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事実の深層

2020.10.20

 

事実の深層を読み取るために算数を学べ

 人間は、実現する確率0.0000001のものを役に立つ0.9999999ぐらいに考えて、今を生きている!
 いわゆる夢というのは、多かれ少なかれそういう色を持っている。確率から見て無意味な宝くじが廃れないのは、人間の心が現実を見ない習性の故である。プラス思考というのも確率を考えないでいい方に考えようとすると人間の知恵である。そうなのである。人間は本来確率ではなく情緒的な判断をすることで困難な事態から来る精神的苦痛を躱してきた。それが実現可能性がなくても精神的な安定は保たれる。今は苦しくても将来はきっと楽になると信じてる今の苦難を耐えるのが人間である。それが今を生き抜く知恵なのだ。
 が、しかし、現実を、見ないで夢ばかり追うのはまずいわけです。いくら失敗を夢ですり替えるとしても、現実を見ない人間は永遠に夢を見る人生で終わります。
 現実を見ないというのは、言い換えれば事実を見ない、ということです。新型コロナの蔓延で、多くの人々が、事実を見ることなく、専門家、コメンテーター、有名人、識者と言われる人たちの見解に振り回された。ネットの嘘の充満したニュースを切り取った似非情報が実しやかに垂れ流された。私たちは、情報に助けられ、情報に毒されてきた。何が真実かわからない、そういう中で、浅はかな政府の判断にあきれてしまう。為す術まなく迷路に引き込まれてしまう。政府は正しい方向へリードすることはなかった。もはや賢明な政府、暗記試験を勝ち抜いてきた、優秀な官僚に、幻想を抱くのは、期待するの者などいない。政府は決して賢明ではなかったし、官僚は決して優秀ではなかったではないか。利権と自己保身にまみれて、かのアテネの衆愚政治をさながらそのままに繰り広げてられているではないか。
 それはここでのテーマではないので、これ以上は書かない。
 何がいけなかったのか。
 すべてが事実を見ないか、誤解するところから始まった。
 そう、私たちは、「事実」を読み取ることに、こだわりを持たなければならない。安易に他人の言動に振り回されてはいけなかったのである。たとえその他人が権威を嵩に着た大学教授であっても、その分野の専門家を自称する人間であっても、プライドだけは高い医師だからといっても、人を見下す高級公務員であっても、プライドの殻を纏った弁護士であっても、彼らが、お前たちに教えてやるオーラを発して話すことをそのまま信じては決していけない。まず、あなたたちは、事実を知らないのに他人の意見を権威を根拠に信じてはならないのである。私たちは自分の目で見た、自分が知ることのできた事実をのみ見なければならない。事実をどう解釈するかは、あなたの事実分析力にかかる。
 私たちは、事実をどうやって知るか、そこのところで悩まなければならない。
 事実の分析力を鍛えることは、もちろんである。
 竹の会が、算数を通して、事実判断を磨いているのは、その意味で、間違っていないと思っている。
 事実の読み取り自体なかなかに訓練を、要することである。事実は事実のありのままを読み取るのがもちろん基本である。しかし、事実は裸の事実としては存在はしない。事実は、何らかの社会的意味を纏って初めて事実としての存在を主張できる。例えば、台風の中心気圧が950ヘクトパスカルという事実は、気圧とは何か、ヘクトパスカルとはどのような単位か、そもそも台風とはどのような事実にそのような呼称がつけられたのか、など事実は予め人間社会が用意した意味体系の中で初めて意味を持つ。そうなのだ、私たちは事実を認識するには、言葉による意味を通して事実の存在を認識するのである。
 算数を学ぶことは、奥深いものである。算数の勉強をするのに、公式を覚え、解き方を覚える、という方法は、明らかに算数を誤解した人間のやることである。大手の塾に通う子たちが考えることもしないて、講師に習った公式、問題の解き方をノートして覚える、そういうことをやっているとしたらそれは何とも愚かしいことである。
 算数というのは、事実の読み取りの練習にこれほど適したものはない。事実の社会的意味から事実の背後にある事実、隠れた事実、語られない事実を私たちは読み取ることができる。国語の読み取りでは、「行間を読む」などと言われるが、書かれていない、事実を事実の背景、文章の論理的関係、著者の人生観、などから読み解いていく、ここは算数そっくりではないか。
 事実を読み解く、ここのところは共通しているのだ。ただ国語には、言語一般の教養、論理的な推論といった、特化した要素は確かにある。算数の場合は、算数的な事実に特化している。だから、国語力をつけるためには語彙を増やすこと、たくさん読んで論理的な読み方を鍛えていくことが必要である。算数なら様々な算数概念を理解して実用的な使える概念として具体化していかねばならない。しかし、基本は変わらない。事実を読み解くという基本は変わらない。
 算数を解くとき陥るのは先入観による誤判断だ。思考が壁に突き当たり堂々廻りする。迷路に嵌る。そういうときに助けになるのは、思い込みと全く関係のない、初歩的な疑問だ。なぜ差が出るのか、歩幅とはどう意味なのか、歩数って何なのか、動く歩道って何なのか、本当に初歩的なところから考えてみる。最初はそういうところから考える。とにかく、動く歩道なら動く歩道というものが、どのようなものか、考える。つまり、事実を考える。意味を理解しなければ始まらないということである。事実を考えるとは、事実の深層の意味を探ることである。事実は事実のままでは意味を持たない。生の事実は人間の目を通して初めて意味を持つ。私たちは意味ある事実しか認識できない。人間の大脳が事実を認識するには、私たちは長い間をかけて意味というものを大脳にインストールしなければならない。意味を読み取るソフトが出来上がるのは、漢字を覚え、新しい言葉を学び、書物を読んで論理的な思考を積み重ねていき、問題を考え、事実の読み取りの訓練をしていく、そういう中から、一つの、人それぞれの意味取りソフトが出来上がっていく。
 欠陥ソフトについて
 人間にとって、正確な事実の読み取りを阻害する、難病がある。この難病は、ウィルスに似ている。人間の脳にとり憑いて、正常な事実の読み取りを阻害する。このウィルスは様々な名称で呼ばれている。マルクスは宗教を麻薬と言ったとか、宗教は正常ならできる事実の読み取りがマインドコントロールによって、いわば人工ウィルスによって歪曲される。頑固親父は狭い、つまり脳が蝕まれている。噂で動く人たちの認識ソフトが壊れているのはもちろんである。「東大出てもバカはバカ」という本が出ているが、自分を頭がいい、偉いと確信した時点で認識ソフトは壊れている。
 私たちは偏見ウィルスからの執拗な攻撃から逃げ切ることはできない。人は何らかの偏見に侵されることは、感情、人情に支配されるのが人間であってみれば、避けられない。
 私たちは、等しくヴァイアスの水槽に浸けられている。私たちがヴァイアスに取り憑かれたことを知るのは意識がヴァイアスの存在に気づいたときだけである。

 「あっ、そうか」という言葉が好きだ。事実の深層を探索する人になる、そういう人を育てたい。子どもたちま口から「あっ、そうか」と出るとなぜかとてもうれしくなる。竹の会の算数はそのための道具として考えている。情報を提供してくれるみくに出版にはとても感謝している。

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