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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

さあ、これから始まる/やっと来た3月、春ももうすぐ/都立戸山に受かるのはそう難しくはない/日比谷・西対策をとる

2017.03.07

 3月の声を聞くようになって気温も上がりようやく寒さから解放されつつあることを実感しております。今日はやや気温が下がるとの予想でしたが、2℃前後を潜り抜けたきた身からすれば8℃前後はさほどでもない、どうかすると汗ばむのはやはりユニクロの功績か。とにかくも最も厳しい季節は抜けたのではないかと確信にちかい思いを抱いております。

 わたしの思うような指導を思うようにとらせてもらえばこれほどうれしいことはありません。それには親御さんの理解もさることながら、当の子どもたちの意識のありようこそが問われるでしょう。子どもたちの真剣度、真摯な勉強態度というものは、あげて態度に出るものです。不遜な態度、尊大な態度をとる子はだめです。子どもの慇懃な態度がその心情を語るものです。その意味では「これはだめだ」という子はいまして、そういう子が受かることはないことになっています。如何にデータは合格可能性を示していてもです。竹の会では、昔から、尊大な子が受かった例しがありません。27年桜修館合格者は常に礼節を重んじ、言葉遣い、態度は鑑でした。他の子がわたしに軽口をたたき、失礼なことを平気で言うのと対照的でした。落ちる子というのは学ぶ態度に問題がすでにあったということです。勉強に真摯に向き合う子は、自ずと私に対する態度も真摯です。勉強に真剣に悩む子、まじめに考える子、そういう子が受かるということです。

 ◎自分で解く、自分で考える、ということにとことんこだわって、初めて得られるものがある

 ここが正念場です。安易な方法に走ってはなるまい。正解を見て辻褄合わせをやるの愚、人の解き方を見て「わかった」の愚、人から説明してもらって「わかった」の愚、そういう愚の積み重ねが何をもたらすか、考えてみればわかりそうなものです。世の中には、自ら考えるということを放棄した人たちが溢れています。自分の意見として主張していることが、どこかでだれかが言っていたそれということはよくあります。そしてどこかのだれかが言っていたことは、また別のどこかのだれかが言ったことかもしれないのです。雑誌やテレビなどでだれかが言ったことかもしれない。わたしたちは、意識してか、無意識的にか、どこかで聞いたこと、読んだこと、見たことを考えたこととして言っていることが多い。自分で考えるというのは、なかなかに難しいことである。客観的な資料や根拠というものがないのに判断して憚らない輩が多すぎるのです。特に、果たして客観的な資料などあるのか、いったいどこにいけば手に入るのか、という深刻な問題に突き当たります。少しだけ救いなのはネットで海外の資料を検索することができるということでしょうか。テレビは今や政権の顔色を窺いながら都合の悪いことは自主的にカットして耳障りのいいことばかりを報道するようになりました。お笑いやバラエティーばかりではジャーナリズムとしては既に死んでいます。新聞はどうかと言えば、どうも翼賛新聞ばかりで私たちが真実を知る術はなくなっている。福島県が2月20日、原発事故以降、甲状腺がんまたはがんの疑いがあると診断されたどもが184人になるとのデータを公表した。2回目の検診でが甲状腺ガンと診断された69人の大半については、1回目の検査ではまったく問題なしとされていた。わずか2年のうちにがんが急成長したということか。感度の高いエコー検査による過剰診断の結果だとする意見が高まっている。ちょっと待てよ、今はどこの病院も検査検査でちょっと痛いと言えばすぐにCTなんかとるけど、このときの被曝量はレントゲンの6000倍と言われている。そういう論理を振りまく連中がなぜ現在の被曝医療には寛容なのかわけがわからん。だいたい原発事故から6年もたって、避難指示解除などというけれど、現状はそんな状態ではない。「ふくいち周辺環境放射線モニタリング」が公表している土壌汚染度の色分け地図を見たら、1m2あたり4万ベクレル以下の「青」なんかほとんどないじゃないか。それに福島県だけをとりあげてもなにもわからないのではないか。その隣接県の子どもたちの状況はどうなのか。検診のない福島県外の子どもたちの症状が、非常に重いという情報がある。肺転移などした重症患者の割合が多いことも言われている。そもそも放射性物質は県境なんか関係ない、数千万人を越える人々が被曝したという事実がいつのまにか風化させられようとしている。福島の事故の過小評価の一環として避難指示解除が行われたとしか思えない。新聞はほんとうに何も報道しない。当たり障りのないことばかりを取り上げている。書かないことが多すぎる。現政権の礼賛記事ばかり書いているような新聞を信ずる人などいるのだろうか。テレビはもはや体制に媚びることになにも感じないほどに麻痺している。一部の雑誌や出版物から得る情報、海外のネットから得られる情報、とにかく判断の基礎となる情報はかきあつめるしかない。

 さてかなり横道にそれてしまいましたが、飛び散った燃料棒の回収もできないままに6年の歳月が流れて人々が福島の現実を、深刻に悩むこともなく、差し迫った危険をわざと見ないようにしているように感じられて、思わず感情が昂ぶってしまいました。

 子どもたちの答案を採点していますと、どうも問題の字面とか、部分にとらわれてとか、表層部分しか見ていない、ということが目につくわけです。問題の本質というものがどうもとらえられない。問いというものが、というか、問いの深奥にある真の問い、それが結局出題意図というものですけれど、そういうものに答えるという答案がほとんどないわけです。幼いということがやはり大きいのかと思います。今考えているのはやはり語彙不足ということですが、確かに、語彙の多寡が思考に影響するということはあるのかとは思いますが、過去に作文にすぐれていたという子たちが特に語彙が多かったというわけでもない。ただ添削していて、目につくのは、幼さと未辱な思考ということですね。狭い殻の中からものごとを見る、そこからまず脱却することです。外から自分を見る、そういう姿勢がものごとの本質を見る目を養うことになる。自分中心に物事を見るのではなくて、自分を外から視る、そういうことです。

 ◎いきなり面談を求めてくる親、やたら「話しを聞きたい」と面談を求めてくる親には近寄らないこと

 正直やたら面談を求めてくる親というのは苦手です。本音を言えば煩わしいし、わたしには面倒臭い親ということです。面談を求めてくるのは、子どもがうまくいっていない、ということなのですが、面談など必要なのか、ということです。できない、あるいは失速の懼れあり、というのであれば、その塾は見限ればいいだけのことです。できない子の問題が面談で解決することなどないということです。そもそもわたしは「指導できない」子どもが「いる」ということを告白しています。特に、わたしが、入会試験をやるのは、子どもの能力を測るというよりも、わたしが「指導できない」子を予め振り分けるということです。それはわたしにはできないことだからです。そういうことをお構いなしにだれでも入塾させていつまでも通わせるというのはどう見ても詐欺でしょ。好んで大手に行く親ばかりですから、それは親の勝手です。騙されてというより、親の知慮が浅いということであるのが本当のところかもしれない。

 面談など必要ない。もし子どもができないというのなら、竹の会はやるべき指導をやっている、だから子どもの事情で失速している、そういうことです。ですから、竹の会に相談するより、竹の会を見限ることです。子どもができないという事態を面談で解決できることはないのです。また勉強に集中できない子、勉強にもともと興味のうすい子、周囲にやたら迷惑をかける子、やたらお喋りをする子、とにかく問題行動をする子を面談で解決なんてない。退塾して終わり、それだけのことです。

 この点は誤解してほしくありません。竹の会は勉強する気のある子にベストの指導をする、ありとあらゆる手を打ち、子どもを導くことに情熱を傾ける、それでもダメなら、わたしの手に余ることだから、退塾もやむを得ない、と言っているのです。子どもが勉強しないから、先生から言ってほしい、という親がいますけど、これは本末転倒です。勉強しないのなら竹の会にそもそも来てはならないのです。ですから親が止めさせるというのが筋なのです。わたしが説得していてもらうというようなことはありえないことです。

 毎月定期的に面談を求めてくる親、なにかとわたしの電話してくる親、こういう親はやはりなにかわたしには合わないものがある、わたしはそう思っています。

 

 

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