちを救いたかった、それだけである。
 私は他人の作った解答というのが、嫌いで、読む気にもならない。とにかく自分で納得のいくように解かなければ気が済まないのだ。
 だから解説のないみくにの通称銀本はわたしには最高の愛読書だ。名門校の先生方が作られた苦心の作をありがたく解かせていただいている。
 子どもたちの脳にいい問題を探し当てたときの喜びは筆舌に尽くし難い。
 私の指導の技術がどこまで上がるのか。私は、自分がいい問題を見つけ、それを解き明かすびに、一つの悟りを開いているような気がする。つまりは、子どもたちをより高いステージへ引き上げるには、わたしがまず日々これという問題を解いていかなければならないのだ、と思うのです。
 毎日が、発見。私がもうすぐ「比」について「あっちの世界」が建国できると思うのは、このような日々の試練があるからです。
 塾の先生というのは、自らの研鑽を怠ったらもう終わり、終わっている、と思うからです。
 灼熱の砂漠、そんなところは行ったこともありませんが、そういうところにもしいたとしたら、わたしは、水を求めて、とにかく歩くしかない。トボトボ歩くか、灼熱の砂を睨みつけながら、黙々と寡黙に足を引き摺るようにしかし力強い意志で、強かな精神で、歩くのか。私は仕事とはそんなものだと思う。

 竹の会というのは、指導、私制作のレジュメを使っての指導ということにつきる。近頃は子どもたちも指導というシステムに慣れてきて、飽くまで「考える」ことを前提に指導を受けるという姿勢が取れるようになってきた。他塾から来た子たちには、特に、大手はテキストを使った授業形式を取るからそれに慣れ親しんで来た子たちには、竹の会の指導に戸惑うと思う。しかし、子どもというのは、切りかえも早いし、吸収も早いから、そんなに心配することはないでしょう。

 大手はどうなのか知りませんが、竹の会では、季節講習は去年2月の新型コロナ感染の影響が大きく、去年から完全な任意参加になりました。参加しなくてもいい。自由です。というか、わたしは少数の子を静かに指導したいという思いが強く、参加を強制したくない、受けなければ受けないでいい、それが本音です。

 と言いますのは、最近のわたしの指導は、本当に何か医師の診察のようになっています。子どもたちに処方し、子どもたちが指示されたことをやってまた持ってくる。わたしは一人一人に向き合ってそれは真摯に診察しています。そして処方しています。子どもたちをじっくりと診てやりたい、その思いが最近特に強くなりました。わたしが指導すればそれだけ子どもたちができるようになる、それがわたしには分かるのです。

 問い合わせの中には「授業は何時間ですか」なんてのもありますが、正直がっくりきます。竹の会にはまず授業はありません。黒板はありますが、黒板を使って授業はやらない。一応塾ですから黒板は備えている。黒板はお茶の水女子大や東大で使っているのと同じものです。ここはこだわりました。外部のみなさんには、指導ということがわからない。これはしかたない。

 竹の会は医師の診察みたいなことをやっている。そして一人一人に処方する。こう比喩的に言ったほうがわかりやすい。

 

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