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大手塾、巷塾で自分の子をダメにする親の罪と罰

2017.05.11

 朝から仕事に追われてようやくブログの更新に入りました。5月の連休を終えて気になるのは連休中遊びすぎてなかなか勉強に切り替えができない、あるいは疲れて体力がもたないというようすが見えることです。小6にこれが目立つのはややショックです。夏にどれだけ勉強を期待できるのか、実はかなり懐疑的です。1日7時間以上の勉強を、どれだけの小6がやりきれるのか、なにしろ27年の夏8人の小6がいて僅か2名だけだったのだから。人並みの生活をエンジョイしながらの合格は「ない」と悟らねばなるまい。

 それにしても大手塾(実は巷塾も五十歩百歩)に子を通わせる大多数の親たちのなんとも報われないことか。わたしは塾のありようというものをよく考える。大手隆盛の今の時代に何の躊躇もなく子を大手に通わせて1年経ち、2年たち、どのようなことになっているのか、そういう親たちはわかっているのだろうか、とよく思う。かつて小5から小6までを某大手塾に通わせて受検に失敗し中1の4月に竹の会の入会試験を受けに来て0点という子がいた。親は今まで大手に2年間も通わせて割合もわからないということをそれまで気がつくこともなかった。親は嘆いていたけれどもう遅い。わたしの推測ではそのような子が夥しい数いると思われる。無頓着な、いや仕事で忙しく大手に行かせていれば安心と考えてのことであろうがこれは取り返しのつかない判断をしたということにまるで気づいていないのだから重症である。大手に行っているとかいう話しを聞くと正直気の毒になる。計算もできない、割合も理解しないで、つまりはろくな思考力もつけないままに小6を終えていったいこの先にどうなるのか。大手に限らない。どこの塾でも実は変わらない。なぜって、やってることに差がないからである。既成のテキストを使って、横並びの授業を講師がやる、それで宿題出したり、予習とか復習、確認テストをやったりするけれど、みなテキスト中心に回転しているだけである。わかっていないのである。竹の会のやりかたを何も知りもしないくせにわかったようなことを言った母親がいた。「竹の会のやりかたは少し古い」のだそうな。新しい、古いというのは、やりかたがひとつの体系というか、流れにある場合の話しである。竹の会はテキストもないし、講師もいないし、授業もやらない。竹の会はこれまでの既存の塾のやりかたを批判して、その弊害を訴えてきたのであり、「古い」とか、「新しい」とかこちこちに固まった批判のカテゴリーをあてはめて、なにかわかった気になっている。新中1にまつわる話もある。「うちの娘は単語をただ覚えるやりかたは合わない。文章の中で覚えるのが楽しいと言っている」というのである。この言葉はこれまでの大手塾による呪縛がいかに鞏固なものであったのかを証明している。バカを言っちゃーいけない。そもそも小6で初めて英語を勉強する子に英語の文章の中で出てきた単語を文脈で覚えるなどということがほんとうにできるのか知らないが、それよりも勉強というものが、まず記憶することであるという勉強の本質というものを大手塾で歪曲されて、現実逃避という、問題回避ということを無意識的に選択し、それを正当化してばかりいることにも気づかない。

 南方熊楠という人が見事に勉強というもののありかたを教えてくれている。頭というのはまず覚える。その上で覚えたことを書写する。つまり、頭の中にあるものを紙に正確無比に書き出すことなのである。このような頭の訓練をすることが勉強するということなのである。わたしが新中1にまず500語覚えろ、というのはまず頭の訓練をしろ、と言っているだけなのである。

 もう賢明なみなさんにはおわかりのことと思う。大手、巷の塾の何が、いけないのか。知識を教えるだけで訓練していないからダメなのである。計算はやりかたを理解すればそれで終わりではない。毎日4問でも解いて、訓練する、正確さと速さを鍛える、これがまず大切なことなのである。割合をテキストの単元、それもせいぜい4ページも扱えばいいほう、を終わらせただけで先へ進む、これは考えられない愚行ではないか。少なくとも1年以上はかけて徹底的に訓練すべきところではないか。

 受検しないよりも受検するほうが将来高校受験に有利だという考え方も大手や巷塾では、はいその通りです、とは言えない。訓練をしないところにそういう効果が期待できるとは思わない。

 小学生というのは、知識を教えて、テキストを先へ進めるなどというまやかしをやっても何もしないのと同じことなのである。そもそも小学生がものごとをほんとうに理解したかなどはとにかく怪しいもので常に疑っていてちょうどいいのである。理解したか聞いて、「わかりました」で「はい」終わりでは、なにもならない。

 指導者は徹底して本当に理解したかどうかを試す、いろいろ形を変えて試す、常に疑って試すのである。よく大手からきた子に「割合は理解していますか」と訊くと、たいてい「はい」とか、「わかってます」などというものだが、一人として理解していた子なんて出会ったことがない。何も理解してない。ただ塾のテキストを終わり、確認テストで100点とりました、というだけです。どれだけベタな易しい問題で頭をふやかしてきたのか推して知るべしである。

 いいですか。割合というのは、単なる知識ではないのです。これを道具として、頭を思考する頭に作り変えていく機会なのです。竹の会では小4にきた子なら小4が終わるころにはかなり高度な割合の問題を理解し、自ら批評し、取り組むことができるようになっている。1年間は訓練するために必要なのである。

 大手に通って時間を無駄に使い、勉強するということの意味もわからないままに気がつけば小6,そんなことになっている子が大勢いるわけでしょ。大手、大手と迷わず子ども入れて、安心しているのだから、バカにつけるクスリはない。

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