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勉強取扱説明書

2015.11.10

 お早うございます。昨日は早朝から一日中多忙でとうとうブログ更新ができませんでした。道行く人びとはみな長袖、アウターを着込んでいる、けれどわたしは未だにTシャツです。歩いているとすぐ熱くなり汗が出てくるのです。そのくせ日没あたりから急に冷え込む、かなり危ない橋を渡っているのかもしれません。

 早稲田進学会の模試の結果が返ってきましたが、みなきちんと結果を提出してきます。適性Ⅲが難しかったと聞いていましたが、ちゃんとできている人たちがいるわけです。難しかったからできないというのはただの言い訳です。模試の成績がブレないことも大切です。自分が難しくてできなかったと言ってもできている人たちがいるならそれは実は難しい問題ではなかったということでしょ。できなかったのは自分だけであり、難しかったことは言い訳にすぎないし、実はその言い訳も成立していない。 今、竹の会でもっとも高度のレジュメをトップで進めている子が一人だけ3科型模試でかなり上位に成績優良者として名前をのせていました。2科型模試のほうでも一人名前をのせた子がいます。こつこつ努力をしてきた子です。7時間きちんと勉強してきた子です。課題の提出率も100%の子です。

 要は8月までの勉強姿勢です。今年の小6には小5の時からなかなか机について勉強したがらず、指導室などで時間を無駄に潰してきた子たちが多い。そういう子というのは課題の提出率も低く、レジュメをよく紛失し、レジュメの解答率もかなり低く、やり残しのままにうやむやにしているレジュメも多い。そういう子たちの家庭学習というものがどれほど期待できるか、ということでしょ。 模試の結果が出ないのはある意味当然の成り行きともいえます。わたしは夏休みには最低でも1日7時間の勉強を期待していたけれど、わたしの期待に応えたものは少ない。

 小学生というのは、これから中学、高校とずっと勉強からは逃れられない。中学に行けばずっと評価はついてまわる。年に5回の定期試験のたびに点数が出る。小学校のようにできなくても曖昧なままにやり過ごすというのは少なくともまともな家庭ならできない。中学になって能力的に普通以上なのにできない生徒というのは、すべて小学時代の過ごし方からきている。思考がない、勉強へのスタンスがない、これである。中学になってこういうことを身につけようとしてもたいてい手遅れである。授業は思いの外速く進む。待ってくれない。特に、英語などは勉強のスタンスのない子には致命的である。最初で躓けばもう挽回は不可能な科目である。中3になったらそろそろ塾を探さなければ、というバカ親がいたけれど、かつても今もそういう無知な親は多い。

 多くの親、そして子どもたち、あまりにも勉強というものをわかっていない、というか、なめているというか、何もわかっていない。糠床というのは、あれは毎日かき混ぜて空気を送り込んでやらないと、たちまち乳酸菌が死んでしまい、腐る。毎日である。だから怠け者にはできないことである。勉強も同じことである。盆だ、正月だ、クリスマスだ、何々だで休んでいればそのうち腐る。習い事、稽古事、部活もそれが勉強しないことの言い訳なら同じである。

 今は機械化されているけれど、江戸の昔の百姓というのは過酷であった。明治、大正、昭和初期だって百姓はよくはたらいた。米作りというのは、手間のかかる、大変な仕事であった。百姓が米を育てるほどに勉強というのは手間のかかる仕事である。米作りはまず土起こしから始まる。雑草を掘り起こし、土を掘り起こす。まず土から作る。一日中、何日も田を耕す。それから苗代で稲の苗をある程度大きく育てて、十分雑草に打ち勝てる大きさにまでして、今度は田に移す。田植えである。水田に苗を植えつけていく。水田はもちろん雑草対策である。それで水稲という。水田でなくても稲は育つ。それが陸稲である。一説には陸稲のほうが「うまい」という話もあった。ある程度育てば田から水を抜く。独り立ちである。夏の暑い時期、思い切り太陽の光を当てる。あの青々とした稲の葉が思い切り光合成をやる。梅雨時期に雨が降らなければもちろん枯れる。強風に倒されることもある。台風は天敵である。稲は自然に依存する割合が高い。天候が運命を左右する。百姓の努力だけではどうにもならない。さて、こうして幾多の試練を乗り越えて、秋には稲穂が頭を垂れるほどに、実をつける。豊作である。米を作るというのは、いつも手にかけている、気にかけている、いつも稲のことばかり考えている、そういうことである。

 勉強も同じである。いつも気にかけている、いつも手をかけていなければならない。それなのによくもこれだけ勉強を蔑ろにする大義名分を用意するものだと感心する。大義名分を掲げる人は、いちおう勉強というものは大切だという認識はある。だから勉強しない、あるいはできないことの大義をかざすのだ。しかし、それとは別に、勉強、つまりは脳の培養は手をかけなければ、枯れる、生育不良になる、他のことに手をかまけていればたちまち衰弱する、遂には死滅するということは厳然とした事実、真理としてある。植物は、いつも見ていなければ、いつも気にかけていなければ、元気を失う。勉強、つまりは脳だって同じ事である。脳というのは、糠床と似ている。毎日かき混ぜなければ死滅するからである。稲にかけたと同じ、パッションを勉強にもかけなければとても脳は育てられない。勉強するというのは、いい稲を育てようとする、根性の座った百姓の強かな精神と同じ精神がいる。百姓ほどの長い期間かけて育て上げるという強かな、我慢強い、決して怠けとは無縁の、ブレない精神がいる。

 脳という生物は勉強を栄養素とする。長時間の培養が必要なところは、いつもかき混ぜて酸素を送り込まなければ死滅する糠床と同じである。勉強はやらなければ死滅する。正確には、脳は発達を止める。

 脳を良質化する取扱説明書をここに捧げる。

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