画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

トップ都立への道/小石川、両国、桜修館/指導の本質を問う

2017.01.21

 今日は朝から仕事に追われていましたが、その間隙を縫っての更新となります。正直今年の小6は竹の会の高度なレジュメというものをほとんど使えないままに受検ということになりましが、今年は新作を作るということもなく、やみくもに新作を作るということにも懐疑的なところでした。かえって入門期の子どもたちを指導したことが忘れかけていた本質に回帰する機会を与えてくれたようです。特に、入会試験の創作は有益でここから約束の「読み取り」という根源的な能力を問うこととそこから、つまり読み取った約束から実用性を問うことの2段階の峻別とそれぞれの能力涵養に関する治験を得たことは思わぬ収穫であったと思います。今後のレジュメ創作の方向性が明確に見えてきたことで、竹の会のこれからの指導に間に合うことができそうであることが心を明るくします。

 また本年は都立高校受験はないということで、改めてこれからの高校入試指導の手直しを考えています。まずトップ都立受験には内申が前提であり、9科目中少なくとも5が4ないし5個は当然として、もちろん最低でも4は前提である、ということは確認しておきたい。そういう要件が満たされるとしての日比谷、西もしくは戸山の受験である。トップ都立受験に求められるものは、バランスである。科目に好き嫌いを言う生徒はトップ都立受験には適しない。決して好き嫌いで勉強してはならない。満遍なく、卒なくこなすこと、これが重要である。27年、28年の戸山受験で見えてきたのは、独自問題の英語に苦戦したこと、苦戦の内容は、時間に長文を読み下すことに苦戦したこと、特に、英作文の訓練不足、この2点であった。これは当然想定していたことであって、わたしも中2の早期に英文の原書の和訳、英作文のための短文集の暗記といった手を打っていたものの、定期試験に忙殺を理由にわたしの指示は一つとして実行されることはなかったのである。英語の苦戦は当然に想定されていた事態といえた。こういう苦い経験をふまえて、本年の指導では、すべてレジュメ対応でわたしの手を煩わすこととした。お任せでは信用できないということである。高校受験などわたしの指示を忠実に実行していけば問題ないのに、わたしの指示を流す生徒が時としているのは困ったことである。英語を指示しているのに、数学をやりたい、数学しかやらない、これでは自滅のほかない。理社の手は早くから打っていた、指示を出していたのに、真剣に取り組まないというのでは指導などできない相談である。少なくとも竹の会にいて指導を受けるというのはわたしのどんな些細な指示も100%実行するのでなければ成功は約束できない。

 ◎もうひとつの大切な能力というものがあるのでは

 小4や小5が、計算の型の訓練に明け暮れ、次には、割合という概念の型(これは竹の会が創り上げてきた型なのであるけれど)の習得に明け暮れる、これはこれでいい。剣道でも芝居でも職人の技でも、まず型を習得すること、これが第一歩となることは問題ない。よく言われるのは「型を習得した上で型を捨てる」ということである。名人と言われる人になるには、型を突き破ることが必要と言われる。

 型を捨てるというのは、どういうことなのか。ある人は捨てても体が覚えている、という。とすると型は捨て切れてない、いや捨ててはいけない、と言っているようにも聞こえる。ここからはわたし流の解釈であるが、おそらく型を修練するというのは、もはや意識しなくても型が染みついてしまうこと、無意識の世界では根付いて生きていることを言うのではないか。

 無意識に覚え込ませることである。伸びる子というのは、ひとつの性向がある。単純作業をやらせたときにわかる。教えたことを何度も繰り返してやる姿勢があるかどうかである。器用な人間は要領がいいけれど得てしてこの能力を欠く。すぐに飽きて早くこつを教えろといい、合理性とか効率といったことばかり気にする。器用な人間はもちろん不器用でも名人になれるのは、本当に大切なものが、その姿勢にあるからである。なまじ器用な人間より、不器用な方がものになる、と言われるのはそこにある。

 たとえば、彫金では鏨(たがね)の使い方をまず覚えなければならない。たがねというのは、鉄、金、銀などを彫るときに使う道具のことです。これを使って藤の花とかの模様を彫り上げるわけです。この鏨の使い方を教えるとき、いきなりは彫らせない。まず、紙や葉っぱに穴を空けさせる訓練をする。道具が手に馴染み、手と道具が一体となるまで、続けさせる。それから木片を彫らせ、金に触れさせるまで5年はかかる。人がすぐ飽きて放り出してしまうようなことにも真剣に取り組んできたか、それだけを何年も嫌がりもせずに続けられるか。

 大切なのは、すぐれた才能なのではない。もっとちがう、何かほかのことである。師匠に言われたことを嫌がりもせずただひたすら繰り返す、そういうことである。わたしが小3や小4に「これをやりなさい」と指示を出す、このとき、単純作業であればあるほどすぐ飽きる、だらける、嫌がる、こういう子はそもそもの指導適性に欠ける、そういうことである。

 このところ新作の入会試験の問題を竹の会の子たちに試すことがよくある。それでわたしには「あれ」と思うことがある。教えたことはきちんとやる子、教えたことはできる子というのが、意外と「できていない」、苦戦しているということである。これはどうしたことか。割合の訓練を積み重ねてゆくことが思考を深めていることになっていないようにも見える。そこで気づいたのは、そういう子というのが、「読み取り」というところで苦戦しているということである。自ら読み取って理解するというところで未熟なことである。だから「教えられる」とよくできるのは、読み取りの段階で「教えられる」ということで、読み取りのところを省略するからである。

 わたしははっとした。読み取りに焦点をあてたレジュメというのは、これまで意識して創作してきたことはないけれど、実は、この訓練が必要なのではないか。これまで様々な視点から適性問題を切り込んできたけれど、これはもしかしたら能力開発の切り札になるかもしれない。そんなことに思いを巡らしている。

 ◎指導の本質

 先の例、つまり鏨の習得という例のことですが、そこでは実は指導ということのある意味本質的なことが語られている、と思うのです。いやわたしのとってきた指導というのが、まさにその鏨の例なのであったから。あることを習得させるために、技術を抽象化し、簡易化し、平易化して、訓練するということはわたしがよく使う手法である。逆算を訓練する前に、分数、小数込みの四則混合演算を徹底して訓練するとか、割合を習得させる前に計算を神にしておくとか、あらゆる指導の場面でわたしが使うのはこの手法である。まず型から覚えさせる、徹底して繰り返させる、体に馴染むまで繰り返させる、もう無意識が反応するまでに繰り返させる、そこから型を捨てる、そして型の意味を問う、そういう手順である。

 多くの巷の塾がダメなのは、こうした子どもの、いや人間訓練の本質に即した、手法をとらないからである。大手塾に行っている、そこで成績がいい、などという子で本物に出会った試しがない。親は大手でもどこでも成績がいいと安心しているけれど、わたしから見ればバカの養殖場です。まず子どもを訓練していない、この点で致命的です。大手の講師は、たいていは学生講師なのですが、指導の本質というものがわかっていないし、授業ということがそもそも意味がない。一斉の横並び授業では、指導の本質に即した手法なんかとれるわけがない。横並びを可能にする大手テキストの予習、復習に明け暮れて、いつしか知識偏重の悪癖が身につき、思考とは無縁の生活に堕する。こういうことに小4とか小5の大切な時期を消耗させる、世の親とは、いったい何を考えているのか、わからない。竹の会にやってくる、すでにして、取り返しのつかないほどにバカになった子をどれだけ診てきたことか、もちろん丁重にお断りしてきた。小3,小4,そして小5期の過ごし方がその子の人生の帰趨を決めることになる。いや大げさではない。訓練された小4、小5期を過ごした子は、受検に成功するとしても、失敗して公立中に行くことになったとしても、成功裏に勉強という生活を進めていくことであろうから、高校そして大学へと進む勉強人生を着実に歩むことになるであろう。高校受験で失敗し、大学受験で失敗し、就職で失敗し、という人生を歩まないために、小学から親は大手、地元塾に入れ込んできたのであろうけど、最後は、子どもの精神をどれだけ鍛えてきたかが、問われるのだということをだれも知らない。

 ◎この子はできるという強い思い込みが判断を狂わせる

 自戒しなければならない。子どもなどというものは、できないと思っていてちょうどいい。なまじこの子は秀才だなど思ってしまうと、本来しなければならない、様々な、細々とした手が打たれないままに、時を迎えて、その時に、「えっ、できたはずなのでは」ともはや取り返しのつかない事態に直面することになることは過去よく経験してきたことではないか。

 最後に信用できるかどうか、納得ゆくまで、確信のゆくまで、証拠を取らなければならない。指導というのは、最後の最後まで、信用ではなくて、客観的根拠で確認する作業にほかならない。わたしのレジュメ指導は究極的にはここにゆきつくであろう。

ページトップへ