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子どもを飼い殺しにする大手の偽善と親の勘違いの善意

2016.02.25

 都立入試も終わりとにかくも一つの区切りですけれど発表まで中5日もまた考えまいとしてもどうしても考える、それで脳が疲れ切って体もボロぞうきんのようになる、確実に寿命は縮まっている、気がする。本番から掲示板までの中何日いうのは本当に心身もよれよれになり、何かと寝つかれない夜を過ごすことになる。意味もなくぱっちりと目が覚めて、睡眠はかなりに不足しているはずなのにどうしても寝れない。

 今年は、小石川ショックというほどに私には正直堪えた。子どもたちがわたしの思惑通りに動かないという苛立ちを感じながらあっという間に本番に突入してしまった。わたしの懸念というのは正直恐ろしいくらいに本番では現実となる。昨日の都立でも、数学と英語の「質」がとれなかった生徒が心配した通りに英語と数学がとれていない。小石川のときは、所定のレジュメをやれないままに本番に突入した。特に、論説文で鍛えるということが遂にはできなかったこともわたしの懸念の一つであった。

 小石川を除いた他の公立中高一貫校では、これまでと対応を変えて、できない子にはできない子のやりかたをという指導を進めた。作文を重視して、適性は50%とればよし、とする指導に切り替えた。できない子たちというのは課題もほとんど出さず、指導レジュメもほとんど「合格はんこ」はとれず、こなした量も極端に少ない。それでも合格者が出た。他塾の子たちがボロボロ落ちているのに竹の会の子たちは不思議と受かった。もともと竹の会では、計算を鍛える、割合を徹底して一年間鍛える、などの基本力だけは他塾の子たちには負けない、絶対に負けることはない、という強みはあった、と思う。

 この点は、大手に1年も2年も行っていたという子たちをたまたま見る機会があったときに実感する。

 まず大手に通う子たちというのは、計算力が全くない。さらには、割合というものをこれまた全くわかっていない。これは、日能研とか、四谷大塚という進学塾については、その他大勢組というのがいて、昔から言えることであったけれど、結局、今もその事情は全く変わっていない。栄光とか、エナとか、進学塾とは言えない大手塾だとなおさらである。どこかの塾の宣伝に、塾の合格速報について合格しているのは5%だ、というのがあったけれど、もっと少ないでしょ。10人合格というときは、10÷0.05=200 人いる中の10人合格ということである。つまり、残りの190人は落ちている。

 不思議なのは、これだけまともに計算もできないのに、割合も理解していないのに、どうして1年も2年も親は黙って通わせているのか、ということである。小さな塾だと、できないとすぐせいにされて、親が文句を言い出す。大手だと親は文句を言うどころか、悪いのは、できる子たちについていけない自分の子のせいだと考えるほどに殊勝である。

 大手もいくらできなくても平気である。とにかく自分たちのカリキュラムにしたがってもらえればできるようになるはずだという態度である。できる子たちが作った実績をだれにもそれが可能なように親たちに吹き込む。塾の偽善も曇った親の目には真実にしか写らない。大手の言うようにカリキュラムをこなしていけば受かると親は信じて子を説得し、子は親の言いなりに通う。なにしろ大手に通っているというだけで大船に乗った気分になるから不思議である。いずれはそのほとんどが難破して沈み、少数の、まあ5%というけれど、2%程度が華々しく成功者として輝く仕組みになっている。

 こういうのを飼い殺しという。大手の偽善とその偽善に善意の親が手を貸す構造である。子にとって大手は親の勧める絶対宗教に近い。信じてやれば自分も受かると信じている。やってみなければわからない、というのが、また大手には都合がいい、理屈ではある。しかし、たまたま落ちたにしては、95%は多すぎる。そのほとんどが計算もろくにできない、割合もわからない、思考するスタンスもない、勉強するスタンスもない、習慣もない。で、どうなるの?

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