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ノートにとる勉強は、知識偏重に軸を置いたやり方

2022.05.30

 

 

ノートにとる勉強は、知識偏重に軸を置いたやり方

 「読む」を軸に勉強することで、広がる視点、心の余裕
 中高の間は、ノート型で汗をかくことも、必要なのかな、と思う。
 結局、高校受験、大学受験では、読む勉強だったことをすっかり忘れていた。大学のとき、司法試験を志した。知識の膨大さに心が動転した。人間の限界を超えている、このとき、これが常識的な反応だと思えば間違った方向へ進まなかったのだと思う。わたしの常識は、膨大な知識を覚えるのは無理だ、まではよかった。だが、そこから、知識を整理する、まとめる、つまりノートする、そういう結論をたちまち導いたところで、結局常識を外してしまった。ノートにまとめる、そもそもそれが常識外れだったのだ。
 ノート型の勉強は、ノートをとることに注意、いや心の大半を盗られ、思考する、頭で反芻するという、人間の頭の肥やしのやり方に全く反するものであったのだ。
 ノートをとっている間は考えていない。ただ写すこと、まとめることに心を奪われ、少なくとも考える、読む、という最も大切な脳の使い方をしていない。確かに、読み、それから理解して、咀嚼して、ノートにまとめる、という意味では、読むことはやっている。しかし、この読むは、根本的に、本来の読むとは違うのだ。どう違うかを述べる前に、ノート型の勉強の致命的欠陥を語らねばなるまい。それは、時間がかかること、綺麗なノートを意識すればするほど時間がかかることである。これは、時間の制約が前提の試験には、完全に背馳する欠陥である。この一点をもってノート型は試験に適さないと一蹴するしかない。
 読む勉強の薦め
 俗に7回読みというが、高校受験のときは、わたしは学校から与えられた5科目のテキストを17回以上回した。大学入試の時も同じで、このときは、50回は回した。特に、数学については、「解く」というより、「読む」だった。問題を読んで、すぐ解答を読んだ。使ったのは、Z会の通信販売で買った「数学I IIB問題集」。この問題集は、1ページに問題と詳細解答がセットで載っていて、全200問ほどの薄いものだった。わたしは最初から読んだ。とにかく読んだ。赤鉛筆で線をよく引いたかな。10回越すと問題を見ただけで、解の数式が頭の中に流れるようになった。その解の流れは、他の問題の解とクロスして、立体交差した。解が逆に、問題を支配する現象が頭の中で起きていた。
 ノートにまとめる型の勉強は取ってはならなかったのだ。
 本に、線を引く、書き込みをする、これは好みの問題と思う。一時期、司法試験でマーカーで色塗りして、定義とか、要件とかを、塗り分けることが流行ったけど、あれは若い合格者が体験記に書いたのがきっかけだったように思う。山口真由さんは、一切線を引かない派を公言している。初学者が最初から線を引くのは、何が重要なのかも判別できない段階だから、無意味に線を引くはめになる。それに線を引いていると、読むよりも線を引く、あるいは引いた線に注意が奪われて、読むことに集中しない憾みがある。
 わたしも線引きはしない派ということになる。高校受験のときも、大学受験のときも、主として、赤色鉛筆で線を引いたものだった。知識偏重のきらいがあったに違いない。知識偏重に陥ること、これが大敵である。俗に気が散るというが、読むこと以外に心を奪われる、これが気が散るの正体である。
 読むことに徹する。しかし、山口真由さんの言っているように、緊張して読むことはない。気楽に、気軽に読む、これが一番脳にいい。
 時間のかかるのはやはりまずい。その原因は、何をやっているか、目的が曖昧からか、わかっていないことだ。ここで目的というのは、学問、具体的な、民法なら民法とは何かのレベルの目的だ。何をしているのか、わからないとか、漠然としていると、何をやっていても自信のないものとなる。数学なら数学の正体を知れば怖くないと言うことである。正体がわからないと、時間を無駄にする。
 勉強というのは、時間勝負だ。
 ただ中学の間は、知識偏重型でもしかたない。ノートの取り方を修錬するのも悪くない。かつて「東大生のノート」なる本が出たことがあったが、研究型の勉強では、ノートは不可避の道具だ。わたしが言っているのは、受験、特に、難関受験を念頭に置いたものだ。

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