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トップ都立高校への道/誤判断の構造/現代バカ親事情~古代の遺物/新小4募集中

2016.04.21

 なんとかブログ更新できそうです。早朝から雑用をこなしてようやく時間が空きました。今は、新しく国語と英語のレジュメを書くために、暇を見ては、関係の本を読んでおります。英語は、予備校講師の薬袋(みない)という人が書いたものを読んでおります。出てくる英文を訳す、それだけですけど、まあ、けっこう楽しんでいます。国語は、出口という、これまた予備校の先生ですが、この人の本を、というか、現代文、つまりは大学入試問題なんですが、こちらも楽しみながら、解いています。都立日比谷、西を受験する生徒のために会心のレジュメを執筆したい、とにかくそのために当分問題を解くことにします。解き続ける中からきっと何かヒントになるものが得られる、いつもそうでした、とにかく解く人の立場に立って一度苦しんで見る、それから考えてみる、・・。

 新中1のみなさんは、今は、とにかく英語に時間をかけてほしい。わたしが、渡した単語をとにかく覚えること、そのために苦しんでほしいと思います。それから、今、指導日には必ず実施している、文法レジュメ第1回から第5回まで、ミスなく、つまり合格はんこがとれるまで、繰り返してください。人称に応じて変化するbe動詞、be動詞の応答、一般動詞の変化と3人称・単数・現在のS、そういうところにまつわる様々な変化、そういったものをミスなく処理できるまで、今のレジュメを繰り返します。今、このときにこそ、それこそ何時間でも英語に時間をかけてください。竹の会の新中1のみなさんが、そろって竹の会の英語レジュメ・シリーズの波に乗って進められるようになることを心から願っております。

 あなたたちは、幸運な人たちです。竹の会という、高校入試では経験豊富な、指導を受けられるチャンスに遭遇したのですから。どこの塾でも同じだとは考えないでください。それを確かめるのは簡単です。竹の会を止めてどこでも塾に行ってみればすぐわかります。九段に合格した子のお母さんが、「外に出てみて、竹の会のスゴさがわかった」と申しておりましたが、そうだと思います。あなたたちは、毎日竹の会でやっている指導が普通の、どこの塾でもやっていることだと思っているかもしれませんが、竹の会がやる指導、織りなす指導は、ほかにはない、竹の会だけの、指導です。

 竹の会では、トップ都立高校をざす小学生(渋谷B)及び公立中高一貫校をめざす新小4(渋谷A)のみなさんを募集しております。

 このブログでも幾度となく訴えてきましたが、受検するにしろしないにしろ、小学生のうちに、きちんと最低限身につけておかなければならない、勉強の基本というものがあります。

 勉強の基本とは何か。まず、計算力です。正確無比な計算力を身につけることです。大手に通う多くの小学生は、計算力がない、貧困な人たちです。そんなことはお構いなしに適性類似問題ばかりやらせて、おそらく本番では、初歩的な計算を間違って落ちるという子も相当いるのではないか。計算もそうですが、割合をどれだけ理解しているのか、これもかなり怪しいものです。竹の会に大手からきた子たちで、割合を満足に理解していた子などひとりもいたことがありません。大手というのはそういう状態の子たちに難解な適性類似問題を解かせているようですが、そもそも自分で解けているのかどうか、講師が解説するだけで終わったことになっているだけなのではないか。わたしの経験では、割合を理解していない子に、本番の適性問題はまず解けないと思います。

 割合を理解する、理解したというのは、それだけの思考力の成熟をも前提として言っています。割合という枠組みを通して、思考力をつけていく過程こそ、小学の間につけておかなければならない大切な基本なのです。もっと言えば、思考力をつける過程というのは、勉強の姿勢、スタンスを確立させていく過程なわけです。家庭学習というものが、問われることになります。そういう姿勢まで含めて、小学生の間に、しっかりと習慣化しておかねばならない。

 そういうわけで、竹の会では、少なくとも小4の段階からこうした指導を開始するのが、もっとも適切とみているわけです。中学になってからでは、もう手遅れです。

 世の親というのは、失敗するような行動ばかりをとっていると思います。日能研、四谷大塚、早稲アカなど進学塾もいいでしょう。ただそういうところに行って成功する人というのは、ごく一部の天才だけです。私立中受験では、大量の落ちこぼれ、落ちこぼれ予備軍が、彷徨っています。エナや栄光はどうか。こちらは、できる子もできない子、いやわたしの印象では、大量のできない子たちが、公立中高一貫校をめざして集まっているようにしか見えないのですが、実際、わたしの周辺には、1年も2年も通って失敗したという人の話しか入ってきません。日能研のような進学塾もそうですが、エナや栄光といったところはさらに、計算がまともにできない、まともに正解を出せない、本人たちは「できる」と思っているだけ、割合も「できる」と思っているだけで、全くといっていいほどわかってない子たち、そういう子たちが大量にいると見ています。

 こういう人たちは、わたしがもっともそういう教育を施すべき時期である、小4から小5の時期を大手で過ごし、取り返しのつかないバカになっているのです。まともな指導をしていれば伸びたかもしれない子、もともとバカであったけれどバカが重症化してしまった子、そういうのがうようよいると思います。

 竹の会にきて、竹の会の指導を受けてきた子たちには、そのことがよくわかるはずです。大手で失敗した子たちを再教育するのは容易なことではありません。計算力から見直し、割合という概念を通して思考力をつけていくというのは、1年はかかる大仕事です。しかし、小6だと1年はないのです。しかし、思考力をつけてこなかった子というのは、やってみればすぐわかることですが、適性の過去問なんかまともに解けないのです。大手で過ごした1年、2年というのが、いかに大きな選択であったか。

 今小4のみなさん、もちろん親御さんですが、そのことを是非わかってほしい、と願わずにはおれません。

 世の中には、小学の間、塾というものに行かないという人たちがいます。受験はしないからということでしょう。こういう子たちが、そのまま中学生になって、相変わらず、塾に行かない、という選択をとり続けるとどうなるか、です。まず、そもそも小学の間に、勉強の基本というものをきちんと身につけてこなかった、ということが大きい。それから塾に行かないで、中学生になっても塾というものを知らないで、進学指導重点校、つまり日比谷、西、戸山、青山に「行きたい」などというわけです。そういう子の親というのが、古い、いわば古代の遺跡のように頭が固い。塾というものをどうとらえているか、ということであるが、それまで受験経験もなく、世の中の塾というものをまず知らないから、竹の会に問い合わせてきても、話しが全くかみ合わない。学校の授業のコピーのようなことをやってくれるところと、思っている節がある。

 まず、どこかの塾に行っていたという中学生が、竹の会にきて、まず自分のできなさ加減をいい加減に思い知るものであるが、これが、塾に行ってないとなると、学校で成績がいいという生徒でも、まずいかに塾、いや竹の会に通うということがすごいことなのかということを思い知ることになる。竹の会というのは、過去にも、学年1番という生徒がやってきて、竹の会のレベルを知って、愕然とするということがよくあったところである。某進学塾で2番という女子が竹の会の数学の名声を聞いて父親とやってきて、それから虜になったとか、中1のときサピックスで首都圏3番だった女子が、竹の会の指導に度胆を抜かすとか、そういう例をあげればきりがない。わたしは、平成十年代、都立高校の凋落、公立中学に学習不振児が溢れていた時代、バカ中学生を教えるのがいやでしかたなかった。世の天才、秀才を魅了してきた竹の会がそういう仕事ばかりやっているのが耐えられなかった。だからあるとき中学指導を止めた。募集しなくなった。塾にも行かない、行くのは、中3になって、そろそろ高校受験だからという、そういう手合い、親ばかりだった。わたしはそういう生徒を新宿や駒場などに合格させてきたのである。だから当時は、月から金まで毎日やった。夏だって10時間を25回こなした。それくらいやらないと間に合わなかった。特に家庭学習をまったくやらない子たちを塾に釘付けにしてたたきこむしかなかったのだ。

 今も塾に行かない、そういう親子が、わたしには古代の遺跡のようにも見える、そういう親子がたくさんいるようである。学校で、中の上、程度の成績で、「できる」と思い込み、ゆくゆくは、進学指導重点校に行きたい、などと宣う、おめでたい人たちである。こういう人たちに、竹の会のシステムなど理解できそうにもない。

 ◎誤判断の構造

 医者というのは、誤判断をすることになっている。この人たちの誤判断の精神的構造というのは、わたしたちが織りなす誤判断の反面教師となる。わたしはそう考える。

 医者が誤判断、誤診をするのは、医療というものがもともと不確実な問題、事象を扱うからである。人間は不確実なものに誤判断なく対処できるかと言えばこれほど困難なことはない。医師というのは、常にそういう極限的状況での判断が求められているわけである。ある報告によると内科医の誤診率は95%にもなるという。実際、身近でもわたしは紛れもない誤診を目の当たりにしてきたことがいくらでもある。

 わたしたちが、難病の話しを耳にするとき、よく1万人に1人みたいな話しを聞くことがある。これは統計データ、統計学的確率論であり、病気の診断では、欠かせないものである。

 ところが世の大半の医師というのは、この確率論をとらない、ということである。確率、統計からはそういうことになるけれど、「このことは個々のケースにはほとんど意味をもたない」と思考するのである。

 アメリカのある著名な医師、研究者が述べたとされる次の言葉がある。

 何の病気かわからず、患者が医師にかかるとき、患者も医師も、診断がつくまでは、それが珍しい病気かどうかはわからない。統計的な手法は数千人単位の集団にしか適用できない。個々の患者は珍しい病気にかかっているか、かかっていないか2つに1つだ。疾患の発症率は個々の患者に診断を下す際にはまったく参考にならない。

 統計学をまったく無視した言葉である。

 医師というのは自分の診断に過剰に自信を持つ傾向があると言われている。

  するとである。医師が他の病気を疑わせる症状に目を向けなくなったり、新たな症状が出てきても診断を見直さない可能性というものが、普通にありうることになる。

  これは、重大である。少なくとも被害を受ける患者にはたまったものではない。

  残念ながら、医師がとる診断というのは、その症例に対する治療は、過去の同様の症例から得られた知識をもとに選択するしかないのである。それ以外の診断は、実は、信用ならない。

  過剰な自信がもたらす効果としての2つのこと、すなわち、他の原因を疑わせる徴表に目を向けない、新たな原因の徴表を見直さない、これは、誤判断に共通の事情ではないか。

  過剰な自信とは、強い先入観念と言いかえてもいい。強い先入観念が、他の証拠に目を向けさせず、新たな証拠を見直さない、そのように脳を支配する。

  誤判断ということで言えば、数学の問題を解いているときに、難問だと、最初の思い込み、「これしかない」という思い込みが、迷路にはまる原因となることが多い。まさかと思うけど、試した基本的な思考に基づくアプローチが思わず成功することがある。こうなると、この問題を作った人は「すごいな」と思ったりもする。ただ、医師の判断の対象と違って、数学、いや入試数学というのは、予め正解のある事象を相手にしているから、不確実に見えても、それは確実なものなのである。医師の世界の誤判断とは自ずから異なるものがある。

  福島の子たちの甲状腺ガンが、放射能の影響かどうか、ということに関する判断は、どうなのか。チェルノブイリの統計を無視する御用学者、御用医師は、もともと過信の強い人たちなのであろうが、それ以上にほかの意図を感じるから、誤判断という場合の過失のニュアンスはなく、むしろ故意、すくなくとも未必の故意は見え隠れする。

 不確実なものを相手にするときの判断、これを過信でやられてはたまったものではない。

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 これは何の花ですか? ハナミズキ?

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