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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

世の中は名前でできている

2015.11.11

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。青い空が見えています。きれぎれの細い曇が朝の陽射しを浴びてやや焼けて見えます。気温はまだ13℃程度ですから日中は汗ばむほどかもしれません。これから風邪、インフルエンザ、マイコプラズマ、りんご病など流行る季節に入ります。去年は水疱瘡が出て感染・発病した小5が出たということもありました。わたしがインフルエンザに感染・発病したのは去年の12月頃でしたか。職業柄子どもたちから菌・ウィルスをもらう確率が非常に高い。感染しただけでは子どももまだ元気ですから塾にやってくる、それで移されるということが多いわけです。子どもたちが元気そうに見えてもいつ発病するかもしれないのが、細菌、とくにウィルスの厄介なところです。マスクに疑問視する医師もいますが、わたしはかなり有効と思っています。子どもたちが感染するのはたいていは学校なのかと思います。手洗い、マスクは、特に、受検・受験の子たちにはこれからは必需品です。とはいっても、今年桜修館を受検した小6が本番5日前に高熱を出しましたが、彼女は常にマスクをしていた、たぶん学校でも、となると過信もできますまい。

 竹の会では、「四字熟語」というレジュメがあります。四字熟語を毎回取り上げて、その意味、由来を史実から説きおこし、解説したレジュメです。それを200字ほどにまとめさせる体裁にしています。要領よくまとめるという課題ですが、なかなかできがよくない。意味を書かないで、由来、元になる物語の細かいところをくどくどと書く子が多い。まず意味でしょ、と突っ込みたくなるが、由来も「なるほど、そういうわけか」という風にはなかなかまとめてくれない。このシリーズそのものはすでに完結していて、確か、160ほど取り上げてきたと思う。 

 実は、この四字熟語シリーズには隠れた狙いもある。四字熟語を見てまず見たこともない漢字が実は意味ある字なのだということを理解する、そして史実に納得し、できあがった四字熟語に感心する。なぜ四字なのか、ということには疑問もいだかない子が多いけど、不思議ですね。中国の詩には五言絶句、七言絶句などという形式がありますが、詩そのものは起承転結になっているのは共通です。つまり、四つの単文が起承転結の関係にある。「起」の文から何か一つ象徴となる漢字をとる、「承」「転」「結」の各文からも同じことをする。するとどうしても四字になる。一般には、漢語というのが、一字一音節なのでどうしても二字で安定する、それで必然四字になる、ということがあるようです。そういえば二字の熟語ならたくさんありますね。

 四字熟語というのは、ある史実に、つまりストーリーに教訓を読み込んで四字の名称としてできあがったものが多い。物語に名前をつけるのはつけやすい。医者が病名をつけるのはどうなのか。近頃の患者は「原因不明」ということに耐えられないと聞いた。原因を特定できない、さまざまな症状の特徴を総称して「○○症候群」などととにかく名前をつける、病名をつけると、そこから共通の了解事項ができあがる。とにかく名前をつけたことで思考の整理はしやすくなった。名前をつけたからといって別に何も解決はされていないのだけれどもとにかく患者は安心するらしい。

 人間の名前の付け方ももともとの他と区別する符牒の意味を越えて、親の思い入れ、愛情表現の形式とさえされている。名前をつけることは他と区別する意味を越えて、特にその対象を特別の存在として認める意味がある。ペットに名前をつける心情も似た発想であろう。

 さて、今日はこのようなことを言いたいがために書き始めたわけではない。学問というのは、名前の体系であり、名前を理解することが、実は勉強ではないか、という私論を述べたかったからである。数学の名前の付け方は四字熟語とは逆である。数学は仮説の学問であるから、まずさまざまな仮説に名前をつけていく。そのたびにその名前に定義をする。数学が約束の学問といわれる所以である。ところが数学を不得意とする子たちというのはこの定義を疎かにする。定義を知らない、言えなくてどうして問題がとけるのか。

 理科の苦手な生徒は理科の重要な言葉を知らない。四字熟語並みに由来があるのにそれを全く知らない。理科はさまざな自然科学的現象に名前をつけただけなのである。「浮力」という名前の定義も知らないでどうして問題が解けるのか。理科ができない子は、社会もできない。なぜか。名前を疎かにしているからである。利根川という名前、三角州という名前、栽培農業という名前、名前を意味として考えてほしい。

 試験というのは、客観試験というのは、結局名前を書かせるしかないのである。だって勉強とは名前とその意味、由来を理解することだもの。もっと名前にこだわってほしい。なぜ、その名前なのか。あなただって自分の名前には特別の思いがあるでしょ。

 適性検査試験では、迷う、惑う、そういう問題を第一問にもってくる傾向がある。シンプルな構成なのに、何を問うているのか、問いの意味が理解できない、という事態を想定して問題を作っているのだと思う。そしてこの単純なトラップにまず半数の受検生がひっかかることになっている。問題の意味がつかめないのである。それで的外れの答えを書く。しかし、半数の受検生はしっかりと題意を見抜いている。出題者としてはそれでいいのである。だれにもわかるように作っていては選抜試験にはならない。竹の会の普段の指導でもよく問題の意味を聞きに来る子がいるけれど、問題を読んだ限りで誤解のないように作られているのが試験問題である。それを「どの意味か」と複数ありうる理解の特定を求めてくるのはすでにして本番でそういう事態に陥ったときに失敗するということを前提したスタンスではないか。

 勉強ができない、試験でなかなか成績がとれない、という子には、勉強というものが、「名前」であり、「由来」もしくは「定義」であるということを理解しない子が多い。

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