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子どもは考えないで済む方法を編み出す天才である

2021.07.27

 

◎「子どもは考えないで済む方法を編み出す天才である」(養老孟司)
 養老孟司の言葉である。
  子どもの本質が、そうだとすると、塾というのは、なかなかに手強い相手を「教える」ことになる。
 考えないで済ます、というのは、楽だからである。宿題をやらないのは、楽だからである。ノートを綺麗に書かないのは、楽だからである。騒ぐのは、緊張に耐えられないから、つまり楽だからである。しゃべるのも同じである。つまり、その方が楽だからである。
 多くの塾が、おしゃべり、騒ぐ、礼儀を欠くなどのために授業に支障が出ている。塾には宿命的な問題とされている。そして、ほとんどの塾は、やめられたら困るから厳しく叱れない。だから大手その他の塾は、往々にして子どもを、増長させる。親に下手に出て機嫌をそこねないように気を遣い、子どもには優しく機嫌をとる。こんな塾に子どもの教育なんてできるはずがない。
 私は、叱るときは、退塾前提に叱っている。遅刻常習、居眠り常習の中学生は、即日退塾させてきた。かつては受検は無理と判断したとき、迷わず退塾を勧めてきた。だから数か月しか竹の会にいないのに、竹の会をすべてわかったような顔をして竹の会を批判する人間も出てくる。退塾させるというのは、そういう人たちに恨みを買うことなのである。しかも一方的に竹の会を批判するけれど、塾にとって親に退塾の判断を促すのは、指導を継続し難い余程の理由がなければできないことなのである。

 ちなみに、昔はともかく近年竹の会から退塾告知をすることはない。わたしのブログを読んだ親が退塾を申し出るのが普通である。
 子どもは厳しく叱らなければ育たない。未熟なのに、なんで機嫌とって増長させるのか、それこそ子どもを蔑ろにすることではないか。
 

 どうも私が採点するときに、答えを盗み見していたようだ。昔からそういう子はいた。だから気をつけていたのだが、子どもが一枚も二枚も上のようだ。答えを見て「できた」と先へ進めればどうなるのか。適性問題がさっぱり解けない、そういうことがわからないのか。全く意味のない、どころか自滅行為であったことか。それで一年、二年過ごしたとしたら、思考に悩むこともなく、できたことになっているなんて、なんて意味のないことか。一年、二年を無為に過ごしたことの代償は大きすぎる。
 
子どもは考えないで済む方法を編み出す天才である
 その通りでした。
 「わからない」と説明を聞きに来る。これも「考えないで済む方法」である。
 私は、子どものそうした逃げの心諦めの心面倒くさいと放り投げる心を見透かして、彼の彼女の、内に「ある」と信じる「闘う心」に話しかけているのです。「闘わなければならない」、そうしなければ、「生き抜いていけないんだ」と彼の彼女の本能に語りかけているのです。指導とは、子どもの深層の、ほんとうは学ばなければならない、という心に話しかける、ものです。「本当は君は勉強ができるようになりたいんだよね」と私は彼彼女の心の深奥に語りかけているのです。私が叱るのは、これも子どもの心に棲みつく、楽をしたい、苦労しないで済ましたい、という心に対してです。よく大手の子たちが、問題のパターン毎に公式とか、解き方のパターンを覚えて「済ます」のも、楽をしたいから、考えないで済ましたいからです。
 算数で学ぶのは、決して解き方なんかではない。算数の問題は、ある事実をまずみなさんに提示します。この事実は、ある関係性によって意味づけられる事実なんです。その意味を辿っていけば、自然と答えに導かれるものなんです。いいですか、そうなると算数というのは、まず、事実の意味するところを如何に正確に読み取るか、なんですよね。だからどんな関係性が隠されているのか、図にかいたり、面積図を工夫したり、ダイヤグラムで表したり、単純に、線分図を工夫したりとするわけです。それもこれもみんな事実から関係性を読み取るためなんです。図をかかない子は、かけない子は、伸びません。それはベタな問題なら図なしでもなんとかなりますよ。子どもが、「わからない」というとき、見てみると、たいてい図をかいてないですね。たとえ図をかいていても、およそ関係性など出てこない図なんです。図というのは、関係性を見つけるためにかくのであって、わけのわけらん図をかけばそれで解けるというものではないのです。かつて私は高校入試のためのテキストを書いたことがありましたが、タイトルは、「数学真髄」でしたが、サブタイトルとして「発見の視角」と題しました。なぜ、このようなサブタイトルをつけたか、というと、当時、私は朝から晩まで入試問題を解いていた。その中から、数学を解くとは、ある事実を発見することだ、ということをひしひしと感じていた。例えば、ある三角形の角の二等分線が交わる辺を角を作る辺の比で分けられるとか、二次関数の面積の問題はたいてい等積変形で解けることになっているとか、直交する二直線と言えば「-1」が浮かぶとか、云々である。高校入試の数学とは、このような関係性の発見でほとんど解けることになっている。だから私の書いた「過去問撰」は、そのような関係性の視点が、網羅されている。これを7回解き直しした生徒が、都立共通問題なら100点近く、独自問題でも70点を取れるようになるのは、高校入試数学の極意書であるから当然のことである。
 算数でも本質は変わらない。ただ数学と違って、算数には、数学特有の定理というものはない。ただこれは定理を踏まえた問題だなということはよくある。
 算数の視点とは、究極的には、「」に尽きる。線分図も、面積図も、ダイヤグラムもみんな「比」の可視化である。算数は、「比」の妙味で解く科目である。「比」というのは、割合の前表現と言える。割合は、2つの数をとにかく割ってしまう。それで何倍か、で比べる。ただ割合には、全体を「1」とすると、というバランスシート思考がある。
 こうして、「比」を学ぶということは、可視化すること、つまりは抽象化の一つを学ぶ、いや極める、そして思考のレベルを高度化することになる。

 楽をする、面倒くさいから逃げる、そういう子はよくいた。そういう子はどんなに頭がいいように見えても結局挫折する。

 いいですか。楽をするな! 敢えて面倒なことに飛び込め!

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