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公立中高一貫校受検は逸材の発掘/中2病にかかる子に日比谷、西はない/越えられない能力の壁というもの

2017.06.21

 おはようございます。今日は午後から大雨になるという予報です。生憎「渋谷A」の指導日ですが、これまでに台風や爆弾低気圧、大雪で臨時休業はありましたけれど、さすがに雨で休んだことはありません。小学や中学では移動教室の時期で竹の会の子どもたちからもそういう届けが頻繁です。

 昨日はほんとうにいい天気でした。天気のいい日はなるべく歩くようにしたいと思っております。人間の体というのは使わなければどんどん衰えていくというのは経験則に測っても然りで、末永く指導を続けるには体力の維持こそ寛容なのかなと自戒してもおります。それにしても人間の筋肉というのが常に地球の引力、すなわち重力を前提としてその強度を保っていたというのは驚きです。重力に負けない、反発する力が源泉だったとは。考えてみればわたしたちは、反発する力を生きる力に変換してきたようなところがあります。原発を率先して進めてきた読売新聞の正力オーナーでしたが、ここの記事は事実の報道としての新聞の生命がすでにしてない。昨今新聞離れが急速に加速しつつありますが、往時の読売、朝日で800万部以上と言われた購読者数は今では600万部を割ったと言われております。インターネットの普及で特に若い世代では新聞は読まれなくなったと言いますが、今朝日を支えているのは、いわゆる団塊の世代であると言われておりますが、新聞が御用化すればそれは新聞の自殺行為、自滅行為ではないか、自らの寿命を縮める行為を厭わない、特に、まるで自民党の機関誌のような読売新聞がどうして生き永らえることができようか。驕れる者は久しからず。東芝の没落はバカな経営者と無責任官僚では折り紙付きの経産省との護送船団が招いたことにほかならない。原発などというアメリカでは下火の火中の栗を拾い大火傷したのはいいけれど大手企業と安心して人生を託した大勢の東芝社員とその家族を路頭に迷わせることになった。バカな経営者という一言で片づけるにはあまりにも重い顛末ではないか。

 ◎越えられない能力の壁について

 竹の会の入会試験に不合格となるのはある意味能力的な限界の所在を示唆している。ですからいずれその限界が顕在化する時がやってくる。いや合格したという子たちでも実はそれなりの能力の限界というものがそれぞれにあるというのが経験則です。わたしがもっとも真実性が高いと確信しているのは、小4早期にA合格以上した子です。この子たちについては、自らの持って生まれた天賦の才の力によって道を切り拓きながら前に進み高いステージにいずれは達することになる。小5だとどうか。仮にA合格しても中に逸材が含まれる確率はそれほど高くないと思います。竹の会では、特に、小4早期の子たちについて、仮合格なるものを設けています。A合格ができなかったのだから当然壁の存在は想定しております。問題はそれがいつ顕在化してくるか、です。小5の2月以降、適性指導が始まって「合格はんこ」がとれない、というのは指導困難な状況に立ち至っているとみて間違いありません。自分で考えて解く、という基本のスタイルがとれなくなった時点で指導は止めるべきなのが本来なのでしょう。ただ本人の「受検したい」という純粋な気持ちに応えてやれないという苦しさは残ります。本来受検勉強は思考の訓練になり仮に落ちても中学でやっていけるだけの思考スタンスは身についているというのが理想なのですが、受検段階で自力で解けない、というのは思考の訓練にはなっていないのです。こういう子は受検などやるべきではなく、早期に高校受験の準備段階としての思考スタイル、勉強スタンスの訓練に専念させたほうがいいに決まっています。敢えて受検を通せば結局落ちるとして、中学でも使えないという事態に陥ることは自明のことなのです。入会試験に合格した子たちにしても一様ではあり得ません。そもそも課題をまじめに出せない子たちが必ずいます。そういう子たちが成功する確率は低い。もちろん志望校にもよります。富士とか白鷗レベルなら課題の提出率がよくない子たちが合格した例があります。能力的にも入会試験では準合格しかできなかった子たちです。そもそも竹の会の指導内容のレベルが高いということがあるようです。竹の会でついてこれないということで退塾にした子が他塾では算数1番だったという話しを聞いたことがあります。わたしは他塾を信用しておりません。特に、大手塾に通う子たちというのはバカばかりだと思っています。もちろんトップ層にはできる子たちもいるのでしょうけれど、大手でたとえば2000人ほどの20番前後にいる子たちの力がどんなものか、よく知っております。そういう子たちが竹の会の入会試験を受けた例があるからです。準合格がぎりぎりでした。さすがに不合格点はいませんでしたが、たいていの大手の子は竹の会の入会試験に合格できない、と見ています。大手に1年通っても2年通っても竹の会の入会試験に合格点どころか、ほぼ0点なのですから、推して知るべきでしょ。

 桜修館や小石川、両国はバカでは受かりません。私立難関中学を受験する子たちの有力な併願先だからです。小石川はおそらく80%前後が私立難関の併願者でしょう。芝中とかに受かる子たちが大挙して集まります。大手の都立対策の塾なんかに行っている子たちが、こういう猛者たちに敵うわけがないのです。小5になってそれまで大手塾に通っていた子もふくめて、勉強らしい勉強もしてこなかった子たちが「小石川に行きたい」などと天真爛漫に言うのは構いませんが、これをまともに受け止める親というのはどうかと思います。親も無知すぎるのです。私立難関をめざす子たちというのは通常小4から進学塾に通い週3とか、週4の授業を受け、春、夏、冬には講習に通い、1年間勉強三昧で過ごしてきた子たちなのです。そういう努力の虫たちのことは頭にもなく脳天気に「小石川に行きたい」などと言ってほしくない。

 大手に通う子たち、いや地元塾だってほとんど同じでしょうが、バカばかりです。学校の優等生ならまだ救いがありますが、そういう子たちだって大手に1年も2年もいれば完全にバカになっているはずです。子どもというのは、能力を引き出すような訓練をしてあげなければたちまちバカになってしまいます。タイミング的には小4の4月前後が勝負です。たとえば、小4の1学期に大手に行けばもう取り返しのつかないバカになる。この時期に、つまりまだ頭の柔らかい時期に、能力を引き出す訓練をすることです。わたしが小4早期に竹の会にきて入会試験に合格できなかった子たちに仮合格を出しているのは、こういう子たちを訓練するタイミングはこの時期しかない、時期を逸すれば取り返しがつかなくなる、と考えているからです。

 竹の会のわたしの指導はこういう子たちに「できる」という意識を芽生えさせるはずです。ただし、その芽が順調に伸びていくのかどうかは保証の限りではない。それほどわからないということです。小4前後ではわからない。ただ暗雲とかの兆候はある。そもそも入会試験に合格できていないのだから当然に暗雲はある。伸びてくるのは50%か。仮合格とはそういうものです。まして不合格となるとさらに成功の蓋然性は低いとみなければならない。

 そもそも竹の会の指導とは何か、何が大手のバカ養成装置と違うのか。

 わたしは指導とはストーリーの吹き込みだと思います。子どもたちに何かを教えるというのは子どもたちの中にストーリー性のある言葉を吹き込んでやることなのだと思うのです。小数の計算のストーリー、分数のストーリーというものがあるわけです。割合ならもちろん割合のストーリーというものがあります。竹の会の子どもたちはみな「ミクロの世界」とか「マクロの世界」とかを作り分けてストーリー構成をするようになります。割合を考えるのに、そういう舞台を頭の中に設定しているのです。大手のようにテキストの単元を終わらせるとかそういうことではないのです。子どもたちに必要なのは思考システムの構築であり、それも早期の簡単思考モデルの組み込みである。鉄は柔らかいうちに打て、というが、その通りである。大手に行った1年間、2年間で冷たく固まってしまった脳の塊にしてしまうことの空恐ろしいこと。小5というのはその意味で微妙といえる。小5の2学期に竹の会に来てもそれまで塾にいったことがないという子は毒が回っていない分まだいい。大手の毒は無思考、考えなくても教えてくれるという習慣の形成にある。よくわかるように教えてくれるからよくないということに気づかないバカ親は「子どもがわかりやすい」と言っていると喜ぶ。またテキストが易しいということにも余り気にとめない。要するに、バカなのである。何も考えてないのである。先ほど、反発力という話しをしたけれど、難しいことをやらなければ脳は緩くなるに決まっている。指導というのはその意味では重力にも似た負荷と言える。わからないということが実は脳には大切のである。なにもかもさして考えもしないのに「よくわかる」では脳はふやふやになってしまう。そんなこともわからないからバカといっているのである。

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