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学力の正体/国語の解き方第3回講義

2022.05.03

国語の解き方第3回講義 対比と対立について

 文章に2つ以上の内容が書かれている場合

 それらには必ず関係があります。

 こういう場合は、①共通点に注目すること(対比関係) ②相違点に注目すること(並立関係)が大切です。

 なぜかというと、この共通点や相違点を抽象化したものが、筆者の意見となる可能性が高いからです。

 並立(並列)関係とは何か。

 並立とは、同じ大きさ(抽象度)で、似た内容を述べることをいいます。たとえば、「動物と植物」は同じ抽象度の並立ですが、「動物とイヌ」では具体性の度合いが異なります。

 2つ並んだら、並列なのか、対比なのかをまず判断してください。

 もちろんこれは論理的な文章の話しです。2つ並ぶということは、それらの間に共通点と相違点がある、ということです。そこで、そのどちらが問題にされているか、これを本文内容から判断しなければなりません。これが読解ということです。

 そこで並立の目印をあげておきます。

 ①AもBも。AとB。AやB。

 ②AまたB

 ③AまたはB。AあるいはB。

 ④まずA、次にB。一つはA、もう一つはB。第一にA、第二にB。

  はじめにA、次にB。前者はA、後者はB。

 対比の目印

 対比とは、同じ抽象度で反対の内容を並べることです。

 ①異なる2つを並べて、違いを示す。

 ②異なる2つを並べて、優劣をつける。

 このうち②の優劣関係の「優」に属する方が、筆者の意見となります。

 こうして対比を発見できれば、筆者の意見がわかる、ということが見えてきます。

 対比の目印としては、①逆接 ②対義語 ③比較 ④打ち消し ⑤露骨な表現 ⑥内容、などがあげられます。

 ①の逆接とは、「だが、しかし、ところが、けれども」などの接続語まことです。これらの接続語の前後は「反対」の内容になります。逆接の前後は対比の関係にあります。

 ②の対義語とは、本文中に出てくる「具体・抽象」、「主観・客観」、「人工・自然」、「現実・理想」などです。語彙力が必要です。黒塗りの文章にしか見えない人は漢検やったり、本を読んだり、新聞読んだり、と語彙を増やすことです。

 ③の比較は、「Aよりも、むしろB」、「Aに対してB」、「Aに比べてBの方が」などといった表現のことです。

 ④の打ち消しとは、「AではなくB」、「違う・異なる」、「反して」など。

 ⑤露骨な表現とは、「対比」「対立」「相違」などのことです。

 ⑥の内容とは、「一般論と主張」、「昔と現在」、「日本と外国」のようなことです。この内容から対比を読み取るのはなかなか難しいかもしれません。

 本日の講義はここまでです。この国語の講義は100回ほどを予定していますので、講義はプリントアウトして後にまとめてくだされば、完成の暁には一冊の読解集になっているかと思います。

 

◎学力の正体

 学力とは、何か? この3年間わたしは、今年筑駒・開成にトップクラスで合格した子の指導に専念してきた。その指導の過程はわたには考えることばかりで、いろいろと手を打つとして、それはどうしてもわたしの大学受験の経験、大学受験生の指導の体験、それまでに読みあさってきた膨大な書物の知識から学んだこと、子どもたちとの指導で学ぶことなど多くの情報が錯綜していた。最後は、いつも直観だったのかもしれない。わたしの危険センサーがはたらいて次の一手を絞り出したのかもしれない。そのおかげで夜も中々眠れずにいい策を考え続けてしまい、最後には、医師に酢眠剤を処方してもらうことになってしまった。

 開成、筑駒は、高校受験を専門に研究しどうしてきた私には、最後に残された仕事であった。塾という仕事を終わるまでに、やりとげておかなければならない仕事であった。竹の会のような小塾にはなかなかそういう逸材が来てくれないし、たまたまいい子がきたと喜んでいても、中2くらいになると、竹の会ではダメだと親子で決めつけて、どこやらの大手に去って行った。その後そういうこたちがどれほどいいところに受かったのかは終ぞ知ることもないし、興味もない。

 竹の会を見くびる親子に用はない。鰯の頭も信心からと言うではないか。要は、信じるかどうかだ。信じる人こそ成功するものだ。疑う人間はどこに行っても変わらない。だから塾を転々とする親子も多い。

 長年の研究の結果、わたしの心境にも著しい変化があったのだと思う。

 それが今のわたしの学力というものの考え方に結実している。

 学力とは、抽象化できる力のことである。今は、わたしはそう思っている。学力をつけていく子というのは、間違いなく「抽象化の次元」が高い。いや自由自在に変えて見ている。開成・筑駒の指導を通して、わたしはこれを確信した。その場の状況をよく見比べて、適宜「抽象化の次元(基準)を変えて物事を見ている」、これである。

 なかなか学力のつかない子というものの指導を通して、そいう子たちが、物事を抽象化の視点で見れない、どうしても具体的な、細かな事実に囚われて、結果として、ものごとの成り立ちを抽象化した視点で見れないままに、「わからない」という迷路に迷い込むのを見てきた。

 今のわたしの指導のコンセプトはこれほど明瞭なことはない。子どもたちにどのようにして抽象化という視点から頭の中にもちこめるか、そういうことを考えながら、指導している。

 今後のわたしの指導は間違いなくそこに集約したもとなるであろう。

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