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余計なことをするのが人間

2021.08.24

 

◎余計なことをするのが人間(養老孟司)
 楽しいからやるのが基本(養老孟司)
 
 余計なことって、後からわかるものですね。客観的に見たらおかしい、必要なかった、そういことって、よくあります。
 余計なことは、本人、親の主観で、なされるわけです。後から落ち着いて考えてみたら、必要ないというか、無駄なことだったということですね。

 これが国家の行為だとしたら、どうなのでしょう。
 アベのマスクは、余計なことだった。あれはやる前から余計なこととわかっていた。
 オリンピックはどうだろう。今の感染爆発は、オリンピック開催期間に感染した人たちである。これを関係ない、印象論と言う知事は、それこそ印象論で述べている。
 国家は、余計なことをやる。大義を謳って利権を構造化するから、彼らにとってだけ余計どころか必要なことなのだろう。しかし、国民には余計なことである。
 新聞、テレビは、余計なものにならないのだろうか。
 受験、受検と余計なこと
 中学なら部活は余計なことと思う。部活をやることのメリットってなんですか。青春を燃やすことですか。青春を燃やして、将来は棒に振る。わたしには、そう見えます。無理ゲー社会って知ってますか。

橘玲「無理ゲー社会」「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得するという困難なゲーム(無理ゲー)をたった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。誰もが「知能と努力」によって成功できるようになったことで、社会は「知能の高い上級国民」と「知能の低い下級国民」に分断される。

 無理ゲー社会で生き残る、それには勉強しかないんです。
 東大の子は東大! 世の中の仕組みはそうなっております。
 勉強は、もちろん余計なことではありません。もちろん無理ゲー社会を生き残るという基準に照らしてです。
 ゲームに明け暮れる、そういう人たちもいます。これは余計なものという以上に本来の生き残る道を根底から破壊するものです。
 部活、習い事、稽古事、スポーツ、みな余計なことです。
 余計なことは、あなたたちの周りに溢れています。

 加えるのか、あるものをさらに深めるのか、これはなかなか悩ましい問題です。

 竹の会では、よく親の干渉というものがあります。これは子どもに対してです。なかなか理解が進まないので親が教えるわけです。そんなのはすぐわかります。わかってないのにできたことにすることになる。これば指導妨害です。受検直前にはよく親が指示してわたしの指示を流すということがあります。これはたいてい不合格になっています。
 それから、少なくとも竹の会で指導を受けるなら、市販の参考書は、余計なものです。
 親が買い与えたのか、中学だと自分で買ったのだろう、参考書見ながらレジュメの問題を解いている、これはわたしの想定しないことです。
 余計なこと
 親の干渉
 親の口出しほど害なものはない。まあ、落ちたら、親が責任を負うのだから、別にいいのだけど、だったら落ちたことを悔やまないでほしい。親が自分のやりたいように進めたのだろ、と言いたい。法事帰省、盆正月帰省、習い事、稽古事、スポーツなど親の決定で進めたのなら、落ちたことを悔やむことはない。
 また時として、メールをして気に入らないということを言われる親御さんがいますが、竹の会には、そういうことではなく、退塾で構いません
 成績、進捗状況を尋ねてくるのは、現状がよろしくないという認識があるからでしょうが、これも竹の会では、退塾します、でいいと思います。
 竹の会は、全力で、現在ある知能の状態を精査して、その能力段階に応じた処方、処置を講じているのであり、手抜きなど一切ない。だから進捗がよろしくないのは、子どもの能力のせいである。それが不満なら即退塾を申し出ていただければと思います。
 竹の会は、生の子どもの知能、学力と対しています。「わからない」、捗らない、こういうとき、わたしは、診断を繰り返し、適切な指導法をあれこれ腐心してレジュメを作ります。だから竹の会の初期指導では、これまでの処方の結果、作られた処置レジュメが、様々な知能レベルに合わせて、作られてきましたから、様々なレジュメがきめ細かくあります。
 
 養老先生は、楽しいからやる、と言われています。確かに、そう思います。ただそれは子どもたちの知能によって明らかに違ってきます。知能の高い子は、よくわかる、だから面白い、という流れになりやすい。知能によっては、わからない、だから面白くない、ということもあるわけです。だから竹の会は、小さなわかるという経験の積み重ねから、少しずつ面白いという感情を引き出すような指導をして来ました。わかるの積み重ねが、面白いにつながることは、わかっているからです。
文字が書けない小学生の増殖
 筆圧がない、字の形が体を成していない、これって親の責任ですね。小1前後に厳しく字を躾けること、それをやってない。おそらくほったらかしだったと思うんです。これって、小学高学年になるももう手遅れなんですね。そういう子をたくさん見てきましたから。
 ただ字と知能は関係ないです。

 塾とは、何か。
 私がいつも考えてきたことであった、
 大手崇拝の親が圧倒的多数の東京において、塾が機能していない姿を嫌というほど見てきた。
 テキストを与えられ、予習をして、授業を受ける。帰ると復習をする。そして予習をして次の授業に備える。そこには、学校と同じ形態が、塾でも当然に同じように進められていた。そこに、何の疑いもない。
 こうして塾でも落ちこぼれが当然に出てくる。
 進学塾は、試験を実施し、能力別にクラス編成をして、落ちこぼれをなくすことを目論んだ。しかし、志望校のレベルが高いほど、落ちこぼれが出るのは必然であり、大手塾には、落ちこぼれが滞留していく。落ちこぼれなりに、難関は諦めきれず、受験をするから塾は儲かる。大手塾にとって、格落ちの私立受験生は、経営を支えるお客様である。頑張れば合格できると気持ちを繋いで貢がせる、これが大手の商売である。
 竹の会には、昔からこの大手落ちこぼれがよく来た。だからわたしは、そういう子たちが、それほどバカではないこと、やり方さえ間違ってなければ、決して落ちこぼれることはない、ということをよく知っている。
 竹の会は、考える、ことを重視してきた。しかし、大手から来た子たちは、「考えろ」と言うと、たちまち困った。何をしていいのか、わからないのだ。これまで、わからないというときは、説明をしてもらう、テキストは、授業で説明を受ける。わからないときは、質問する。そういうことでつつがなく過ごしてきたから、考えろ、というのがわからない。わからないものはわからないだろ、というわけである。だから、テキストを開いてただぼーっと眺めているだけだ。考えるとは、ぼーっと見ていることと思っている、ふしがある。困った顔して、いつしか寝てるということもよくあった。
 ただ考えろ、と言っても、何をしていいのか、わからないのだ。知能が高い子は別として、考えるということが、わからないのだ。
 ただ漠然と考えろ、では、考える指導とは言えない。
 大手の子のように、まず授業で説明を受けてきた子たち、それからその授業の説明を考えるなりしてきた子たちには、まず説明がなければ、考えようがないのだ。
 竹の会の子たちは、まず計算で、抽象思考の洗礼を受ける。計算をマスターするとは、形式的な抽象思考の訓練を潜り抜けたということである。
 計算をマスターした子たちには、私は、これからを思考という利器で乗り切るための、思考の枠組みというものをまず与えることとした。私が開発したミクロマクロによる思考方法である。これは、BS、つまりバランスシートの思想にヒントを得た思考枠組みである。わたしは、BS思想を割合の概念に持ち込んだ。竹の会の子たちが、比較的すんなりと割合をマスターしていくのは、このお陰が大きい。実は、竹の会の割合指導から始まる算数指導は、画期的な、驚異的なものであり、それを知るのは竹の会の子どもたちだけということになる。この割合指導で、思考の核というか、枠組みを体得した子どもたちは、考えろ、という前に、もう一度考えます、とさっさと席に戻るようになる。子どもたちが、ミクロマクロを使おうとしていることは、予測に難くない。ただ、算数の大海は簡単には乗り切れない。次第に子どもたちは、図を書くこと、図で解くことを発見していく。算数は図で解く、これが竹の会の次のステージである。子どもたちは、まだ面積図の便利なこと、これが使える道具だということをそれほど実感していない。ダイヤグラムもなかなか使える。子どもたちが、いつまでもミクロマクロだけに拘泥することなく、さまざまな算数の発想に気づくこと、これがわたしの指導の実は本当の意図であったことを知る時が来る。

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