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子どもの知的壁

2020.09.12

 

子どもの知的壁

 一皮剥ける必要がある。そのために過酷なノルマをこなすのだ。受検、受験に成功するには、かけられるだけの時間をかけること、つまり指導時間は多い方がいい。なぜなら子どもが一人で勉強することほど非効率なことはないからである。一人の勉強は時間の無駄になることが多い。
 きちんと指導者がつくこと、これがまず肝要と思う。
 さて、子どもを「伸ばす」には、どうするか、である。竹の会では、導入から基本習得過程、思考錬成過程、直前期まで、指導はほぼ定型化している。ただ小6の指導は、毎年微妙に変える。これは子どもの知能程度とも関係するが、その年の合格状況から指導の実際を検証して、対応を変えるという意味である。今年のように7回解き直しが思考回避、思考停止として働いたのは、想定していなかった。レジュメで合格ハンコが取れないとき、解説レジュメを渡して、レジュメを先に進めるか、解けるまで考えさせるか、判断に迷う。後者として、結局「わからない」という事態が日常的な場合はどうするか、という問題もある。
 実ははっきりしている。わたしのレジュメが解けないほどの子が受かるわけがないのである。これが紛れもない経験値である。解説読ませてわかるようにしてあげても、解けないという事実は変わらない。
 解いたという体験の積み重ねが大切であり、解けなかったけど、解説読んだらわかったというのは全く意味がないという現状は変わってない、ということにまず思い至らなければならない。
 「解けない」という事実が示す残酷な事実についてここで触れないわけにはいかない。
 断っておくが、導入期の子どもが「わからない」というのとまた違う場面である。導入期の子どもが、「わからない」というのは、成長過程のため知能が追いついていないか、もしくは、もともとの知能が水準より低いのか、のどちらかである。もちろん難なく「わかる」子もいるわけである。小学低学年の指導は、まだ未知数という含みで対応している。もちろん小2の段階ですでにそれなりの理解力を示すという子もいる。こういう子に出会えばそれはストレスがない。小3で竹の会の入会試験に白紙ないし0点というのは、正直迷う。小2でも合格する子がいるからである。これを単純に成長過程遅延の問題として処理するのはおそらく誤りであろう。ただこの年齢の子を軽々に断定するのは躊躇もある。
 入会試験に合格したほどの子でも、小6になるとどうなるわからない。レジュメの進捗が基本的に合格で進められる子でなければ、合格はほとんど期待できないからだ。要するに、普段のレジュメで正解率が高くない者が受かることはないのである。
 どういう子が受かりどういう子が落ちるか、これも自ずと経験値が示している。
 翻って、出題当局者は、どのように考えているか、である。小石川なり、大泉なり、はたまた武蔵なりの最近の過去問を解いてみると、出題当局者の意図が見えてくる。まず内申で篩にかける。「よくできる」率は9割前後以上と思われる。
 都立高校入試のように、内申が決定的にはたらくということはないにしても、内申の比重はおおきい。区立九段なように事実上内申で合否を決めるような学校もある。流石に都立中はそれはない。
 最近の過去問を見ると、「これは難しい」という問題が散見する。もしこのような問題を解ける児童を求めているとしたら、合格のハードルはかなり高い。これは集めた生徒が6年後に出すであろう進学実績を明らかに睨んでいる。おそらく当局者は、東大進学の多い私立中高一貫校をはっきりと想定している。そういうレベルの子を求めている。頑張れば受かるという受検者側の幻想は確実に裏切られている。飽くまで幻想に過ぎない。能力のない者はいくら頑張ってもどうにもならないような問題を出しているのだ。
 さて、こうして都立中突破には、「解いた」「正解を出した」という体験を積み重ねるしかない、ということが、明確になった。
 ここで、受検者の質が、二つに分かれることをまず確認したい。
 一つは、問題はほとんど解けないけれど、解説を読んで曖昧に終わらせる。問題そのものを悩んで考えてないので、重点は解説の理解に注ぎ込まれる。ちょっと混みいった問題だと解説も実はよくわからない。これと異なるのは、解説を読んでもさっぱりわからないという子である。これはもう論外であり、受検など考えない方がいい。
 もう一つは、実際に解いたという体験を重ねる子である。レジュメ指導で、合格ハンコを取るのが常態の子である。もちろん低学年のときは、「わからない」という時も、最初は、すぐ丸投げしていたが、もっと考えなければという、わたしの思いが次第に浸透していき、次第に「もっと考える」と諦めないようになっていく。

 さて、7回解き直しも、この分析に即して考えなければならない。前者の質層の子には、7回解き直しは思考回避、思考逃避の言い訳になる。この質層の子の仲間には、模試に消極で名分さえあれば見送るとか、新しい問題に消極とか、要するに、自分の実力に自信がないために、試されるのを極力嫌がる傾向がある。
 今年は、ここ3、4年ほどの都立中過去問、主要公立中高一貫校の過去問を読み下し、これは良問ないし難問というものは、解き、いいものはレジュメに取り入れている。問題を吟味することは、都立中対策として欠かせない。解くほどに都立中過去問の、いや出題当局者の意図が透けて見えてくる。
 よく適性検査対策として、類似問題や過去問を解くことが、行われるが、これは必ずしも正しくはない。木を見て森を見ず、の弊が害になる。具体的に問題を解くという行為は、目先の類似性に囚われて畢竟思考を留守にしがちである。
 具体的な問題を通して、出題当局者の意図を知る、そこから抽象的な真髄に触れる。仔細にかつ総覧的に分析してみると、何をしたらいいのかが、見えてくる。これこそプロの指導者の、のみの為せる技である、とわたしは思っている。
 さてそこで、何をすればいいのか、まずはっきりしているのは、算数を極めることである。算数は、思考を鍛えるに最たるものである。ここで竹の会で算数のレジュメをやるときに、何のためにやっているのかということをよくよく考えてみなければならない。思考を深めるためである。レジュメ集を終わらせて次へ行くことではない。いくら早く終わらせても思考力のついていない者がいるが、これなどは、「わからな」、説明を聞く、「わかった」ことにする、この繰り返しであり、何のためにやっているのか、わからない。いざ、適性問題を解かせて見ればすぐにわかる。算数過程をそういうふうに過ごしてきた子ほど、さっぱり解けない。またまた「わからない」、説明を聞く、読む、というパターンを踏む。いいですか、今やっている算数訓練は、近い将来に解くことになる適性問題を考えて解けるようにする、なるための「引き付け」です。ここで解けない者は結局解けない。
 受かるためには、「解けた」という成功体験の積み重ねが、必ず必要なのである。解けない、ほとんど解けないで、解説を見て、わかったとして、7回解き直しをすること、何の意味もない。それでは受からないのである。
 「解いた」という体験のない者は受からない。
 ここがまず出発点である。
  まやかしは通用しない。指導者がすることは、常に、実力チェックであり、本当にわかっているのか、をいつも問うことである。だから指導者はいつもその証しを求めている。「わかった」という返事は信用しない。自分で試した事実しか信じない。
 竹の会で、算数を学ぶとき、「わかりません」という子は、思考未熟か、思考困難か、であるが、後者ならば、基本的に、見込みはない。
 思考未熟なら場合による。もともとの能力が高ければいずれ開花する。思考未熟段階には、思考困難な場合も隠れている。
 思考が足りないとは、どういうことか。
 レジュメで不合格を取るのは、思考段階が低いからである。問題の意味を理解しないからである。これは問題事実を正確にとらえることができていない、ということである。
 問題事実とは、わたしの造語である。刑法では、犯罪の構成要件というものが予め規定されており、犯罪事実の構成要件該当性が問われる。このとき、構成要件に該当する事実を構成要件該当事実と呼ぶ。この構造とパラレルに考えると、まず算数の問題が与える事実は、生の問題事実として、これは犯罪事実と同じ性質を持つ。算数の問題を解くために要素となる要件を当該問題の構成要件と規定すると、私たちは事実から構成要件に該当する事実を算数的に構成する。その場合に、問題事実を算数の構成要件に該当するように構成する。例えば、面積図の構成要件に該当するかどうか、そのままの事実では無理な場合、事実を見直す。面積図というのは、長方形の面積が 縦❌横 だから、積が面積になるものなら事実にはかなり幅がある。構成要件を事実に即して構成することもある。その場合に「同じ」というところに着目することが多い。算数というのは、「差」の意味を考えることで解決することが多いが、この「差」の構成要件というのもある。
 さてここで二つのことを指摘したい。
 まず私たちは算数を解く場合、問題事実を読み取らなければならない、ということである。問題が解けないという子は、この問題事実をほとんど読み取っていない、ということがわかっている。とにかく問題を誤解する、勘違いする、つまり自分の勝手な思い込みで問題を誤解する、のである。いやよくよく聞き取りしてみると、問題を国語的に咀嚼できていない、問題文のうち、一部のみを曲解し、文全体を読むことさえしていない。
 もう一つは、これからの竹の会の算数研究の方向性を示した、ということがある。竹の会の算数は今後算数構成要件の明確化、構成要件該当事実の類型化を課題とすることになろう。これはつまりわたしの研究テーマということです。
 算数の解けない者は、問題事実を読み取れない。昨今事実を軽視する大人が増殖して、裏付けのない空論を吹聴する輩が多くなってきたのは、算数、数学ができない者、ひいては文系人間の蔓延によるものと思う。世の中の事実を偏見なしに、他人の影響なしに、認識できないのだ。事実を理解することができないのだ。算数というのは、畢竟事実読み取りの訓練にほかならない。
 問題解決とは、事実の理解にほかならない。解決の理論は後からつけるもの、つけられるものである。問題が解けないという子は、問題の示す事実の意味をほとんど理解していない。問題を教えるというとき、その内容のほとんどは事実の意味整理で占められている。事実がわからないから解けない、ただそれだけのことである。
 落ちる子と合格する子の差は実は歴然としている。いろいろとその差はあった。しかし、決定的、本質的差は実ははっきりしている。わたしのレジュメで「合格はんこ」を取ってきたか否か、これに尽きる。合格した子は「合格はんこ」を取る率が高かった。これは模試の成績がいいのに落ちたという子を考えたときも実は明らかな事実であった。例えば、平成28年に、小石川を受検した子は実は複数いたが、その誰もが早稲田進学会の模試では名前を載せた実力者であった。そして合格したのは一人だけだった。その一人がレジュメ指導で最も安定して合格ハンコを取っていたのだ。実はもう一人レジュメの合格はんこをよく取る子がいた。この子は、作文の試験時間を勘違いして字数不足で落ちた。なぜそうとわかるのか。得点開示で、適性IIと適性Ⅲが、合格者より高かった。適性Iは0点だった。字数不足は0点になるということが実証された。竹の会のレジュメで合格はんこを取り続けることは、本番合格の要件であるが、合格はんこを取っても落ちた例はもちろんある。ただし、1名のみである。合格はんこは取るだけではだめで取り続けなければならない。それとしても落ちたのは、別の原因である。内申点が極端に低かったとか、たまたまできなかったかのどちらかであろう。
 要件というのは、合格はんこが取れない子は落ちるという意味である。要件を満たしても、つまり合格はんこを取っても落ちることがあるのは、要件がそれだけではないからである。
 とにかく合格はんこが取れないのなら合格の見込みは限りなくない。
 適性の正体は、究極的には、算数力と言っていい。算数のできない者は受からない。
 都立中高一貫校は、今では私立難関校受験者の有力な併願校となっている。つまり、SAPIXや日能研、早稲アカなどの大手進学塾のトップ層が大挙受検する。もはや都立中高一貫校のための大手塾の生徒はライバルでもなんでもない。そうしたことを念頭に置いて考えた場合、算数力が究極の分岐点となることは疑いない。
 竹の会は算数力を私立難関受験者にも負けないトップレベルの力にすることをめざしている。そしてそれは竹の会で可能であると考えている。ただ考えているというのではない。実際に竹の会の合格者たちが実証している。31年桜修館合格者は500点満点の480点を取っている。同年桜修館に合格した男子は算数特別選抜で巣鴨と攻玉社を撃破している。
 竹の会の想定していたのは、内申の「よくできる」が8割はある子を小3ないし4から育てて、私立難関受験生に伍する力をつけていくことでした。ところが最近は内申がめちゃくちゃなのに入会試験をとやってくる人ばかりです。
 竹の会は、志に燃える小3、小4を求めています。もちろん内申基準は当然に満たす子です。竹の会が、合格まで道案内をします。是非志ある皆さんと竹の会の出会いを待っています。

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