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2017.01.09

 おはようございます。昨日から冬将軍到来のようです。今日は久しぶりに熟睡できたようで目覚めると8時近くで頭がすっきりとしている、そういうことがあるのだと思い出しました。この冬期はわたしには正直過酷な日程でした。子どもたちがあまりにも熱心なのでわたしも気合いが入らざるを得ませんでした。冬期中はひたすら自分の体に不安を持ちながら無理をしないように気をつけてきました。特に、例年子どもたちからもらう風邪には警戒してきました。こうして無事この冬の指導を終えることができまして心より安堵いたしております。この冬にみっちりとやった子の伸びはあまりにも驚異的なものでありました。子どもたちが「割合」という思考枠を「できる」という喜びを実感しながらものにしてく過程はまるで絵に描いたような現(うつつ)としてわたしには見えておりました。このようなこがほんとうにありうるのか、いや現実にできているのだ、という驚きがわたしにはあります。わたしが長い間かけて作り上げてきた思考枠組み、思考力をつけるしくみは見事に開花しているではないか、そういう思いがわたしにはありました。

 ここまで来るのにどれだけ苦しみ模索してきたか、いつも子どもたちの戸惑う顔を目にしては、指導法の模索をしてきた日々でした。「割合」というものをどう子どもたちに「わからせるか」、これにはもう十年余りの歳月をかけてきたのです。ありとあらゆる指導案をレジュメ化しては試してきました。子どもたちの反応を見てはやり直す、また最初から製作する、そういうことの繰り返しでありました。あるしくみをどう説明したらいいか、いつも気にかかり、まさに昼も夜もそのことばか考えていたということもよくありました。今の竹の会で用いられている様々なレジュメはみな私が長い間苦しみながら作り上げてきた、珠玉の作品ばかりです。膨大な量の中学入試の問題から、指導に適する問題を拾い上げては、吟味してきました。過去問の中から名作を見つけたときの喜びは余人の知りえないであろう、わたしだけの喜びであったかもしれません。またそういう問題にだれも考えつかなかったような解法を思いつく、そういう楽しみもありました。算数を数学的発想で解くということが、どうしても受け入れられなかったのです。様々な算数に関する書物を読みましたが、数学者のピーター・フランクルさんがまたいろいろと中学受験のために算数書を書いていますけれど、あの人の本は算数書と言いながら、どうも数学で解いていることが多々あり正直使えませんでした。声の教育社というところがいまでは過去問集の大手ということになるのでしょうが、高校受験では、よく難解な解法をわたし流の平易な解法で表しては生徒に示してきたものでしたが、それに比べると中学受験の過去問集のほうは、比較的いいのかな、と思いますけど、それでもわたし流の解法のほうがずっと平易ではないか、とよく思います。かつて過去問の出版社の編集部の人から「過去問集の解説を書いてもらえないか」という依頼をお断りしたことがありましたが、実は、わたしは司法試験、司法書士試験などの資格試験の問題を創作する仕事を請けていたことがあります。LECという予備校ですが、あのときは、1問作ると何万円かいただきましたが、問題を作るというのは、その何倍もかけて解説を書くことも含まれる、のです。そしてひとつひとつの解法にはかならず根拠がいる、これが鉄則です。自分の見解ではダメなんです。学説でもダメです。判例と通達などの先例を示さなければならない。するとそのためには様々な文献をあたらなければならない。わたしはこのときの経験からレジュメの製作というのは、詳細な解説をつけることまで含まれるのだということを教えられました。わたしが灘、開成、麻布などの難問をレジュメ化したシリーズにはもちろん詳細なオリジナルの解説をつけています。解説付きの声の教育社のものは使いません。今は解説なしのみくに出版のものを使っています。他人の書いた解説を読むのが苦痛なのです。それに多くの解説が、後知恵の解説というのが気に入らないのです。試験場で難問に直面したときにどう解くか、これが問われているのです。世の中に出回っている参考書にはそういう後知恵ものが多いと思います。後でじっくりと考えれば、それは最初から答えがわかっているのだから、その答えからいい解法を考える、そういう解法なんか現実にはありえないのだから、役に立たないはずなのに、世の中の人は有り難がって覚えようとするわけですけど、陸なことはない。

 子どもというのは、どう導けばいいのか、そういうことは、長い指導経験の中から、機微に満ちた指導の妙というものがわかってくる、正確には体が覚えてくるものではないか、と思います。竹の会がこの指導法で成功しているのは、最高の教材によって、次の目標を示しながら、その手順を示していることではないかと思います。そしてなによりも余人の真似のできないのが、わたしの説明なのではないか、と思います。大手の学生アルバイト講師が束になってもわたしの足下にも及ばない、とわたしは思っています。なにしろ高校入試の過去問集だけで数百冊、中学受験を加えると一千冊前後の過去問集の蔵書があり、わたしが実際に解いて解法を開発してきた問題はもう膨大な量であるとしか、言いようがないのです。わたしはたくさんの英語や数学などの教材を執筆してきましたし、テキスト化もしてきました。特に、英語では、不朽の名作「新英語指導案」、「入試英語指導案」などの著作もあります。それにわたしには30年以上の指導経験があります。実際に子どもたちと接し実践してきた指導経験です。そのわたしが繰り出す「説明」である、ということを忘れてほしくないのです。

 字については、ていねいでいい形の字を書く子が成功する蓋然性が高い、に決まっています。小学生の頃には、どこの親もさまざまな習い事や稽古事に夢中ですが、それよりももっと大切なことがあるだろ、ということです。特に、男の子に多いのですが、字が汚い、読めないという致命的な欠陥をそのままに小学高学年まで持ち越してしまった、という子がいます。癖字というのは、字が本来の「かたち」の体を成していない、ということです。これに筆圧がない、字の止めと跳ねがない、などの子がやたらいる。これはその子の将来までも規定してしまっているようにわたしには思えるのです。「かたち」ができていない、止めがない、跳ねがない、これではどうにもならないでしょ。なにかと習い事、稽古事もいいけれど、重要なものが抜けていないですか、ということです。

 竹の会で成功するには、早退、遅刻をしないことは、あたりまえとして、やたら休まないことです。渋谷Aの子たちにはよくわかっていると思うのですけど、1日休むと竹の会ではあまりにもの「差」が出てしまうようです。一日夢中で指導を受けていると7時間もやれば相当に理解が進む、問題を解いては、指導を受ける、この繰り返しですが、これが7時間もやるとけっこうな量になっている、これを1日休んだ子が追いつくにはまず不可能なほどに差がついてしまう。それは一つ一つの問題を「合格はんこ」をとりながら進めていくというのが、必ずそれだけの思考時間を取りながらの蓄積であるので、そういう過程を後から踏む子には実は越えがたい「差」が厳然として積み重ねられてゆく。28年に「落ちた」子の中には、習い事と稽古事で1週間が埋め尽くされた子がいましたが、そのため課題の提出もいい加減でしたし、結局習い事、稽古事などに力が分散してしまい、受検ということに集中して取り組まないままにきてしまった、ということでしょうが、その子がやたら早退と遅刻が、そして休みが多かった。習い事や稽古事関連の早退と遅刻でしたが、お休みもそうで、そしてやたら家族がらみの計画もあったようです。竹の会を1日休むとどうなるか、ということを言ってきましたが、これが度重なると、推して知るべしではないですか。

 東京23区の小学生や中学生のお子さんをもつ、多くの親御さんが、竹の会というものを知らないままに過ぎていったことはありふれた事実なのでしょう。東京の渋谷、それも渋谷駅から徒歩で10分ほどのところに、竹の会はひっそりとあります。渋谷Aは、日曜日7時間、水曜日4時間余りの指導で、月8回です。定数は15~18人だけですから、23区エリアから募集するにしては、あまりにも小さい規模の塾です。塾と言っても授業などありませんし、講師の先生などもいません。わたしひとりが「指導」しています。世の中の地元塾やら大手塾というものに慣れた親御さんたちには、想定外の塾なのではないかと思います。既成の塾イメージで竹の会という塾を理解しようとする親御さんには納得のゆかないことばかりだと思います。授業があたりまえ、講師があたりまえ、教材があたりまえ、すべて「あたりまえ」できた人たちには受け入れられない、ということも想像できます。こういう中において、小4期に竹の会を選択された親御さんというのは、実に幸運でなかったかと私は思います。竹の会のような塾に巡り会えることは余程の偶然がない限り、そしてある程度の見識、信念をもたれた親御さんでない限り「ない」のではないか、そう思います。 

 竹の会のすばらしさ、凄さというものは、その出会いから実際に入会し、指導を受けて見て「悟る」ことですが、それは子どもさんにとっての素晴らしい出会いであり、素晴らしい将来のプレゼントであるのは間違いないとわたしは心より確信しています。

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