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小学学習難民の現実み

2021.04.24

小学学習難民の現実み

  世の中の大手に通う子どもたちが、これほど酷い状況なのに、親たちは相変わらず、大手に子どもを迷いもせずよく送り込むものだ。この人たちは、自分の子どもが1年たち、2年経って、取り返しのつかないことになっていることに全く気づくこともない。
 新型コロナで、場当たりの策しかない、無策の日本政府を、迷うことなく、結果として支える国民の図に似ているような気もする。
 驚くのは、大手どころか、そもそも塾というものに、行くこともない子たちの惨状である。こちらはこちらで、学力難民として沈殿している。
 大手にいた子たちが、2年経っても学力難民状態であることに、驚きを禁じ得ない。
 大手というところはいったい何を学ばせるところなのか。
 一方的に知識を与えるだけなのか、いやそうなのであろう。大手にいたからといって、思考力がついたとはとても思えない。
 大手にいたという子たちで、まともな子を見たことがない。みな竹の会で撃沈してしまうではないか。竹の会の小4ができることを、なぜ大手に2年もいた小5、小6が全くできないのか。
 小4に計算も割合も負けて、それでも、なんで大手なのか、あほらしくてやってられない。
 
 わたしは、かつて九段で開催された学校説明会に合わせて、チラシを配ったことがあります。あのときは、有名な大手塾のスタッフが大挙やってきて、物量作戦を展開しておりました。消しゴムや鉛筆、キャンディなどを添付したチラシに吸いつくように親子が手を出しておりました。竹の会は無名ということもあって、怪訝な顔をされる、無視して大手に群がる。私は、これは勝ち目はないと観念いたしました。それからもうそういうことはキッパリとやめました。竹の会が渋谷駅そばに移転してから、生徒集めに苦労していましたので、大手の真似をしてチラシを配ってみましたが、それで生徒が来たことはありません。
 竹の会は宣伝をする資本もなく、本当に細々と経営している、小さな塾です。
 あれ以来、結局宣伝というものは一切やらなくなった。
 ほとんど目にも止まらないであろう、竹の会のホームページ、それでも本当にたまたま一人の人が、目に止めてくれて、そのような人の中の、またほんの一部の人が、竹の会に入会してくださる。竹の会は、もう今年の10月で満36年、37年目に入りますが、36年間、そういう少数の人たちに支えられて生きながらえてきました。
 竹の会を始めた昭和60年10月当時も河合塾、代々木ゼミナール、駿台などの進学大手や、多くの中堅塾、個人塾が鎬を削りながら。犇いていました。その当時から大手で落ちこぼれたという子たちを見てきましたが、今は、公立中高一貫校に大量の子どもたちが、通うようになって、進学塾オンリーだった時代とは違う、というかもともと受験などしなかった層が取り込まれているのが違います。こういう子たちは、進学塾の落ちこぼれとは違う。この子たちに必要なのは、基礎学力である。小学校の履修事項も実は満足に習得しきれていない子たちが多数を占める、そういう子たちの指導である。そういう子たちが、公立中高一貫校制度ができたというので、これまで受験とは無縁だったのに、こぞって押しかけた。これは公立中高一貫校対策を謳う大手には格好の獲物であったに違いない。
 塾というものを知らない、親と子が、大手の宣伝にあっという間に取り込まれる。無料体験という甘い餌でいとも簡単に取り込まれてしまうのをずっと見てきました。釣られる親子は、哀れな、思考というものを持たない人たちにしか見えない。少なくともわたしにはそう見える。なぜって、先にどうなるか見えているからです。
 私は、子どもたちが、一年、二年と学んできたという大手に義憤を感じている。きちんと指導してあげれば、かなり伸びていたであろう子たちが、もはや取り返しのつかない状態で喘いでいるのであるから。わたしはそういう子たちをもう数えきれないほど見てきた。
 大手という看板を掲げながら、子どもたちに指導ひとつしていないではないか。なぜ、2年もいて計算もまともにできないのだ、割合もまるで理解していないのだ。
 大手というだけで、親はその内容を問うこともしない。これが竹の会だったら、入会する前に、あれこれやと細かに質問してくる。それでもなかなか信用しない親も多い。私はそういう親たちを嫌というほど見てきた。大概、私はお断りしている、あるいは「ご希望に適うのはどこそこの大手塾かと思います。そちらに行かれることをお勧めします」と、切り捨てている。
 いいですか、竹の会でまともに算数のできる子に仕上げるには、その子の素質にもよるが、普通の子であれば、2年はかかる。長い長いやり取りを重ねてようやく子どもは算数の世界、思考の世界へと覚醒していく。2年かかるのである。最低でも。さて、大手でその2年を無駄に過ごしてきた子たちに私がやれることは何もない。
 そういう子を見てみてわかるのは、計算は未熟、割合は思考に何も寄与していない、ただ知識として、公式を暗記してそれを使うことが割合と思っている。だから平気で逆算式をつくったりする。わからないとすぐ訊いてくる。考えるという習慣が根づいていなのだからそうなる。
 見ていて悲しくなる。
 思考というもの、まず問題事実を読んだら、考えるということが、形成されることはない。これは悲劇であろう。思考の欠落した子にして、大手は何の責任も感じないのか。親たちは、そんなことも考えることはなく、大手で失敗すれば大手だからと、諦める。失敗したのは、自分の子が頭が悪いからだと納得する。いや違うでしょ。これが竹の会だと、たちまち悪い塾というレッテルを貼られることになる。自分の子は悪くないという前提でかかってくる。だから大手の権威はすごい。
 子どもは然るべき指導をして導いてやれば少なくとも受検レベルには達しなくても、最低の力をつけられる。そういう子たちが、適切な施術を施されることもなく、掃き溜めへと流されのが、疑いもない現実なのではないか。

より次元の高い勉強を!
 例えば、日比谷の英語が、普通に解けるようになるには、日比谷レベルの英語をやってもダメだということだ。早稲田、慶應高校レベルの英語をやらなければならない。とすると早稲田、慶應の英語が解けるようになるには、どうだ、ということになる。
 何が言いたいか、というと、何事も自分がめざすレベルよりも高次のレベルをやらなければならない、ということだ。
 竹の会における、私の指導の基本コンセプトは常にそうであった。
 適性問題についても、その基本的思想は変わらない。ただ日比谷の英語、慶應の英語といったヒエラルキーが、適性問題では、それほど分明ではない。
 より高い次元の勉強を!
 これは、受験では、真理ではある。しかし、資格試験は、また別の論理が働く。一般に、資格試験では、択一式なら、過去問をやっていればいいというところがある。公認会計士試験については知らないが、司法書士試験司法試験では、過去問を回せばたいてい受かる。
 しかし、司法書士試験の書式問題や司法試験の論文問題については、この限りではない。前者については、技術的な演習形式で訓練を積むことが有用である。実は、わたしは、この書式問題を制作するアルバイトをLECでやっていたことがある。登記の先例集やジュリストの百選なんかから論点を拾って一つの問題として作り上げていた。司法試験の論文は、刑法なら刑法で論点ごとに答案を書いて覚えるということでいいのだと思う。
 資格試験の場合、より高い次元をということで、学者の書いた論文なんかに手を出さないことである。またやたら難しい演習書なんかやらないことだ。もっと言えば、学者の書いた体系書は絶対読まないことだ。これをやったら受からない。
 つまり、資格試験では、より高い次元をという格言は通用しない。

 適性対策はどうあるべきか。
 より高い次元を!はもちろん妥当する。
しかし、全国の適性問題を見ても、私立のように、ヒエラルキーは必ずしも明確ではない。
 地方と都市の公立一貫校では、差が見られる。都立は、別として、その他の都市では、例えば、千葉、埼玉、神奈川それに京都などはヒエラルキーの上位に位置することは間違いない。
 より高い次元をめざせ!という視点から、竹の会の場合、算数重視の基本姿勢もあり、私立難関中の算数による思考訓練をどうしても重視せざるを得ない。
 竹の会では、特に、小石川志望者については、開成、早稲田中、麻布などの最難問による訓練を必須とする。この基本指導スタンスから、桜修館志望者にも、従来は同様に進めてきたが、今年は、そこまでの必要なしとして、竹の会の上級シリーズの「入試速解」までとした。
 

 失敗する、伸びない、伸び悩みは、季節の集中指導に参加しないからです!
 去年の緊急事態宣言のとき、竹の会の季節指導は、自由参加でした。今は参加しなくてもいい。しかし、参加しなければ確実に学力は低下する。
 竹の会では、参加した者と参加しなかった者の差があまりにも歴然とした差になって現れる。参加しない者は、逆に退化するのが常だから、その格差は倍化する。
 季節の集中指導が、その後の進展を相剰的に加速させることは竹の会では公理に近い。
 参加しなかった者が、家庭学習をまるっきりしないとすれば、さらに差は広がる。特に、一人で家庭でやる勉強については、つまり指導なしの勉強については、何もしないのと五十歩百歩である。
 

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