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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

わたしは都立の合格を取りに行くプロである/

2019.03.15

 3月15日になりました。5日振りにパソコンを開くことができました。このところ家庭内の雑事で忙しくしていまして皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。

 ようやくインターネットの接続を確認したのですが、仕事周りの環境設定に時間がかかってしまいしまた。しばらく課題の添削も滞ったままで、ご迷惑をおかけしています。

 都立高校の発表があったのが3月1日でした。あの日はかなり緊張していまして、朝8時20分に家を出て、都立青山高校に向かいました。戸山高校のときとは、発表を待つ人たちの様子が随分と違うのに驚きました。遠くからそれとなく待つ人たちでした。戸山のときは、行列になって待ち、9時と同時に一斉に駈けだす人たちで混乱しました。青山の子たちというのは、何かおとなしい謙虚さというか、懼れを内に宿しているかのようでした。

 今年は、念入りに、わたしのやりかたで確認を取りながら、進めてまいりました。本番でとるであろう予想点もほぼ正確に予測できました。去年は過去問を母親が勝手に自宅で進めておりまして、わたしはなにもさせてもらえませんでした。ですから、当日点などまったく予測もできなかったし、まずもって過去問をやらせて、チェックしていくというわたしの得意なやりかたをさせてもらえなかったので、本番前日に理科の質問をされたこと、そして「えっ」と思ってしまったことが、ずっと頭から離れずに、不安が広がっていったことを覚えております。戸山のときは、Z会の資料を受験した子のお母さんが提出してくれて助かりました。そしたら翌年の戸山受験のときも文京受験の母さんがZ会の説明会でもらってきたと言って、資料を提出してくださり、とても助かりました。ただ最後は、実施年の問題の難易度、もちろん科目ごとの難易度と、当該生徒の本番の得点から、これまでの過去問の得点率を勘案して。推し量ることにはなります。この段階で「当確」と判断するわけです。

 かつては秘密主義の家庭が普通で、受験した都立まで隠していた母子もいましたが、これは唯一例で、普通は受験した後、本番の得点を報告してこない母子ばかりでした。ですから、発表当日まで「わからない」。ただ内申と過去問でほぼ合格見通しはあったのですが、当日点が「わからない」から不安はあったわけです。

 27年に戸山を受験した生徒が当日に自己採点して報告にきたのが、初めてのように思います。あの時は、Z会の資料から、合格を予測することができました。独自校は、共通問題用の模試が使えませんから、合格予測が特殊です。人それぞれにツールがあるのだと思いますが、わたしの場合は、Z会の過去の受験データが役に立ちますので、受験の親御さんは、是非Z会の説明会に参加されて、資料を入手して、わたしのほうに提出してくだされば助かります。わたしの独自の判定法は、過去問を年度単位に丹念に解かせて、データをとっていくというものですが、過去これで正確に予測してきました。ただこれには、生徒が正直に、問題を自分で解くことが前提にあり、もし生徒がズルをすれば外れます。過去そういう悲劇は何例かありました。隣の席のできる子に聞いて解いていたりとか、とにかく子どもというのは、いい点を見せたい意識があり、こういうことをやるものです。特に、親というのは、自分の子は正直だと確信していますから、子の言うことを100%信じて、塾は嘘を言っている、と非難するのが、常態でした。塾というのは、都合のいい親にかなり誤解されるということです。

🙆‍臭いものに蓋をする指導、勉強について

「わからない」というとき、わからないままに、正解を写して、何も理解しないで、終わったことにする。あるいは、解説読んで、実際わかったのかどうか、よくわからないけどわかったことにする。とにかく終わったことにして、先へ進める。これをわたしは、「臭い物に蓋をする勉強」と呼んでいます。とにかくわかったこと、終わったこととして先へ進めるわけです。
 実は、多くの塾も、教えてもどうにもならない子に対して、「臭いものに蓋をする」進め方をしている。一年も二年も塾に通って成績は上がるどころか下がっているという場合は、商売するには、当然の術なのかもしれない。
 こういう勉強をする人というのは、能力が足りない、ないから、ということがある。頭のいい人も、わからないというので、とりあえず前へ進める、ということはやりますが、これとは趣きが違うわけです。頭のいい人はとにかく問題に当たって考える、それでどう考えてもわからないから、蓋をしないで、先へ進めるわけです。後でもう一度考える含みがある。頭のいい人は、わからないということがどうしても気にかかかるわけです。そのまま放置しておけない。だから悩む。頭のよくない人は、悩まないで、もうすっかり忘れて先へ進める。しかし、わからないままに、進めることは、勉強しないのと同じである。蓋をする生き方は、常に最初のままだということであり、進歩しない生き方にほかならない。

わたしは都立の合格を取りに行くプロである

 水月移写 

 月無心にして水に移す 水、無念にて月を移す 内に邪を生ぜざれば 事能く外に正し

 何か、確か時代小説の中に出てきた一説です。こういう四字熟語があるのかもわからない。

 わたしは、この四字熟語に、学ぶ者の心のありようを見た。

 よくわたしは受かる子というのは、素直な子である、ということを言いますが、昔は、難関と言われた司法試験では、若い子が受かるとよく話題になりましたが、そういう若くして受かった人の体験を読むと、邪念というものがない、とても素直な人たちであことがわかります。自分流の「こういうやりかた」でないとだめとかいうものがない。こだわりがないのです。またそういう人は共通して指導者の言に忠実であり、自分の考えをはさむことなく素直にしたがい、受かっているということがわかります。

 昨今は、学歴の高い親御さんも多くて、一家言ある方もそれなりにいるわけです。ですからわたしが都立の合格をとりにいくプロであると言っても、あ、そう、でわたしの言うことなどたいていはしたがうこともない。勝手に模試を受けて親限りで進める、そういう自信家の親が多いわけです。わたしが部活はまずいと言っても、子も親もそういうことには耳は貸さない。好きにやるわけです。小学生の親だと、習い事や稽古事、野球、サッカーなどもっと自由です。こういう人たちは、わたしの言うことなど端から気にしていない。とにかくやりたいようにやっているわけです。ただプロの目から見れば、合格はない。しかし、当の親子は合格するつもりでいる。

 あえて、わたしは言う。わたしは合格を取りに行くプロである、と。そのわたしの言う言を蔑ろにする親子の結果はいつも変わらないのに。

 水月移写。受験の心構えであり、受験の極意である。

 今年も水月移写を実践した子は受かった。ただそれだけのことであった。

 

 

 

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