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合格の根拠

2021.07.24

 

◎合格の根拠
 算数のできる者は合格する蓋然性が高い。算数ができるという意味は、大手によくいるベタな問題を公式というか、決まった解き方で解いてしまう子を想定していない。未知の問題について、その場で思考を働かせて解決する能力を考えている。公式や解法を「思い出す」という脳の働かせ方は、思考ではない。
 算数ができるとは、その場で考える、つまり、事実を分析し、抽象化する、具体的には、図にかく、線分図、面積図をかくことのできることをいう。図をかくということは、事実の関係性を捉えなければできない。線分図も、面積図も、さまざまなバリエーションがある。特に、算数を極めてくると、面積図を使って解くことが、圧倒的に多くなる。算数とは、面積図と言いたくなるくらいである。面積図の達人になると、どんな事実にも図で対応できるようになること請け合いである。
 適性検査問題は、結局事実を分析して事実の関係性を見つけ出し、すなわち抽象化の過程を経て、「問いに答える」ということに尽きる。算数で培ったスキルがそのまま発揮できる、はずであった。しかし、ここ最近の、顕著な傾向がある。算数ができることになっているのに、適性に全く対応できない子が出てきたのだ。正確には、算数ができることになっていた、ということが、真相のようである。結論から言えば、確かに、竹の会のレジュメテキストは一通り終わっているが、実は算数はできない、ということのようである。

 これまで「できるできない」ということに、正直に向き合って来たか、が問われている。「できるできない」の部分をグレーにしてきた者が、そういう適性失速を起こすことがわかって来た。
 ところで、私が子どもの実相を把握できないとはどういうことか。
 まず、その日にやる予定のレジュメを出せないままに「持ち帰る」というパターンをとる。前提に、どうしても「時間内」に解けない、という現実がある。
 客観的には、「時間がかかり過ぎる」という事実があった。時間がかかるということは、本当のところは「解けない」に等しい、ということにほかならない。
 その流れで、「先生、家でやってきていいですか」となる。ここで、家でやってきて「できた」となる場合である。このパターンの多い子は、適性も同じで、時間がかかり結局解けないか、うやむやになる。
 本人が、他人より算数ができる、と思い込んでいる、という特徴もあげられる。主観的にである。要するに、これは本物ではない、ということです。

 さて、こうして本物でなければならない、ということである。
 本物とは何か。私のいるところで、解くことである。時間がかかり過ぎないことである。
 できない場合も、ノートにその葛藤の痕跡があるか、である。式がないとか、乱雑な計算とか、要するに、曖昧なままに答だけは書いている。これはだめです。
 適性失速型の子は、ノートを見ても、何か釈然としない。ノートが乱雑な計算用紙のようとか、何か大雑把な、間延びしたノートとか、何か釈然としないのだ。
 私が巧妙に騙される。なぜって、とにかく答えが符合するから。途中の過程は詳らかでない。式が追えないのだ。「自分でやったのか」と問えば、「少しだけ家の人にヒントをもらいました」というのがよくある、「いや、自分で解きましたよ」と言うけれど、ノートを見ても、解く過程が見えない。思考の流れがよくわからない。要するに、本当に自分で解いたのか曖昧なのだ。不思議と答えは合っている。「自分で解いたのか」、「はい」、何度となく交わされるやりとり。どこかで答えを調達してきたかもしれない、そんなグレーな気持ちが消えない。そして蓋を開けて見ると、適性がまるで歯が立たない、ということになっている。言えるのは、事実は嘘をつかない、ということだ。私が、判断の根拠にするのは、挙げて「事実」でなければならない。私は、事実のみを、事実だけを、根拠に判断しなければならない。しかし、本当に事実と言っていいのか、事実なのか、の判断が、また判断を狂わせる。
 例えば、会場模試なら、その結果は一応事実として信頼していい。しかし、教室でやった模試はどうなのだろうか。家庭で解いてきたというレジュメはどうなのか。いや問題にしているのは、真実の実力を反映しているのかということだ。不正の入る余地はある。家庭でやれば家族の助けを借りたかどうかわからない。つまり「余地がある」状況での事実は100%信用できない、してはならないのだ。
 わたしは、事実の評価に、神経を尖らせるようにならざるを得ない。言い方を変えれば、事実は常に疑わなければならない。
 「できない」という事実、「時間がかかる」という事実、つまりマイナスの事実は、評価にブレはない。
 問題なのは、「できる」ように見える事実である。例えば、都立の理科・社会の過去問を30年分やる。そのどのテストも悪くても8割は取ったとして、この事実をどう評価するのか、である。「できる」という事実と見ていいのか。通常ならその通りである。過去、点が取れないから、手当てをしてきた。しかし、「できる」という事実に対しては、そのまま信じていいのか、実は、わたしは言い知れぬ不安を持った。不安は大抵当たる。受験では、不安は必ず当たる。本番だけ理科、社会ができないというのは、いったいどうしたことか。
 しかし、ここでもっとも落ち着きのいい整合性は、事実が事実でなかったということしかない。過去問30年分全て90点前後というのは事実ではなかった、とすれば、本番で「できない」ということが、説明できる。
 わたしの見えないところで行われたものは、事実ではない。家でやってきました、これは事実ではない。わたしの目の前で解かなければ事実ではない。それには、時間をかけてはならない。時間のかかる子が家で解いてきたと言って、そしてそれは確かに合っている。しかし、それは事実ではない。
 現在のわたしの指導は、子どものごまかしに騙されないように、慎重である。子どもはできたら褒められるから嬉しい。だからできたと思われるために嘘もつく。指導者は子どものそのような心情を推し量り、善道していくのが理想である。
 頭のいい子だと、自尊心が邪魔をする。できないこともできたことにする。わからないこともわかったことにする。教えてもらったこともできたことにする。褒められれば褒められるほど、間違うことを恐れる。だから何かのきっかけで目に入った答えを自分が解いたことにもする。ハリボテの頭、伽藍堂の頭作りがここに始まる。
 頭の働かせ方を誤ったのだ。働かせるべきことに働かせないで、装うことに頭を使う。こうなったら私にはどうにもできない。
 私は、合格の根拠を求めてきた。常に、この子を合格させなければと思った時、この子のために何をすればいいのか考え続けた。「この子は、受からせなければならない」と私が悲壮にくれたとき、それはその子がそうさせるのであるが、そういときの私の指導は深くて鋭い。後から考えても神の領域にあったのかと驚嘆する判断と決断であった。指導はいつもその子に合格の根拠を求めることだった。わたしは合格の証しを探したし、そのためにこれでもかと渾身のレジュメを作り上げ、子どもの脳と対した。合格する子は素直である。真面目な勉強姿勢がひたひたと伝わってくる子である。わたしへの敬意を決して忘れない。敬語と礼儀正しさを見ていると親御さんの、いや家庭の躾、それは親御さんの姿勢に触れることにもなるのだが、そういう相手を思いやる心情を見ていると、そこに完成された人格を見る。私はますます感極まり、この子ために私は合格への道を拓いてやらなければならないという思いに駆られる。
 わたしは、この時、竹の会の神様が私の心に宿ったのだ、思っている。
 この生徒は頑張るなー、合格して欲しいなー、と思っても、竹の会の神様は宿ることはない。なぜか。心のうちを隠しているからだ。頑張っている姿勢は見えるけど、何か「見えない」のだ。真実が茫漠としているのだ。
 心の中が、ガラスのように透けて見える、可視的である。これこそが、合格の根拠につながる。
 
 都立高校では、特に、本番後、自己採点結果の報告をするように指示しているのだが、以後の音信が全くない、という生徒がいる。こういう生徒はできなかったからと思うが、やはり落ちたいる。それよりもそういう姿勢に、普段の勉強の真実が見えている。要するに、不正直なのである。自分の不利なことは包み隠さず開示することはない、沈黙する。だから私の判断は最初からなんともモヤのかかったような、不気味な恐怖が漂う、そういう感覚が付き纏う。
 落ちても、きちんと挨拶に来る。そういう子は、結局成功しているように思う。本番でできなかったと言って落ち込んで、そのまま音信不通になる。試験の結果を冷静に報告できない。約束も果たせない。そういう子は失敗するように思う。
 自分のできなかったという事実と向き合い、落胆しながらも、客観的に自分の失意と向き合う、そういう子は、失敗を正面から受け止めて、向き合い、前へ進もうとする。そういう子が成功する。
 そういえば、落ちて私のところに涙しながら、正面から向き合い、私と話した子たちが、日比谷高校に受かり、戸山高校に受かり、早稲田大学に、一橋大学に受かっていった、のだった。
 あの時、落ちて、それっきり私の前から姿を消した子たちが、どうなったか、知らないが、少なくとも、失敗と向き合った子たちが、礼を尽くして、私に報告し、それから素晴らしい成功を収めたことを私は知っている。
 こうして、成功する人とは、自分ができないということと向き合い、悩み、苦しみ、もがいてきた人だったのではないか。
 要するに、自分の生き方において、正直なのである。
 親に体裁を繕う、できると見てもらいたい、できるふりをする。体裁を繕うというのは、中身はないということなのです。不正直というのは、できない自分をごまかすことです。
 そしてそのつけはいつか近い時期に必ず払わなければならない、ということです。わたしがもっと賢くなれ!というのは、そういうことなのです。
 
 事実のみを見ましょう。中学生でも、勉強していないというのは、教室での勉強姿勢、試験の結果、内申、そういった事実を見ればわかります。

 確かに、レジュメができたというのも事実ですが、例えば、それが家で解いてきたというのであれば、自分で解いたという事実は少なくとも私には証明できていない。「親に少しヒントをもらった」というのもありましたが、「少し」とはどの程度のことを言っているのか。子どもの立場からすれば、そのほとんどを説明してもらっても「少し」と言うだろう。 
 

 事実が全てを語る。事実のみが本当のことを教えてくれる。事実と言葉とどちらを信用するか。もちろん事実である。ただ事実は取扱が難しい。評価を誤る。もちろん事実が如実に真実を語る、ということは疑いのない真理である。
 最初のV模擬で理科、社会が80点を越えない。この事実からわかるのは、トップ都立の合格はないであろう、という予測である。この事実から、これまでの理科、社会の勉強のありかたが、問われている。もっと真剣に、今そこにある危機というほどに捉えて取り組まなければならなかった、ということである。中1の時間のあるとき、「まだ先のこととして」先延ばししてこなかったか。当面の由無し事に力を割いてこなかったか。定期テストは仕方ない。しかし、何日も高校入試の理科、社会を先送りにしてこなかったか。歯を食いしばりながら、英文を訳すことに執念を燃やしてきたか。そういうことが問われているのである。頭が並みなら先送りは致命的である。いやそれなりに優秀でもやはり先送りは後々効いてくる。
 意思と集中が、必要である。初志を貫くには、強い、鉄の意思となにものにも揺るがない鉄壁の不動心、すなわち集中心が必要である。
 生きるとは、自分のやりたいことをやり抜く強い意思と実行力、すなわち鋼の集中心があればいい。集中とは、凡人の好む誘惑をすべて撥ね付ける、鉄壁のバリアーの中に心を置くことである。
 竹の会の、私の指導は、常に、合格の根拠を求める指導である。私の指導で、たいていの子が伸びていくことは知っている。しかし、わたしの指導の目的はそこにはない。私は合格の根拠の見えない子の指導は本意ではない。竹の会は、私は、合格の可能性を見出し、合格の根拠とする指導をすること、が仕事である。それ以外の、巷の普通の塾のやる仕事には興味はない。合格可能性のない子を指導することは、少なくとも今の竹の会の仕事ではない。学力を、伸ばすだけの指導も竹の会の仕事ではない。
 竹の会は、合格の根拠を探すこと、そのために合格の根拠を子どもに執拗に求める、これが竹の会の指導である。

 

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