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両国、桜修館という選択/新宿、駒場~都立上位校とい選択/教育とは我慢を仕込むことである

2017.03.03

 おはようございます。実は今朝はもう6時前には仕事にかかり、今に至っております。ブログを更新するかどうか、一瞬迷いました。かかれば多分2時間近くを使うからです。ブログを更新したらすぐに渋谷のジュンク堂に行く用事ができまして、やや焦りながらなんとか1時間でまとめたいと思っています。

 わたしのブログを毎日訪問してくださるみなさまにはお礼と感謝の気持ちでいっぱいです。中には好意的でない人も読んでいることは承知しています。わたしなら価値観が合わない人の文など読む気もしないのですが、世の中には常識では測れない人がたくさんいますから。

 ◎「引く子」は大成しない

 よくわたしがよかれと思っていろいろと勧めることがありますが、必ず引く子というのがいまして、少なくともこういう子は勉強では成功する蓋然性が低いというのが実証されています。休日には一日十時間の勉強をと勧めてものってこない、どうもほどほどのところでなるべく楽をしていたい、という意識がはたらくようです。このほどほどの勉強というのが結局命取りになる。勉強にほどほどなどという選択肢はないのです。やるなら、ではなくて、今やれるときに最大限やっておく、少なくとも勉強に関してはこれがもっともベストな選択です。

 後から、もう少ししてから、試験が近づいてきたら、と真剣にやる時期を先延ばしする子はダメです。勉強というのは、今「やれる」ときに目一杯やる、これが正解なのです。よく小5までは習い事、稽古事、野球等は続けたいので、というのも勉強の先延ばしを言いかえただけのことです。総じて、こういう人たちに共通しているのは、それでも合格できる、という甘い認識です。しかし、勉強だけは決して先延ばししてはならないのです。今やれるときにやれる時間はすべて使ってでも勉強に専念、没頭しておく、これしかないのです。

 そもそも勉強というのは、やり出したら際限がなく、終わりがない、ということもあります。期限、期間を区切って、そこから真剣に取り組んでという類いのものではない。それは勉強に取り組むとして、その主体となる勉強する人の能力そのものが、長い間、しかも時間をかけて培わなければならないものだということが本質的前提としてあるからでもあります。先伸ばししている間、勉強を先伸ばししているだけと思っているかもしれないが、実は、その間、つまり長い先延ばし期間の間、思考力を培うこと、訓練を先延ばししていることにほかならないということです。そのことに気がつかず、今やれる訓練を先伸ばししていることの損失たるやはかりしれないものがあるということです。

 ◎教育とはがまんを教えることである

 わたしは学校教育というものをどうのこうの言うつもりは全くありません。いやむしろ小学校の若い熱心な先生方に自分の子がいろいろとていねいに教えていただきとても感謝しております。今の教師はモンスターママなどという言葉に象徴されるように、いろいろとクレームを言われることが頻繁と聞いておりますので、とても同情もしております。

 だいたい過保護家庭の子どもには家庭教育などというものはないでしょ。子どもが「欲しい」と言えばどんな高価なものでも買ってやるバカ親がそろっていますから、そういうところに教育とは何かなどという議論も虚しいことです。学校とは、科目を教えるところと信じて疑わないバカ親軍団は知識を買うために塾にやるという感覚なのでしょう。だから教師や塾講師などただの知識を売るだけの物とみて、尊敬などとい感情は持ち合わせてもいない。そういう親の子がまた尊敬などという観念を持つはずもなく、わがままに自分の主張だけを言い募ることになる。

 子どもというのは放置すればただのバカになる、これだけははっきりしています。塾にやらないということが、放置と同値なら当然ですが、仮に、家庭で通信を受けたり、なにやかやと参考書を買ってきて勉強していたとしても、実は、指導者のいない勉強ほど虚しいものはなく、結局放置に遠からずということになる。

 それなら塾にやることが正解かと言うと必ずしもそうではない。塾に任せて「放置」というのもあるからです。それに塾がいわゆる教育をしているかというとそうではないし、親もそんなことなど望んではいない。知識、情報を「買う」ためのところと塾を考えている。講師もそのための手段のひとつに過ぎない。だから講師に教育など頼んだ気もない。塾の良し悪しはあげて成績、つまり偏差値の如何にかかる。親は教育などに実は関心などない。偏差値が上がること、それしか頭にない。つまり、親は最初から子どもを教育などする気はない。勉強さえ一生懸命にやってくれれば、子どもの教育などどうでもいいのである。最初から教育などする気はないのであるから。

 こうして世の中に教育のないバカが溢れることになる。

 教育とは何か。わたしはこどもにがまんを覚えさせることと考えている。教育とはがまんを体験させること、つまり実践的なものである。字を書くのも我慢です。じっと机についている、これも我慢です。すぐ席を立ちうろうろするのは、がまんというものを知らないからです。我慢が利かないわけです。ひとつのことに集中できないというのは、がまんができないというわけですが、我慢というのは、自分を「律する」ことです。この自分を律することができない、というのは、依然として「幼い」、「ガキ」、「子どものまま」ということです。よく大人とは責任をとるかどうか、である、ということを言いますが、わたしもこのブログのほかのところでそう言った趣旨のことを書いたことがあると思いますが、確かに、それはそのとおりとして、ここでは新たな大人の定義をしているわけです。自己を律することができるのが大人である。そして自己を律することができるためには幼いときからその訓練をしなければならない。わたしはこの訓練をこそ教育と言っているのです。自分がほかにやりたいことをやらないで、つまり我慢して、自己を制御する、律することです。最低限この自分を律するということ、ここが訓練になります。欲しい物をすぐに与えないで我慢させる、これも自分を律する訓練です。我慢とは欲望のままに動こうとすることを制御することです。わたしたちは、子どもに自分を制御することを訓練していかなければならないのです。子どものわがままをそのまま許して放任していたらも自らどころか、他者による制御さえも機能しなくなるのは目に見えている。中学生になって制御できないバカにしてしまって、「親の言うことをきかない」、「勉強をやらない」、「ゲームばかりやっている」などと言ってももう手遅れです。親が言ってきかないのは、本人そのものに制御能力が欠落してしまっているからです。後からこの制御能力は決して教育などできないのです。

 わたしたちは子どもが自らを制御していくことを訓練していかなければならない。7時間勉強に集中する、課題をやりきる、解き直しをする、休まない、等々すべて自己を律する訓練です。我慢を体験させて、実践しているのです。

 

 

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