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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

失敗する可能性のあるものは失敗する!

2021.05.01

失敗する可能性のあるものは失敗する!  

 ご存知マーフィーの法則である。  

逆に、成功する可能性のあるものは成功すると言えるのか。  

これまで成功する可能性のあるものが、失敗したことはいくらでもあった。  ただ成功する可能性のあるものが成功したことも当然にある。    

さてどのように考えたらいいものか。  本年の合格者について、わたしは、2人については、合格する可能性が高い、と見ていた。もう一人については、合格する可能性はある、しかし、落ちても不思議はない、と見ていました。  私が、合否について何も言わないときは、合格する可能性が限りなく「淡い」というときです。受かって欲しい、しかし、確信がもてない。こういうときは、実は、失敗する可能性が高い、のだ。こういうときの私は、悲しいまでに寡黙を貫き通す。合否について口にすることはない。何か言えばそれは自分の真意ではない、つまり嘘になるからです。ただ親御さんから、直截に、合否の可能性について問われれば、きっぱりと、「その可能性はない」ということをお伝えしております。私が「受からない」と判断したときは、受からないからです。  確かに、頑張っている、解き直しなんかもよくやっている、しかし、わたしのセンサーが、どうしても、合格する、とは反応しない。いやむしろ何かわからない、もやもやに覆われて、それが拭い去れない。  不安が打ち消せない。どうしても、これはどこから来るのであろうか。

 そう言えば、都立受験の生徒を送り出したときに、落ちた子の場合、なんとも言えないもやもやとしたものを感じた。何かわたしの知らない、手の届かないところにあるもの。3年前の都立本番前日「月の満ち欠けの問題を質問されたとき」の不安は的中した。模試の得点が平均点より低いのに内申がよければ合格ラインにある、というのもわたしには不安材料でしかない。わたしの不安はいつも的中してしまう。確信がもてないままに送り出すことがここ3年で2件もあった。高校受験のみなさんは不利なことをわたしに隠さないでほしい。

 私が、合格を確信するときは、どんなときか。

 わたしのレジュメに疑うべくもない合格ハンコを重ねたときだ。  この積み重ねが、私の中に、確信の芽を育てる。  「これが解けないの」というのは、だめだ。  「これが解けたのか」というくらいに、私を驚かさなければだめだ。  基本的に、私のレジュメは、常に、検査レジュメである。  わたしは、指導のたびに、不断に、検査をしている。  この検査結果で、私は、合否の実感を掴む。そこに模試の補強があれば、その実感は確信になる。  目の前で、解いたことがない、これもだめだ。家で解いた!というとき、それがなかなか解ける問題ではなかったとなら、「本当に自分で、解いたのか!」と問うことになる。  ここで、「家の人にヒントをもらいました」という子は、不思議なことに受かった試しがない。  家で課題の過去問やって、答え合わせを竹の会でやる、その正解率が異常に高い、こういう子も不思議と落ちている。  

 合否判断のできない場合  

 例えば、平成○年の白鷗、平成○年の富士(2名)は、正直わからなかった。いずれも私のレジュメの検査結果は、良くもない悪くもない、いやむしろ良くない。例えば、大原模試の合格率は、なぜかいつも50%。50%というのは、2人受けたら1人受かるということだ。このときの私は、正直「わからなかった」。それは、早稲田進学会の模試では、正直成績は取れていないし、レジュメの正解率も3、4割というところだといこと、それで過去問合格法でテコ入れをしたということもある。何某かの力はついている、そういう判断はあった。しかし、この段階の判断は私には微妙であった。    

 生徒の「ウソ」を見抜けない悲劇  

 「自分で解いた」というウソが、もたらす不合格がある。  私に「できたふりをする」のは、自ら墓穴を掘るに等しい。  落ちた人たちには、必ず「ウソ」がある、と私は思っている。  できないのに、できたフリを、してはならない。  もちろんウソをつかなければ、正当な判断はできたと思う。  生徒がウソをつくのは、自分ができると思われたい、中には、先生や親を失望させたくない、という、強い思いもある。これが本番で惨劇となって終わる。  周りに賢いと認められたい、という強い、願望、動機は、一重に自尊心、自己肯定のなす悪戯であろう。  そもそもできない自分を認めることが、進歩の前提である。  できる自分を擬装することからは、進歩という言葉は出てこない。擬装は、擬装に擬装を重ねるという宿命にある。塾でやるカンニングというのは、自尊心、自己肯定による擬装を守るための暴走である。カンニングといっても、所謂カンニングとは形態が違う。採点のときに次の答えを盗み見するとか、たまたま同じレジュメをやっていた子の答えを盗み見するとか、過去問の解答集を書店で手に入れた、2回目をやるとき、1回目の 答えを見るなど、である。  

 かつて大学の行政法の単位試験を受けたとき、わたしは指定の行政法の体系書を全く読まないで臨んだ。司法試験の試験科目はかなり勉強していたが、選択科目である行政法はやらなかった。しかし、これをとらなければ単位は取れない。問題が配られて、問題を見たら、「附款について述べよ」だった。附款って何? やばい、隣にいた後輩に、小声で「俯瞰って何?」と聞いたら、「条件みたいなものだよ」と返ってきた。その真面目な後輩はクラスの勉強四天王の一人で、後に川崎製鉄に 入社し、取締役部長、子会社の社長になった。わたしはその彼のヒントだけで民法の知識を活用して答案を書いたらなんとか合格した。感謝である。

 私が騙される、これは巧妙に騙される。後々考えれば、私の目の前で解いたのを見たことがない。見てないところで解く。家庭もそうだが教室でも疑わしいことがある。だから生徒を信頼するしかない。しかし、この信頼が、裏目に出る。  だから、わたしは正直な者が受かる。素直な者が受かる。できないならできないでいい。とにかく正直にならなければだめだ。

 合格の芽? 合格の目?  合格の目がある、ということをわたしは使うことがある。目?芽?  目がない、とは、後者の意味なのかと思う。 合格の目、これは、時として、「合格の目はあるのか」と問いかけるとき、なんと「ある」、「ない」と見えてくるではないか。 私はそれこそ毎日、一人一人~、分析する。もちろん合格するか否か、を。だから日々のレジュメの答案はかなり微妙なところまで見ている。 ほかにノートが取れているか。これはもちろんきれいなノートは読み易いから好印象ではあるが、ノートがきれい、したがって字が丁寧であっても、これは知能とは関係ないから、これで受かるとは判断できない。 式が、きちんと書かれている、というのは、もちろんプラスポイントである。 式に単位があれば、式の意味がわかるので、単位のない式は、正直読みたくない。 図をかいているのは、好感が持てる。 考えているな、と思わせるからだ。 要するに、あれこれ考えたのなら、思考の跡があるはずであり、それが一切ないのは、思考そのものの存在を疑わせる。 答えだけ、書いて出すのは、自分の思考過程を採点者に示さない、示せない? わけであり、指導する側は、思考そのもの存在を疑うほかない。

 おしゃべり、ふざける、というのは、3年、4年に多いのだが、これも要する、集中できない裏返しである。要は、「飽きる」ということなのであるが、精神的に未熟、幼いということである。次第に、学年が上がれば、どうかなるのか、ということであるが、幼さ、未熟さというのは、特に、男の子の場合は、小6になっても卒業しきれてないケースも多い。これも知能と無関係ではない。勉強に気持ちが、入って来れば自然おしゃべりやふざけは消える。しかし、知能が低い子にはこれもない。知能が高い子ほどその変化は大きいように思うが、いつまでも幼さから脱却できない子も多い。 落ち着きのない子は、失敗する。飽きっぽい子は、テキストを与えても一つの問題にじっくりと取り組むことができず、ちょっとかじってはすぐ別の問題に移る。これを繰り返すから、何題にも手をつけていながら、どれ一つとしてまともに解けていない、ということになる。 物への執着が強く、しかし、すぐ飽きるという子がいる。別の何か目新しい物をすぐ見つけてきて、そちらに関心が移る、そういう性格に問題があるようです。勉強もそうで、何か、根無草、浮草のような感じで存在感がない。  

受かる型の子の型  

 理想の性格は粘着質。なかなか諦めない。一つのことに取り組む、集中して何時間でも考えられる。あきらめない。自分で解かないと納得しないという意思の強さを持つ。礼儀正しい。他人を批判をしない。先生を畏れ多いと思わない子は落ちます。合格する子というのは、先生に尊大な態度を決して取らないものです。軽口を叩く子が受かったことは一度もありません。ちょっと頭がいいと私を揶揄してくる、そういう子もいましたが、不思議と落ちました。これは誠に不思議で模試の成績はよかったのに落ちるのです。中には女子でも余程過保護なのかと思いますが自尊心が異常に高く、ふざけ半分で蹴ってくるというのがいましたが、こういうのは、受からないですね。実際、落ちました。  試験というのは、頭を垂れることなのだと思います。虚心坦懐に師の教えに従う。習い事、稽古事なんかやりながら受かると思うところから舐めてますね。スポーツと両立させるとか言う人もいましたけど、どれだけ自分が優れていると思っているのか。それとも試験を舐めてきるのかと思いますね。  賢い人は、自分の非力さを悟り、だからこそ全力をかけなければ受からないと思うわけです。  本当に賢い人ほど師の教えに従順、素直ですね。それはいくら自分が優秀としても、先人の教えに従うほうが絶対に効率がいいこを知っているからです。中途半端に頭のいい人ほど人の教えを受け入れないものです。  かつて旧司法試験の時代に、20歳で合格する者が出てきました。そういえば私の同期のI君は22歳で受かりました。しかも上位から55番でした。彼に大学の構内で会ったとき、少し話したことがありました。本当にやったことは少なかったようです。印象的だったのは、会社法で、株式分割に関わる問題が出たのですが、わからなかったので、1ページしか書けなかった、と言ったことでした。あの時は、受験生の多くが白紙と聞きました。彼は九大の松法会の答案練習会でいつも一人残って答案の書き直しをしていたと聞きました。先輩の教えに素直に従い、松法会で30番くらいだったのに、現役で受かった。あの時は現役は二人だけだった。彼は後に大阪高等裁判所の所長になっている。数々の名判決を出し、日本の名裁判官100人にも選ばれた。  若い人ほど、賢い人ほど、先人の教えに素直である。自らの考えを決して前面に出さない。先人の教えに従うのが一番正しいということをよく知っている。  

 中学でも高校でも少しできるからと自分の考えを前面に出し、先人の教えを軽んじる、そういう人間ほど遠回りする。これが歴史の真理である。

後付けの説明が罷り通る  

 テレビで、何か起きると、必ずだれかがコメントを求められて何か言う。しかし、その場で求められた説明なんてたいてい間違っている。そこでコメンテーター、評論家、専門家という人たちは、まるで事件が、起きる前から知っていたかのように、当然起こりうるべくして起こったことのように都合のいい説明をする。いわゆる後付けの論理である。まるで最初からわかっていたように専門家然として説明するわけである。  そもそも最初から予見できてたら、事件なんか起こりはしなかった。  学者というのは、後から説明するのが上手い。  まず、整理しよう。  問題には、予め答えのある問題と、最初から答えのない問題がある。  これまで世の中のほとんどの人間は、答えのある問題で成功してきた。もちろん答えがあっても答えがわからない人間は失敗した。  東大などの入学試験は、予め答えがある。官僚というのは、答えのある問題を100%解いてきた人たちである。もちろん何が出るかはわからない。しかし、問題には必ず答えがある。  

 新型コロナのこと  ウィルスのパンデミックがいずれ起きるということは、わたしの蔵書の中にも数冊の本が扱っていた。もう何十年も前から多くの書籍が警鐘を鳴らしてきたのである。しかし、政治家が、一人としてこの問題に真剣に取り組むことはなかった。  新型コロナは、見事に、日本の政治家の無能を、それこそくっきりと露わにした。政府、官僚、大臣、国会議員、知事、みながなんとも愚かに見える今日である。新型コロナがなければ、この人たちの無能さはここまで曝け出されることはなかった。  飲食店、ホテル、旅行代理店、航空会社など、新型コロナには、一溜まりもなかった。  私たちが、一顧だにしなかったウィルス、わたしたちは、自らの招いた災厄に今致命的な反撃を受けている。地球の緑をあくなきまでに破壊し尽くしてきた人間が、自らの招いた、ブーメラン攻撃を壊滅的に受けつつある。 問題をないものとして、先送りして、ずぼらな生活をしてきたつけが今わたしたちに死の宣告を突きつけている。

 演劇、演芸、文学、法律、経済、医学、工学、原子力、様々な分野で、著名な人たちが聡明なる理論を展開して見せた。しかし、そのどれもウィルスなど眼中になかった。みなそれぞれが、環境破壊などとは無関係に自分の世界の中で完結していた。 しかし、そんなことがいつまでも許されるはずはなかったのである。 新型コロナは、たちまちそういう自己世界に完結した人たちを奈落の底に突き落とした。 真面目に働く、小市民の生活をも容赦なく破壊した。 私たち、見向きもしなかったし、政治家も笑止として背を向けてきた。しかし、それは決して無視して済ませることではなかったのである。 ウィルスの問題は、実は、最優先課題であった。道路の整備、ハコモノ、それよりも利権を争奪して、国民不在の政策、そういうことにしか現を抜かしてこなかった人たちへの起死回生の天誅になった。不作為と後手を政策?としてきた政治家が、選挙大敗の予想で、ワクチン接種にようやく重い腰を上げつつある。 いくらでも時間はあった。しかし、ウィルスと正面から向き合ってはこなかった。 原発を平気で進める人たちには、ウィルスの危機など絵空事であったに違いない。  もう20年、30年も前から、ウィルスのパンデミックは言われてした。しかし、誰一人として 真剣にとらえて、そのための準備をするということはなかった。 評論家、コメンテーターなど一家言を展開するが この人たちには、みな大切な何かが欠落していたのだ。 今の政治家のやっていることを見ていると、ウィルスというものに対する認識があまりにも甘いのではないか、と危惧せざるを得ない。  答えのある問題ばかりを評論家、コメンテーター、専門家は、いつも何かが起きると、後づけの説明をしてきた。あたかも自分の理論が最初からその仕組みを解明していたかのように、鮮やかな論理を展開した。  すべては後づけであった。  私たちは、答えのない問題について、教育をしたこと、受けたことがない。試験というのは、答えのある問題による能力判定にほかならない。  新型コロナに答えはない。  原発にも答えはない。  これを説明する政府は無理に答えを用意して無理を通す。  新聞はその使命を放棄して久しい。福島第一原発の放射能の垂れ流しの実態を報じる新聞は皆無である。世の中の人はみなまるで福島の事故などないかのように日常に忙殺している。しかし、福島第一原発のメルトダウンによって飛び散った核物質は、100℃を越えたらたちまち核爆発を起こすのである。だから私たちはこれから1000年に渡って管理していかなければならない。私たちの子孫に生命の危険のリスクと莫大な費用負担を遺す政府に言われるがままに従うのですか。  新型コロナで何もしない無能な政府に私たちはそのまま従うのですか。  なんと善良な人たちなのであろうか。すでに政府は利権政治で腐敗が進んでいるというのに、私たちはそれをどうすることもできない。    

※  竹の会は、考えるということが、子どもたちの共通の価値認識となって久しい。子どもたちは、考えないで聞くということをよくないことと思うように洗脳されてきた。  それでも「わからない」と聞く癖がついた子たちも実はいる。  それ以上に、勉強しない、勉強に関心のない子が紛れ込んではならない。  親御さんから、勉強しないから止めさせたい、といえば、わたしは、渡に船と、むしろ感謝さえもするであろう。勉強が停滞しているのを見過ごすことはできない。 能力が低ければ勉強の関心も自ずと低いであろう。進捗が捗らないのは、本人の責めというより、能力からの制約なら、これは塾の守備範囲ではない。少なくとも竹の会の手に負える問題ではない。わたしは、誰でも構わず指導すれば良くなるなどと言うつもりはない。いやもう年齢的にそういう手のかかる子の指導はいいかなと観念している。  竹の会渋谷教室は、これまでの元代々木教室時代と一線を画した。入試試験の合格者だけに絞って、合格を確実に実現させることことを目指した。いわゆる学習不振児を気長に教育する塾ではない。  入会試験の特例として、小3の試験免除、小4以降についても仮合格による入会特例(ただし6ヶ月間の進捗状況によっては退塾という解除条件)などを認めて入会審査を緩くしたために、仮入会者が増えて、指導に支障をきたしている。竹の会としては、退塾をお願いすべきところなのですが、竹の会のきめ細かい指導を体験し、かつ緩やかではあるが学力が付きつつ実際を見て来られた親御さんとの退塾交渉は、なかなか困難で、特に、真面目に勉強している子の親御さんに懇願されて頓挫することになる。 入会時の約束は反故にされるのが実際である。今は、小3でも入会試験に合格しなければ入塾させないし、仮合格もない。  入会された皆さんも、6ヶ月を目安に、進捗がなければ、キッパリ退塾する覚悟で入会して、退塾をそんなに大袈裟に捉えないで欲しい。東京には、いくらでも塾はあるじゃないですか。探せば、自分の子に合った塾が見つかると思います。  私が、冗談めかして、「退塾したほうがいいのではないか」と言っているときは、実は半分本音です。私がそういうことを言うときは、たいてい何か問題がある、おしゃべりが止まらない、進捗が良くない、など竹の会の指導にそぐわない本質を見抜いているからです。    私はただ純粋に、指導すれば合格するであろう子たちを指導したいだけである。できない子の指導をすることはわたしの仕事ではない。スポーツをやりながら受検する、そういう人は竹の会ではない。習い事、稽古事をやりながら受検するというのなら竹の会ではない。  家族行事、家族旅行などで勉強に空白が出るのが苦にならない人には竹の会ではない。  私のそういう姿勢を批判するのは自由である。私はそういう人は竹の会に来て欲しくないと言っているだけだから、わたしの姿勢に反対なら来なければいいだけのことです。  私は、小石川に入りたい、桜修館に入りたい、そういう真摯な願いを持って、竹の会に指導を仰ぎに来る子、純粋に勉強だけに専念したいと決意している子をなんとかしてあげたいと思っているだけです。  何度も言いますが、学習不振の子を預かる気持ちはありません。どうかそういう意図で竹の会を利用しないでください。          

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