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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

子どもを真のバカにする無見識な親が蔓延る闇~高校受験、公立中高一貫校受検の真理

2016.02.22

  おはようございます。やや気温が下がりました。それでも6℃です。春一番は何だったのか? 春二番もありそうなことを言ってましたが、そうなるともう一番の意味はないでしょ。ただの春の前兆でよろしい。それもほとんどあてにならない前兆です。

 長い間塾をやっていると「こうしなければだめになる」「ああしなければだめになる」というのが、わかってくる。それでわたしの危機を感じるセンサーがはたらきいろいろな信号を発するのだけれど親も子も正直聞く耳をもたない。ほんの一握りの親子が真摯にわたしの言動に敏感なだけ、である。それにしても今年は「定期テストの準備」を最優先させてきた生徒たちが、そのせいで危機に瀕している。受験のノルマをこなせていないのだ。内申をとるためという大義名分があるから、「(定期)試験勉強します」という申出をわたしもあえて却下することはない。しかし、少なくとも進学指導重点校クラスの受験だとこれは自殺行為に等しい気がする。

 先日、読者の方から、指導を始める時期、つまりは竹の会の指導を受けるとして、いつから始めたらいいか、という相談を受けましたが、その方は、某国立大附属小の方で将来の高校受験のことを心配されているわけです。

 以前国立T大附属中に内部進学したばかりの新中1を短期間でしたが指導したことがありました。辛うじて進学できた部類です。趣味と習い事が時間を占拠していてそれをそのまま中学でも続けるという。正負の数や文字式のレジュメを使ったみたけれど、なかなか出せないので、解説レジュメとセットで渡したら、考えたふりしてそのまま丸写しの答案を出してくる、それでニコニコなのである。小学のときに思考するという大切な習慣を忘れてきた、実は将来性はなかった。中学に進学すると同時にそのT大附属中生がほぼ全員入るという補習塾に入った。その塾ではT大附属中の中間・期末テストの過去問を蓄積していて対策をとってくれるのだそうな。そして主要5科の授業を週4日やるのだという。使っているテキストは、新中学問題集でした。そして学校の課題とその補習塾の宿題に追われて、竹の会で思考力をつけるという当初の母親の希望はいつのまにか雲散霧消して当の母親も結局その場しのぎに終始する言動になれ果ててしまった。当初の見識を伺わせた親の態度も変節甚だしいものでした。

 中3になって附属高校へ進学する時にどうなっているのか。結果は見えているでしょ。思考することのできない生徒に未来なんかない。まず高校受験で成功するとは思えないし、仮にありえないことであるが、高校に進学できたとしても思考力のない生徒がどこまでやっていけるのか、わたしには悲惨な結果しか想像できない。

 思考力のない子には未来はない。高校受験にしても、公立中高一貫校受検にしても成功は疑わしい。最大の対策は、とにかく思考力をつけることなのに、そういうことはお構いなしに、いや軽視しているのか、ほとんど無視して、カリキュラムを進めていくだけ、これで一年、二年も過ぎれば、りっぱなバカ小学生が完成する。まず、計算がまともにできない。割合どころではないのである。「計算はできる」と言うけれどまるでできない。「割合はわかる」というけれどウソである。親は子どもの「わかる」という言葉にニコニコしている。ありえないバカ親である。そもそも子どもに思考力をつけるというのは一大事業である。わたしは子どもの「わかった」などという言葉を根拠に先へ進めるなどはありえないと思っている。わかったかどうかは、わたしがそのためのレジュメで確かめて検証することなのである。大手の授業がまた聞いてあきれる。テキストの1項目、一単元の中で「割合」をやる、それで終わりである。日数にして2日で終わる。4ページほどだそうである。バカか。それで終わったと信ずる親も親である。

 小学の4年生、5年生というのは、思考力をつける、ということではもう掛け替えのない時期である。この機を逃したら、一生の不覚である。この時期に習い事、稽古事もけっこうだが、それならそれでもう勉強なんかさせることもない。そういう道というのが、どういう道なのかさっぱりわからないけれど、とにかくそういう道へ進めばいいのである。早期英語教育、日本舞踊、楽器演奏、珠算、書道、スポーツと中には複数掛け持ちと言う子も少なくない。それは結構なことですが、思考力をつけるというのはそんな習い事とはわけがちがう。長時間、ひとりで延々と考える、そういう孤独な世界に身を置くことである。今年の小6の中には、この孤独な世界に身を置くということが最後までできなかった子もいた。竹の会にいてそれはないだろうと思うけど、性格、能力ともに伴わなかったということであろう。

 そもそもわたしの指示に素直に順わないからうまくいかないのである。普段の勉強は、5時間と言えば、最低でも5時間をやりきる、夏は一日7時間と言えば、最低でも7時間をやりきる、理科、社会は中2の夏から中3になる直前までに仕上げると言えば、それを死守するだけの気概と実行がなければならない。

 課題を遅滞することなく提出するというリズムにのれなければ失敗してもしかたない。やることをやらないで落ちたといって悲しむのはわたしには理解できない。やらなければ落ちても嘆くことはない。そうなるべく行動してきたのだからそうなっただけのことであろう。勉強もしない人間がどの面下げて掲示板に自分の番号がのることを期待して立てるかということである。

 いろいろ勉強しない大義名分はあるでしょ。しかし、わたしの期待するだけのノルマを果たせなければ確実に落ちるということだけはわかっている。定期試験の準備で何週間も使い、わたしの期待するノルマを不十分にしかやれなかったのなら落ちてもしかたない。わたしはわたしの想定するノルマをきちんとこなしてくれたからこそ合格を確信することができるのであり、そういうわたしの信頼を形成できなければわたしには打つ手などない。

 勉強というものをなめている親や子がなんと多いことか。そういう親子は大手に行ってそのまま撃沈してしまえばいいだけであるが。勉強に真摯に向かい合う気持ちがあれば、小学の今、何が大切なのか、冷静に考えればすぐにわかることである。

 竹の会を薦められて「遠い」と考えて近くの大手に行ったという人の話を聞いたことがあります。まず何が遠いのか、わたしにはわからない。同じ渋谷区だったらなおさらです。竹の会には、小3の2月から、千代田区や品川区などから通ってきた子がいくらでもいる。また近くの大手に行くというのも笑える。近くにバカ製造所があるからということでしょ。月謝が安い? バカを言っちゃいけない。入塾した途端にさまざまな特別講座が付加されて気がついたら結構な額を払わされているはずです。「行きはよいよい、帰りは恐い。通りゃんせ、通りゃんせ」、これが大手です。無料体験?笑わせてもらっては困る。「行きはよいよい」でしょ。「帰りは恐い」に決まっている。無料なのは、最初だけ。入塾した途端あれこれ合わせてかなりの額を払うはめになっている。それで1年、2年たってりっぱなバカになれば世話はない。

 親がまず子どもにしてやることは、勉強というものとの付き合い方を教えてやることです。教えるというけれどそれは習慣化してやることです。あれもこれも習わせようとすると落ち着きのない、集中力のない子になるだけです。書道何段、珠算何段とすごいと思います。英検準2級もいいでしょ。しかし、ちょっと待ってほしい。この勉強に対するよそよそしさは一体何なのだ。何時間も集中して思考するということとは無縁の活動的な性格はいったい何なのだ。小学生からもう大人並みののんびりと怠ける習慣はいったい何なのだ。本を読む、この「読む」というのがわかっていない。ただ活字を追うこを「読む」と信じている。「読む」というのは、思考作用なのです。あれこれと推測し、論理をはたらかせて、つじつまを合わせる、それが「読む」ということです。

 算数が苦手?そんなバカなことを言ってはいけない。基本の理解に苦手もくそもない。苦手なのは、知能の問題でしょ。

 とにかく高校受験にしても、都立中受験にしても、まず思考力である。小学の時期に思考力をつけないで、勉強のスタンスも持ち得ないで、中学生になる、このことが恐ろしい。

 小学の間につけなければならないのは、なによりも勉強というものに対するスタンスであり、勉強が実行するもの、実行して初めて意味があるのだ、ということを徹底してたたきこむことである。そのいい機会が受検である。受検を通して子どもにそのスピリットをたたきこむのである。受検しないからといって、これを怠れば、取り返しのつかないバカにしてしまう。

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