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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

そうだ、母と散歩をしたことがなかった

2017.11.04

 また12月18日がやってくる。母の命日だ。母がこの世を去ってもう10年になるのか、まだ元気な父がそんなことを言っていた。わたしが少年の頃の母はいつも忙しく生活を支えていた。幼稚園に入った頃のことは今でも映像として浮かぶ。わたしは梅組だった。ほかに松組とかあったけど忘れてしまった。幼馴染みのF君も同級生だった。彼は秀才で小学、中学と同じだったけど、高校は上野丘に行った。東大に行って郷里の大学の先生になった。若くして他界した。小学校の1年生に上がるとき、1から10まで数えられなくて父に殴られた光景は今も覚えている。母と過ごした小学6年間も瞬く間に過ぎてしまった。秋の運動会には母方の祖父がいつもやってきた。祖母と母が重箱にたくさんご馳走を作った。運動会と遠足はいつも前の日は眠れないくらい興奮した。母はいつも祖母に小言を言われて時には泣いていた。わたしはそれが悲しくてよく祖母に「母ちゃんをいじめるな」と抗議した。その祖母が死んだとき母は「お母さん、いままでありがとうございました」と泣き崩れた。祖母も年老いてからは「母ちゃんは」と母を呼ぶほどに頼りにしていた。わたしが九州大学に合格したとき祖母と母がテレビ中継でわたしの受験番号を見つけて二人で泣いたという話しを聞いた。母はわたしが高校1年生のとき、子宮筋腫摘出の大手術をした。年老いてから母は頸椎の大手術をして生死の間を彷徨った。年老いてからの母はいつもわたしが帰省してくることだけを楽しみにしていた。父が胃癌の手術をしたときは母と姉が付きっきりで看病した。父が生還して、強かに生き抜いているのに、母はある日突然余命1週間の宣告を受け、2週間後にこの世を去った、わたしはどうしても母の死を認めることができなかった。この世の理不尽を呪った。母はいつも2月の合格発表の日を心配してくれた。竹の会の子どもたちの合格をいつも喜んでくれた。母がいなくなってわたしは合格したことを知らせる大切な人が突然消えたことで心に空洞ができたことを感じた。次男が大学に合格したことも知らずにこの世を去った。長男が研究職として就職できたことも知らずにこの世を去った。次男が国家試験に合格したことも知らない。あなたがいつも心配ばかりしていた、あなたのかわいいな孫の行く末をいつも案じていたのに、伝えてやることができなかったのです。また12月18日、命日がやってきます。母さん、あなたにもう一度会えたらどんなにうれしいことかと思います。

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