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公立中高一貫校本番の心構え 難関小石川中等、懼れるな、しかし、落ちたときの覚悟をしておく

2016.01.25

  おはようございます。朝 -1℃、マイナスを東京で体験できるとは。

  いよいよ本番が近づいてきました。竹の会の指導は、残すところ2回、27日と31日だけとなりました。小6には、別に無理して出ることもない、とは伝えてありますが、これはみなさんの判断に任せます。

  いつも1月がくると思うのですが、受検必勝の手順というのは、わたしの中ではすでにして「ある」、いや確固とした合格のセオリーがあると思っています。合格しない、できないのは、わたしの指導を受ける子たちがわたしの思い通りにしないから、です。いや小学生なら子というより、親の見識が大きな障害となる、受検をさせると言いながら、習い事、稽古事を時として優先させる、さまざまなことを勉強に優先させる、勉強は便宜的に何度でも中断させられる、そういう親や子が、受検に成功するか、といえば、それはない、というのが、わたしの確信に近い結論である。

 たとえば、東京の公立中高一貫校の最難関とされる小石川中等に合格するセオリーというものがあるのか、ということであるが、わたしの中では完成された方法というものがある。

 まず、能力は当然に必要である。能力もない者が「受ける」のはいいが、「合格する」ことはない。合格する能力の目安はあるのか。ある。竹の会の入会試験でA合格する能力で足りる。ただし、受ける時期に制約がある。小4の2月前後をもってベストと考える。小5の2月まで思考訓練を積み上げる。これが合格の前提条件である。適性検査といっても、つまるところは、思考力勝負である。思考力を積み上げる、そういう訓練を重ねることである。合格する、というのは、実行力がある、ということの結果である。実行力のない、先送りする、回避する、逃避する、そういう性癖のある子は受検、いや試験そのものに適さない。

 小5の2月から小6の8月の訓練で合格はほぼ決まる。この7か月間の勉強が合否を分ける。9月以降の勉強は、「練る」勉強である。「思考を練る」、これに尽きる。

 早稲田進学会の模試で8月デビュー。順位トップテン内に入ること。もちろん竹の会の指導をこなしてきたのなら、それは当然そうなる。

 竹の会で学ぶ子どもたちが、当然に実行力を発揮してきたわけではない。まず、A合格で入会できたのか、次に、毎回の指導において、指導レジュメを「合格はんこ」をとりながら、進めてきたのか、そして竹の会の時宜に応じて課される課題レジュメを遅れることなく提出してこれたのか、これらを完全に実行したときに初めて合格ということが現実のものとなる。

 あるいは、指導時間中にどれだけ集中できたか、あるいは勉強を継続するという、ただそれだけのことを果たし得たのか。

 小学生は、まだ幼い子どもである。集中力もない、勉強の継続性もない、飽きやすい、先送りする、ともすれば怠ける、そういう挫折の懼れを多分に抱えながら、親ははらはらし、子どもは、ともすれば挫折、放棄をいつするか、予測もつかないほど、不安定である。つまりは、わたしの想い描くセオリーどおりにはいかないことばかりである。

 だから、合格予測などめったやたらにできるものではない。わたしのセオリーを踏んだ子以外にはわたしには合格の確信など持ち得ない。

 昨日の指導でも、子どもたちの不安と緊張が見てとれる。5倍とか、6倍とか、7倍とか、9倍とか、そういう倍率が子どもたちに重くのしかかっているのがよくわかる。落ちるほうが普通の試験ということである。

 こういう試験に臨むには、それなりの作法というものがある。わたしは竹の会の子たちをふくめて、世間の親も子も、そういうことの覚悟がないのではないかとよく思う。ほんとうに合格したいと思っているのか、よく疑う。こういう親や子というのは、いつも頭の中は漠然とした楽観論、ときには悲観論しかないのではないか、と思うことがある。試験がまだ先の間は、漠然と楽観し、いくらでも勉強を疎外する行動をとっても、それでも合格できると漠然と楽観しているのである。そして試験が迫ってくると、あたふたする。

 子どもたちが不安で落ちつかないのは、自分がやるべきことをやってこなかったということがよくわかっているからである。「落ちたらどうしょう、落ちたくないなぁ」というのは、この不安の中身を言葉にしたものであろうけれど、実行してこなかった者ほど覚悟というものがない。

 試験に落ちたらどうなるのか、どういう道を歩むことになるのか、具体的に想い描いて見よ、落ちた場合の未来も曖昧に漠然とさせて、合格したいと思うだけでは、心は舞い上がったままである。

 戦国の世、本物の武士は真剣に臨んで、自分の死に様を想い描いたという。死ぬ覚悟とは、自分が死んだ姿を想像することである。自分の死に様を明確に描くことである。合格したいと思うあまりに、これまで合格することばかりを考えて、落ちた自分の姿、落ちたときの道、未来を考えたこともない。いつも不明確、漠然としか、未来を予測しないから、実行できないのである。自分の未来を漠然の中に霧消させるな。漠然としか想い描かない道に自分が進めることはない。明確な道を想い描いたのなら、そのために全力で実行するほかない。道に進みたいのなら、それを邪魔する親の都合、自分の邪心はすべて意にも介しないであろう。実行するとはそういうこと、そういう明確な意識から生まれることである。自分の一年先の未来でさえも漠然ともやに包まれているような心持ちだからまともに勉強もしないのである。

 自分の落ちざまを想い描いて、覚悟を決めろ。そして腹を据えて事に臨め。 覚悟もできていないから不安に苛まれてはしゃぐことしかできないのだ。いくらはしゃいでも落ちるものは落ちる。腹をくくれ。

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