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レジュメの新境地

2021.02.02

 

 

レジュメの新境地
 去年の12月頃から作り始めた「合否判定レジュメ」というのがある。
 近来にない、最高傑作として仕上がった。もともとの趣旨は、受検生の合否判定用のレジュメ、つまり名称そのままであった。
 わたしが、合否判定で見ようとしたもの、それは、粘着質的な思考、思考を何層にも重ねた思考でした。一見もつれた糸のような事実をときほぐしていく、一枚一枚慎重に剥がしていくような思考であった。
 私はよく過去問集(みくにの銀本のこと)をめくる。私が、ハッとするようなアイデア、問い口、そういう過去問をわたしは宝物と呼んでいる。過去問集をめくるのは、過去問を作るために何人もの知恵を結集したことであろう、そういう知恵の結晶を手にする喜びである。わたしの気がつかない着眼、斬新な作問、時流をとらえた問題など、とにかく過去問集は飽きない。そこから私の創作意欲も刺激されることもちろんである。
 私は子どもの能力を引き立てる問題を作りたい。このレジュメをやれば、合格できる、そういう問題を作りたい。そういう思いから「合否判定レジュメ」は生まれた。作れるのは、1日一問かな。心に響いた過去問をまず自分で解いてみること、そこからである。何層にも重なった問題はいい問題です。思考を何層にも重ねなければならない、そういう問題を作らなければ意味がない。最初、わたしが、合格の手応え、証しを確かめるための問題として、制作を始めたが、いつしかこのレジュメで多層思考を育てたい、と思うようになった。それが、わたしの求める究極のレジュメとなる。
 私が、探していたもの、それは、合格をもたらす究極のレジュメであった、のだと思う。
 竹の会で、合格者が、必ずやっていたレジュメというのがある。「算数をクリアーにする」というレジュメだ。製作は、平成24年。このレジュメを使った子たち3名が翌平成25年2月、小石川、白鷗、桜修館に合格した。5名中3名の合格である。
 ところが、26年は、「算数をクリアーにする」をなぜか使っていない。この年、つまり26年、3名が受けて落ちた。うち2人は早稲田進学会の模試で成績優秀者の常連であった。このうち1人は白鷗補欠10番だった。この子は宝仙理数インターに行き6年後東北大に合格している。もう一人は、3年後日比谷と慶應志木に合格、慶應に進学した。この年なぜ「算数をクリアーにする」を使わなかったのか、覚えていない。私が、まだ「算数をクリアーにする」と合格の間に相関性を確信するまでにはなかった、というのがあるのだろう。この年は旧レジュメにこだわったりしてわたしが迷った年だった。その後の合格者を検証してみて合格者は、必ず「算数をクリアーにする」をやっている、という事実に気がついた。落ちる子たちはそこまで手が届かない、いややるのが無理だからやれなかった、というのが真実であった。
 すべて精魂を傾けて作ったレジュメであったが、効果から見ると明らかな違いがあった。おそらく私立中学受験型の問題か、適性型問題か、というところに原因があったのかと思われる。

 小6の指導を終えて、直近に制作してきた、レジュメが、思いの外の出来栄えで、単に合否判定という目的を超えた、思考の深み、綾の存在を確認する証憑としての機能を果たしていることにはすぐ気がついた。実は、このレジュメは一枚制作するのに、ほぼ一日かかった。というか、一枚作ったら、もう精魂尽き果てたという感じである。まず、問題選びから始まる。全国版過去問を一枚一枚めくって読んでいく、使えそうな問題を見つけたら付箋を貼る、そして今日作るレジュメのためにさらに一問を選ぶ。これと決めたら、まず問題を解く。じっくりと解く。それで一筋縄ではゆかない問題を選ぶ。自分で解いて見て子どもたちの考える能力、レベルを睨みながら、合格に必要な多層レベルの問題として、作り上げていく。特に、意匠を凝らすのは、解説である。みくにの銀本には、略解もしくは答えのみしかないから、ここは私の腕の見せどころで、とにかく図なんかを駆使して、時には色分けして、スッと頭に入るように、工夫する。実は、私は、多層問題を通して、問題、いや多難なる障害に対面させて、その難局にいかにあたるかを訓練したい。苦難の思考を経て、わたしの解説が一服の清涼剤たることを企んでいる。わたしの解説は一目見て「わかる」ことを最大の眼目としている。いつか中学生が、わたしの解説を読んで、訓練をしてきたはずなのに、「方程式が全くわかりません」と白紙でもってきたことがあった。この時、わたしは、はっきりと「だめだ」と思った。私の解説が全くわからないのなら、指導しても意味はない。その意味で、ここで親が塾を見限ることは英断と思います。
 私的には、2月からのレジュメ制作の方向性が既に決まっています。今年の指導の方針も既に固まっております。受かるレジュメを作る、その意思に迷いもありません。
 竹の会は、レジュメ指導の塾です。初期の指導はともかく、高学年になればなるほど、レジュメに語らせる、指導です。それは思考力が強かについてきたという前提があるからです。

 入会して、なかなか進捗が捗々しくない、相変わらずおしゃべりが止められず勉強に集中できない状況が続いているなど、今後受検レベルに達するか、不安がある子については、申し出ていただければ、忌憚のない、率直な私見を述べさせていただきます。その上、その後の判断をお任せしたいと思います。
 
◎恐怖が、網羅主義、完全主義に走らせる。
 人間の不合理な暴走は、たいてい恐怖心から、発している。
 合理的な行動というのは、前提に、冷静な判断がある。冷静な判断とは、利益衡量、比較衡量を軸とする相対判断である。
 この世の中に、絶対、唯一なものの存在は、想定の中に入らない。
 私たちを、不合理な行動に走らせるもの、それは太古の時代から、変わらない。恐怖である。赤ちゃんが、最初に示す感情は、恐怖と言われている。恐怖心は、太古の昔から、人間が生存してこれた、防御本能である。したがって、沈着冷静な、合理的判断というものは、恐怖心から解放されたところにある。
 太古の人間と違って、私たちは、生の自然の中に生活しているわけではない。自然の中に生活する場合は、それこそ恐怖心というものが、身を守る術になろう。
 私たちは、現代文明の、錯綜した価値体系の中に生きている。ここには、自然の中で通用する恐怖心はもはや害さえ及ぼす、つまり生存を逆に害する。
 合理的な選択とは、何であろうか。
 それは、比較衡量して、捨てるということである。
 ここでは、価値と価値との鬩ぎ合いが常に現実化してくる。
 よく美術品の真贋が、悲喜交々ドラマを生む。真贋を見分けることなどまず私にはできない。
 真贋というのは、過去に本物を鑑賞した人が、本物の記憶と比べでどうだということを判断するものである。あるいは知識というか騙された経験が豊富な人には 何かしらの真贋の違いというもののポイントがあるのであろう。しかし、本物を知らない人間には判断のしようがない。 
 そもそも一つの作品だけ見て、本物か否かを判断するのは、なんの予備知識もないところでは、できない相談なのだ。
 私たちは、日常常に真贋の判断、選択を求められている。
 先人の知恵は早急に結論を出すな、ということなのだが、時には、そうもいかないこともある。時が許せば、とにかく比較することである。凡人である、私たちができるだけ失敗を避けるには、判断に際して、比較することである。
 恐怖が、私たちの正常を狂わせる。私たちはそのことを新型コロナの感染拡大によって、知ったと思う。恐怖に狂った人間たちの行動を垣間見てきた。トイレットペーパーの争奪戦、マスクの買い占め騒ぎ、テレビが何度もスーパーに群がる民衆の映像を流すと、私たちの恐怖心は煽られて舞い上がる。マスクをしない人を吊し上げる、という考えられない行動が普通に起きる。
 それにしても何もしない政府であった。テレビは専門家という害悪たちと毎日恐怖を煽った。
もし私が首相ならプレハブでもいい、病棟を何百棟も建てただろう。医師を動員させる法律を作る。感染防止のためマニュアルを作る。医療器具を増産させる。救急体制を再構成する。休眠看護師を集めて訓練する。去年の2月から1年、時間はいくらでもあったではないか。それなのに何もしないで、不作為を決め込み、何もしない、どころか、毎日会食三昧、そんなのが政治家なのか。いや政治なのか。政治とは、国家百年の計、つまり「計」、少なくとも先を見越して、策を立てることではないのか。私たちはこのような無能な政治に生命の危険に晒されているのである。
 話しが逸れてしまいました。
 本題に戻します。
 私たちは、恐怖で、判断してはならない。恐怖に襲われた時こそ合理的な比較衡量をしなければならない。
 

 受検生のみなさん、試験は恐怖です。落ちたらという恐怖、そこから派生するさらなる増幅された恐怖。しかし、あなたたちは、原始時代に、生きているのではない。現代に生きるあなたたちは、少なくとも自然の脅威以外の、文明が作り上げた価値体系の、似非恐怖には、合理性、理性で立ち向かわなければならない。ちょっと立ち止まって、全体を見る、鳥瞰してみるということが必要なのです。
 

 

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