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吾は如何にして公立中高一貫校受検指導の道を歩んで来たか

2019.01.18

本番まで 16

 おはようございます。1月18日金曜日となりました。今日も低温なが快晴、素晴らしい青天です。お天道様に感謝感謝です。

🔵吾は如何にして公立中高一貫校受検指導の道を歩んで来たか
 わたしの記憶が定かではなく、記憶の断片を繋ぎながら当時のことを思い出しては、あ、そうだったと綴っていくことになります。
 平成17年4月。 平成16年の4月だったか、小6の女子がやってきた。その子が、中1になっても続けるというので、わたしは、これまで竹の会で使われてきたオリジナルテキストを廃止して、レジュメ指導に移行することを決意した。レジュメ化は、毎回の指導のために、オリジナルテキストをレジュメ化していく形で、制作されていった。
 ところで、そもそも竹の会のオリジナルテキストとは何だったのか。わたしは、数学と英語について、竹の会の指導の体系をテキスト化することに取り組んでいた時期がある。おそらく平成の始めの頃のことでなかったか。数学なら、単元ごとに、執筆していった。当時は、ワープロ専用機を使っていた。文字が小さくて、図もかけない、そういう制約の中で、わたしは、竹の会のオリジナルテキストを完成させることに没頭した。英語については、「英語指導案」を完成度の高いものに仕上げることに情熱を燃やした。こうして完成したテキストは長く竹の会の指導の軸として使われてきた。
 帯に短し襷に長し。私がレジュメ化を決意した理由は、おそらくこの辺にあった。わたしはかつての高校の頃の、プリントによる受験指導を思い出していた。教科書は一応あったけど、授業は、プリントしかなかった。わたしの学んだ高校は、県の御三家と言われた進学校の一つだった。進学校の授業というのは、プリントと副読本だけだった。わたしの頭の中には、理想のプリントとは何か、ということがいつも問われ続けていた。元代々木教室の時代に、わたしは、LECという資格試験の予備校において、司法書士試験の書式問題の制作を請け負うアルバイトをしていたことがあった。一題制作するのに、文献を読み、事案を創作し、問題を構想し、完成させたとしても、終わりではなく、詳細な解説を執筆するところまで仕上げて、ようやく完成品として、原稿料をいただくことができた。私の作る問題には、プレミアムがついて、何万円か、上乗せされたものだった。最初に、完成品の著作権がLECに所属することも当然契約していた。わたしの作品は、LECの講座や模試で使われたのかと思うが、確かめたことはない。とにかく一題作るのに恐ろしいほどのエネルギーを消耗した。このままでは、塾の指導に影響が出ると悩みわたしはこの仕事を止める決断をした。
 今の竹の会のレジュメの解説の精密さは、この時の経験が大きい。とにかくああいう予備校のレジュメというのは、解説の比重が大きく、解説できない、つまりは、客観的な根拠のない問題は、絶対に作ってはならない、という不文律があった。だからわたしは問題を創作するために、先例、通達、判例を徹底した当たり検証してから、作業に入った。問題は、ワードで、作成して、USBで渡した。
 竹の会は、指導プリントのことをレジュメと呼ぶが、これはわたしがLEC時代にレジュメを制作していた名残りであるかもしれない。もともとドイツ語で「梗概」を意味する、この言葉は、竹の会では、指導の概観を示し、かつ詳細な根拠を提示する、文書として、位置づけられることとなった。
 こうして高校入試全体系をレジュメ化する作業は、進められていった。彼女が、中3になると、かつての過去問合格法で執筆したわら半紙解答もレジュメ化されていった。平成20年2月、彼女は、初のレジュメ世代として、豊島岡女子学園高等学校、都立西高校を突破した。こうして竹の会の高校入試レジュメ化は、完成した。
 公立中高一貫校というのは、制度がスタートしたのは、平成18年ごろからだったか、正直わたしも関心がなく、確か誰だったか、小6女子が、受けるというので、相談されたことがあり、その時始めて調べてみた程度で、あまり関心はなかった。ところが、翌年、つまり18年の4月に、九段を受けたいという幡代小6年のお父さんから相談を受け、初めて、その気になった。本気でやってみようと思った。それでまず過去問を集めた。声の教育社とみくに出版のものを揃えて、解き始めた。まだ過去問集は、薄っぺらで、資料はほとんどなかった時代の話しである。わたしは、過去問を使った指導とともに、計算を鍛え、割合の問題を解かせた。当時は、レジュメはない。塾用の教材から探して使った。レジュメも何か作っていたとは思うけど、まだわたしには、問題意識がなく、レジュメの価値も認識していなかった。

 19年の九段は、男子倍率11倍という凄まじいものだった。ところが、過去問7回解き直し法で、合格しまったのである。この年は、ほかにいた双子の姉妹が、東大附属を突破するというおまけ付きだった。翌年九段志望の小6が、どっと来た。ところが、通分もできない、いや正確には、理解できない、割合なんかは、説明することそのものが不可能に思えた子たちが多数派で驚いた。公立小のレベルの低さに唖然としてしまった。こんなのばかりなら、九段の11倍突破もわかる。バカばかりが受検しただけではないか。こういうバカとバカ親が、カネになると踏んだ当時の予備校、塾の皮算用も頷ける。当時は、まだエナは、多摩地区が拠点で、23区は、栄光とか、大原とか、だけではなかったたか。しかし、大手には、まだノウハウも何もなかったと思う。過去問類似問題を使う、そういうことしかできないし、それは今も変わらない。
 わたしは、20年、21年、22年の3年間、小学生の指導法について、研究に没頭した。特に、小学生に割合をどう理解させるか、この研究には、何百枚もの、レジュメを制作し、実際に、子どもたちに試しては、工夫を重ねて、究極の指導法を模索してきた。その間、20年には桜修館、22年には両国、桜修館、23年には小石川、桜修館と、合格だけは取ってきた。過去問合格法と名付けた、竹の会伝統の7回解き直しの効果は凄まじいものがあった。
 24年、わたしは心機一転、小学生指導の本格的レジュメ指導に取り組むことを決意した。24年5月、竹の会渋谷教室スタート。2月から執筆してきた「竹の会入会テスト」シリーズは、最初入会テストのためのものだったのが、指導用のレジュメとなり、150ものテーマを扱った膨大な解説つきレジュメと変じた。この勢いは止まらず、わたしは、その年の9月から、「合格答案への道」と「算数をクリアーにする」の執筆に入った。こうしてわたしの初のレジュメ指導を受けた子たちが、25年2月3日、受検に臨む。小石川、白鷗、桜修館に合格。竹の会レジュメ指導の完成であった。わたしのレジュメ制作のアイデアは尽きることはない。それが今の竹の会である。竹の会小学生指導の体系は、こうしてようやく完成したのである。

 長い試練と研鑽の日々であった。
 吾は如何にして公立中高一貫校指導の道を歩んできたのか。
 再び問う。
 長かった葛藤の十年を思い返して、ふと来し方の苦難の日々を、懐かしく偲ぶ。 
 あの頃は、まだ母も父もいた、苦しかったが、父も母もいた。

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