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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

子どもを損なう大手塾というシステム、まともに教育できない学校というシステム

2016.01.14

 おはようございます。いつもなら次の指導準備を優先のところですが、本日は、ブログの更新を優先です。次のレジュメに何を作るか、見通しをもてたからです。適性検査の問題には、現象から規則性を見つけさせて推測させる問題というのがよくあります。実は、私立入試にもこのパターンはよくあります。だからわたしも何度となくこのあたりの問題はレジュメにして解説も書いてきました。毎日、みくに出版の銀本をめくるのが日課のようになっていますが、どうもいつのまにか銀本の問題を斜めに見て無意識に規則性を探す習性が身についていて、働いている、そう思うときがあります。公立中高一貫校の問題に規則性? 要は、共通の視点といったものだと思いますが、無心に、無意識に、何も考えないで、いつものようにわたしのセンサーにひっかかる問題を眺めて、レジュメにする、そういう作業をしているときに、一瞬ですが、本質というか、正体みたいなものが顔を出す、そういうことが何度かあり、さすがに鈍感なわたしもそれと気づく、そういうことだと思うのです。

 それにしても、子どもたちというのは、「問い」の指示をほとんど読まないで書く、軽くあしらうように思います。平気で字数は超過するし、作文に「題名を書け」とあっても書かない子が必ずいる。「本文をふまえて書け」とあるのに、全く本文の欠片も出てこない、「どのような」とか、「どのように」と聞かれても、それが具体的に書くのだという意識もない。体験などを求められても、事実はすべて「Aさんがなにかをした」みたいな書き方で内容には触れない。

 問いに答えられないという点では、何を聞かれているのかということも悟らない。折角資料や会話文が与えられてヒント満載なのに一切このヒントを生かさない、ヒントを全く無視して書く、これはいったいどうしたことなのか。特に、資料などには、これが答えの鍵ですよ、ということが明らかに暗示されているのに、それに気づかないのか、全く意に介しないで答案を書く。無関係に答案を書く、というのがわたしには理解できない。公立中高一貫校の適性問題というのは、答えのヒントが問題の中に埋もれている、隠されているということでは共通している。早稲田進学会の模試でできたりできなかったりするというのは、模試そのものの欠陥の可能性が強い。つまり、答えのヒントを問題の中に暗示すべきところ、そういうものが一切ないという問題のつくりになっている。こうなると、早稲田進学会に通っている者がいい点をとることになるのは予測に難くないし、たまたま知っていたという知識の有無ができ不出来を左右する。少なくとも本番の問題はこういう質の欠陥はない。だから模試はやはり模試なのである。本番のように年にただ一度の試験のために期間をじっくりとかけて討議に討議を重ねて作られた問題とは比較にならない。

 適性検査は、問題の中にある答えのヒントをそれと理解し、問いに即して、問いに答える、それだけのことである。

 さて、このところ大手、特にできる子もできない子もごちゃ混ぜにしてとにかく人を集める、駅前塾、栄光やエナなどをさしてのことだが、この大手の塾に行ったはいいけれど、1年とかそれ以上いて結局伸び悩み、伸び止まりどころかどうにもならなくて現実に気づく親御さんが多いように思います。いやそろそろ大手の弊害、いや中身のないことに気がついてきた親御さんがポツポツと出てきたということなのでしょう。

 これはしかしよく繰り返されてきた現象ではあります。私立中受験のために大手の進学教室に通うということは昔からあったことであり、そこでも大手志向から大手懐疑という循環が繰り返されてきたことはわたしはよく知っています。かつては大手についていけないという、いわば落ちこぼれた私立受験生が竹の会によく漂着したものです。

 大手の弊害というのは、私立では言い尽くされてきましたが、公立中高一貫校では私立ほど表面化しない事情から、つまり平易な問題を解かせて能力の欠如を顕在化させない大手の商売上手のために、なかなか問題とされてこなかった。親たちも大手で自分の子が完全バカになっていくのを脳天気に見守っている、そういう風景である。

 大手の何がいけないのか。それは、現代の臨床医学に本質的に変わらない致命的欠陥を有するからです。投薬医療と金儲けしか考えていない医師、病院、医院の横行で、医療は、対症療法でごまかされる割合が高い。症状を見て原因よりも症状を改善させることに重点をおき、とにかく症状を和らげる薬を処方することが、すなわち治療という実態である。病気の原因を知るなどということがほとんど不可能な現場では医師の経験、それも対症療法ばかりやってきた医師の経験ですから、偏見と誤診に満ちた経験ですが、それがまず試される。近頃は何億もする医療機械が作られて、巷の医院では設置するのは無理だけれど、病院へ行けばたいていはある。それだと確かにわかることも多いけれど、その代わりにわたしたちは自分の身をもって天文学的な数値の放射能を浴びてしまう。会社員は会社の定期検診で毎年のように放射能を浴びているけれど、それも30年ほど続ければ病変となる可能性を秘めている、そう考えるのが論理的だと思うのだけれど、どうなのでしょうか。

 大手の塾というのは、大量の子どもをまとめて教える。そうしなければ商売にならないから。それが授業の必然性なのである。この点は学校も変わらない。バカも天才も一緒に授業すればどうなるかなどやる前からわかっている。教師は文科省、教育委員会、校長、教頭の言いなりに言われたとおりに教えることしかやらない。事なかれ主義がこの世界で生きていく術なのである。逆らわないで神妙に管理されている体を装うことこそが生きる術なのである。こういうシステムの中でまともな教育など期待するのがおかしい。区立中学では、内申の裁量権を有するコンプレックスの塊のバカ教師がまじめな生徒を翻弄する。ふざけた制度である。わたしなどは今の中学だったらまず進学校には行けなかったと思う。わたしの時代はテストでいい点をとった者が5をもらい、進学校に合格するのがあたりまえだったから。

 少なくとも公立中高一貫校対策塾は狡猾である。バカをバカと悟らせない、商売上手だからである。小4、小5の間は平易な授業、簡単なテキストで問題を顕在化させない。親も大手に行っているからと根拠のない安心感を持ち、そのごまかしに気づくそぶりもない。小6の夏も終わるころになって初めて自分の子の実態にうすうすとではあるが、気づくのである。どんなにできる子であってもぬるま湯のような環境に1年も2年もいれば、りっぱなバカ小学生に仕上がっている。伸び悩んでいるというけれど、何を云っているのか、そもそもの選択が誤っていたということではないのか。

 大手塾は、対症療法に等しいことをやっているだけにすぎない。「わからない」という問題を平易にわかりやすく教えている。それだけのことである。いやわかりやすく平易にというのも怪しい。学生のアルバイトがどこまで理解してやっているか、疑わしいことだらけである。適性問題の類似問題を練習させるだけのこと以上のことは何もやっていない。大手の商売は、結局、どれだけ本番の問題らしい問題をつくり買ってもらうかにいきつく。違うでしょ。こどもがわからないのは、できないのは、原因はどうなっているのか。そもそもの思考力が問題でしょ。割合も不完全、未熟な理解しかしていない子たちばかりなのに、いったいそういうレベルの子たちに何を理解させようとしているのでしょう。

 思考からまずつくるといのは簡単ではない。これだと必ず「不可能」な子が出てくる。そうなると大手には商売にならない。バカでも取りこんで商売のタネにするのが大手なのだから。時間だってとにかくかかる。個人と地道に付き合う、個人をとことんつきつめる、そういう姿勢がなければできない。とても大勢をまとめて処理するなどいうことには向かない話である。つまり、商売にはならない。

 だから大手に限らず巷の「どこでも」塾だって同じことをするしかない。医院が適当にクスリを処方して痛みでも腫れでも引けばめでたしというのと本質は変わらない。個人塾だってくさるほどある。中小塾だって腐るほどある。それが東京である。竹の会のように手のかかる、面倒な、厄介な指導を時間をかけてやるような塾がその中にどれくらいあるのか、おそらくほとんどない。だから竹の会はそういう巷の塾の尺度で胡散臭い、独善的だなどと言われる。

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