画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

ミクロマクロ誕生秘話

2021.01.09

 

 

●ミクロマクロ誕生秘話  

 「先生の説明は何を言っているのか全然わからなかった」  

 平成19年4月に入って数か月はいたのだろうか。ある小6の女子の言葉である。通分で手こずり、ベタな割合の問題ばかり扱った塾用の教材を使ってみたが、全く分からなかったのだろう。  確か、九段志望でやってきたのだと思う。 これまで中学受験など考えたこともない、したがって塾などというものに行ったこともない小6が、公立中高一貫校ブームに乗って、一気に押し寄せて来た、そんな時代でした。 わたしは、公立小の子どもたちの、特に、中学受験とは無縁の子たちの実態を初めて知ったのです。

 「よくできる」が8割以上ある子たちでも、学校のレベルをこなしているだけです。ただそういう子の中に、磨けば光る子が埋蔵されていたのは確かでした。  19年に集まった子たちは、レベルに達することが凡そ不可能な子たちがほとんどでした。そんななかで、翌20年に桜修館に1人でも合格できたことは奇跡に近かったと思います。   19年の子たちが、私に公立小の子たちをなんとかしなければと強く決意させたことに間違いはなかった。このとき小学校というのはいったい何を教えているのだろう、と強く疑った。わからないという子に、教師というのは、工夫も何もないのか、私は腹立たしかった。  20年の受検を終えてからわたしの工夫と研究の日々が始まった。   割合というものを考える日々だった。   考えてはレジュメを作った。棒グラフのように比較の図をかいて、右にマクロ、左にミクロの数を対照させてみたが、子どもたちの反応は鈍かった。  しかし、諦めずに、今度は、比較の図の問題をA4の紙にびっしりと書き込んで、徹底して叩き込む作戦に出た。これは一部の子には効果があったようで、少し先の見通しが見えたような気がした。変化を棒グラフで表し、比較する、しかも、メモリは、ミクロのメモリとマクロのメモリを対比させる。これはすでにミクロマクロ法の原型であった。このレジュメはかなり効果的だった。これに感動した子たちもかなり出た。しかし、よくわからないのか、表情が変わらない子もいた。

 ある朝、目が覚めてふと思いついた。拡大図にしたらいい! 私はすぐにパソコンを開き、原型図をかいた。今、竹の会の子たちがみな使っている、ミクロマクロの図である。  小学生に割合で悩まない、思考の枠組みを用意してやる。これがわたしの第一の目標であった。この枠組みで子どもたちが、思考の型を脳内に根づかせ、最初は型で考える。型に慣れてくると、型を土台に、自らの思考を組み立てるようになる。そこから伸びていく契機となる可能性も出てくる。私の期待は広がっていく。  

 23年、私の作ったレジュメはすでに膨大な量に達していた。23年は小石川と桜修館に合格。過去問合格法で育てた世代であった。そして23年の子たち、わたしはこれまでに作ったレジュメの中から適当に選んではやらせていた。いろいろやった中で特に「よかった」のが、ミクロマクロのレジュメだった、と算数に開眼した2人の男子が口々に言った。  

 ミクロマクロ法誕生の時だった。  ちなみに23年の指導は、過去問合格法でした。残念なことにその2人の男子は落ちました。受かったのは、予想外の子で、富士合格。両国を落ちた男子からは、高校入試を竹の会でやりたい、と懇願され、引き受けることにした。3年後都立戸山に合格。さらに5年後彼は一橋大の社会学部に合格した。  私は、公立小の子どもたちを救いたかった。それだけであった。  あれから歳月は流れた。竹の会は、24年5月念願の渋谷教室への移転を果たした。  

 いつか渋谷駅のそばに教室を出したい、わたしの変わらぬ夢であった。  大手のように資本なんてない、届かない夢であることはわかっていた。それでも私はずっとその夢を追い続けてきた。  わたしは、あの頃の子どもたちがもしいたら、今度は「先生、先生の説明が何を言っているのか、わかりません」と言われないのだろうか。  わたしの、竹の会の、追い求めてきた夢は、永遠に夢のままなのであろうか。  絶望的な子だと思った。しかし、今の竹の会の指導は、奇跡を起こすようだ。わたしにもそれがなぜなのかわからない。ある日突然にできる子になってる。竹の会の、私の指導には、私にもわからない、何かがあるのかもしれない。

  ある時期の私は、できない子は切り捨てていた。  できない子を教えるのに疲れたのだ。手がかかる、労多くして功少なし。  かつて竹の会には、落ちこぼればかりが来たことがあった。わたしの教え方が評判になってそういう子ばかりが来たのだ。ある母親は電話の向こうで「そういう子が専門の塾だと思ってました」といみじくも言ったものだ。わたしはもともとできる子を教えたかったのに。  その時に、そういう子たちが、能力を開花させることはない、と確信した。

  ところが、どうしたことか。竹の会で私が無理と思った子たちが花開き始めたではないか。  いったいこれはどうしたことなのか。わたしにもわからない。

  私のささやかな夢をわたしはひたすら追い求めて来た。  「東京の渋谷にいい塾があるんだよ」、  いつか23区の皆さんにそう噂されるようになればと夢中で頑張ってきました。

 竹の会は、夢を追う塾なのかもしれません。

ページトップへ