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台風一過青空が拡がる8月最後の日を楽しむ/最低でも都立戸山/桜修館、九段にゆく

2016.08.31

 おはようございます。今日は珍しく8時前まで寝てしまいました。ようやく8月の指導を果たすことができまして、ほっとしたのか全身の力が抜けたのがわかりました。それでぐっすり寝ることができたようです。わたしがもっとも緊張する時期はやはり2月6日(九段発表の日)とか、9日(都立中発表)、そして3月1日前後(都立高校発表)までの、本番終了から発表までの数日間でしょうか。なかなか睡眠もとれずに毎夜夢でうなされます。発表の日、めざす番号を見つけたときほど報われることはなくそれまでの溜めきって飽和状態のストレスが一気に雲散霧消してしまう快感に満たされます。これが目的の番号を見つけられなかったときはマイナスに作用し奈落の底に突き落とされていく感覚で頭の中は真っ白です。どちらの場合もそうですが、帰りの道は時間というものがなくなる、どこをどう歩いて帰ってきたのか、電車に乗ったことさえも偶然に思えてくる、あのときは確実に時間は停止していたとわたしは本気で思っています。いや時間というのは、「忘れる」ほどに何かで夢中になる、「気」をとられる、というのが、実は、時間と付き合う極意なのではないか、そう思う。よく一日7時間勉強しなさい、と言うと、いつも時間を気にして、時計ばかり見ている、そう子というのは、結局、だめなのではないか、と思うのです。算数や数学なんかの問題を解いていたら、時間を忘れてしまい、気がついたらもう暗くなっていたとか、そういう子が伸びる、そう思います。

 9月は4日(日)からのスタートです。8月には竹の会を去った子たちもいます。退塾したといってもみなまじめないい子ばかりです。ただ竹の会が求めている勉強スピリッツを持ち合わせていない、竹の会は勉強のスタンスのない子を指導することはしない、それだけの理由です。9月から新しく入ってきた子たちもいます。ただわたしの心の中には一抹の不安を消し去ることができません。勉強姿勢に難のあるところを目にしてしまったからです。これがまた竹の会の勉強スピリッツから否定されるかもしれない、そういう不安がするのです。

 竹の会に新しく入会されてこれから竹の会の指導を受けてゆくみなさんには、ひとつだけ予め覚悟しておいていただきたいと思います。どんなにいい子、まじめな子であっても、竹の会というのは、ある高い勉強の理想形というものを追求しており、これにそぐわなければ突然に退塾告知されるということが多々あるということです。少なくとも勉強の成果が出ていないのにそのまま放置しておくことはまずない。勉強姿勢がでたらめなままに放置されることはない。子どもたちが竹の会にどんなに懐いていても処断、決断すべきときはする、これが竹の会です。今でも去年の小6について早くに退塾処置をとらなかったことを悔いています。わたしも子どもたちと親しく接していますから、退塾を言い出せない、竹の会のスピリッツから言えばとても竹の会にいることが認められない、しかし、竹の会を心の支えにしている子たちを突き放すことがどうしてもできない、そういう葛藤の中でずっと苦しんできました。そういうストレスのある子が突然に退塾したときの解放感はとても言葉では説明できないほどで、体の中からつっかえ棒がはずれていく感覚です。情に絆されてずっと我慢していくことが、結局竹の会という塾の質、レベルを低下させることになる、それは大きな目で見れば、結局竹の会にはマイナスになる、だからわたしは決断しなければならない。わたしの夢、竹の会が渋谷で、東京で、多くの人に、その価値において認知されること、その夢に近づくためにはこれだけは心を鬼にして実行していかなければいけない。

 わたしが、竹の会が求めているのは、勉強のスタンスです。勉強のスピリッツです。わたしが子どもたちに、そして親御さんに、勉強姿勢に不審を感じたとき、そしてそのことが成績に反映されているとき、竹の会は迅速に決断することが親御さん、竹の会、両方にとっていいことなのだと確信しています。

 いや簡単なことです。勉強ということに関する姿勢です。勉強しない子を竹の会に置いておくことはできない、ただそれだけです。家庭学習もほとんどやらない、そういう子が竹の会にきてはならない、それだけです。ですから、勉強にスタンスの向いていない子は、竹の会に来てはならない、勉強しないのだから、軽いのりで止める、それでいいと思うのです。どうも竹の会から退塾を告知するときは話しが深刻になってわたしには心外なのです。これまで突然に「退塾します」とメールしてきた母親も複数いました。理由なんかありません。後で大手に行ったという話しはよく耳にしましたけど、カンニングをする子の親はいつも逆恨みです。カンニングというのは、試験のそれを意味するのが通常の使い方ですが、わたしは答を盗み見る行為一般をさして使っています。たとえば、わたしが提出の指導レジュメを採点するために解答集を開くときに盗み見るなどです。同じレジュメをやっている子の答案を盗み見るのもこれです。とにかく自分で考えて解くという行為に逆行する行為です。理由はいろいろあります。「できる」と見られている体裁の維持というのもあります。自分だけできてない、遅れている、そういう理由もありそうです。バカは答を丸写しして、「見ただろ」と言うと「見てない」と言い、それならと、同種類の問題を解かせると全くできない、それでまた「見ただろ」と言うと、「見てない」と言う。完全なバカです。

 わたしはバカの相手をしたくない、それが本音です。カンニングをしてもできるようになったわけではないのに、それですます、そして「やってない」というバカの論理につきあうのは苦痛なのです。ストレスです。

 昨日指導を終わって掃除をしていたら、机をひっくり返すと、もう鉛筆ですごい勢いで落書きがしてある。念のためその子の使っていた別の机を裏返すと案の定落書きだらけです。こういう子がわたしにはストレスなわけです。足を席の横からはみ出す、どんどんと机を足で踏むなどそのたびに注意をする、そういう、抑えが落書きに発散されたのか、これはまた厄介な子を抱え込んでしまったのか、注意で修正できないのか、いくら注意してもダメなら、即退塾にするしかない、また頭の痛い子ををかかえこんでしまったのか。こういうことで頭を悩ますのは、頭の痛い話しです。

 まあいろいろとストレスのあることばかりでしたが、とにかくも無事に8月を乗り切ることができまして、今日は、今日だけは一日仕事をしないで過ごしたい、そういう気持ちです。時間ができたらやろうと思ってそのままにしていた家事、些細な雑務、そういうことを今日はやろうと思っております。子どもたちが突然の熱を出すことはもう長い経験から想定済みで、昔は無防備にそのまま感染することもよくありましたが、今はマスクだけはする、これを守っています。いや初めての面談にきた親子がゴホンゴホンとやっている、その翌日にインフルエンザと診断されて熱が39.7までいったというのが最近、といっても2年ほど前にありましたから、もう人と接するのが恐くてしかたない。なにしろ竹の会というのは、わたしひとりしかいないから、わたしが倒れたらもう終わりです。それで神経使っているわけです。風邪なんかで簡単には休めない、そう思っていますから、人から笑われるほど注意しています。

 今年は現5年生に逸材が集まった。この子たちが受検するのは平成30年2月です。小4はわからない。なにしろ竹の会に受検本番までいるのか、いられるのか、がわからない。子どもにしても親にしても勉強スピリッツを維持できるのか、それがわからない。このこたちが小5になるまではなにもわからない。中から逸材がひとりでもいればそれはそれで幸運であるけれど。

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