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小石川、両国、白鷗、都立戸山、都立青山は掌中にあり!!/真っ白い手帳/小学生低学年指導の要諦

2019.05.20

◯真っ白い手帳が、好きです。

 何か、そう、なんでも書けそうな気がしてつい買ってしまう。私の拙い字が、たちまち白の世界をつまらなくすることはもう何度も味わってきたものです。その度にわたしには手帳は向かない、合わないと思います。見事な字でも書ければ、根気があれば、と思いますが、書き続けることで完成した手帳というものを経験したことがありません。

 目的を見失うな!
 手段は目的ではない、手段は、目的の下僕である、ここを見誤ってはならない。
 何が目的なのか、そこから、手段の価値も決まる。
 皆さんは、今のところ関係ないと思いますが、難関試験を受けていると、次第に、目的を忘れて、手段を神格化してしまうのです。
 大学受験のとき、まず、ひとつの試練がある。おそらくある。それは、今、使っている教科書、参考書、問題集で、受かるか、という形で現れる。浪人して予備校に行けば、それまで使ってきた参考書などをどうするか。予備校のテキストだけで受けるのか。いやそれで受かるのか。それまで自分のやってきた参考書は使わない方がいいのか。ここでは、大学入試というものが、参考書、問題集の選択が大きな意味をもつということを前提に話しています。
 難関国家試験について、試験の難しさが、手段を神格化する。手段に翻弄される受験生が多いのがこの世界である。それだけ難しい試験だから、手段となる基本書、参考書、問題集も、それ以上に、価値あるものと考えるのである。基本書を大切にし過ぎて、折れ曲がり、汚れを異常に気にするようになる、そういう異常な人が出てくる。本末転倒の現象が普通にあるのが、この世界である。
 手段を神格化する前に考えてほしい。そもそもそんなに難しい試験か、ということである。普通の感覚を大切に、常識的に考えてほしい。判断してほしい。要するに、徒らに難しく考えるな、ということである。例えば、今は易しくなった司法試験、あるいはやたら知識量の多い司法書士試験なんか 、最初から難しいという先入観で、不安から、つまり「知らないから」、手痛い判断ミスをすることになる。論文試験、記述試験というと大袈裟に考える癖はやめたほうがいい。大学入試と五十歩百歩だ。できるだけ客観試験と捉えて、ほどほどの、つまり正味のことをやればいいのである。敵を勝手に大きなものと拡大して捉えて、大袈裟な勉強が必要だと思い込み、一寸法師を捕まえるのに、ガリバーを用意するのごときをやる。時間も無駄だが、やらないでいいことを無駄にやるの愚をやるわけで、要するに無駄に時間を費やし、的外れのことをやっているのが、難関試験受験生なのである。
 さて、このような話しをするのは、試験はなんにしても、試験の真の難易を考えて、正味の手段を取ることが、試験に合格する、究極の極意である、ということを言いたいからである。
 合格することが、目的なのであるから、敵の正体を、正味の力を、客観的に、評価して、必要な手段は、何かを考え講じなければならない。だから、わたしは都立中の指導を考えたとき、こうした分析から、思考力を培うことが、最高の、かつ最強の方法と判断した。ところが今年の九段のように、そもそもの選抜試験の体を為していない、愚問を作った、バカな人間たちがいるが、こういう前代未聞の珍事は無視するしかない。

 思考力を重視するという竹の会の指導が、桜修館では、高得点をもたらした。高得点を取るほどの準備を必要ないと言う人間もいそうだが、いやなに桜修館に入ってのことを考えれば、つまり先のことを考えれば、高い力をつけておくに越したことはないわけである。
 九段なんか、今年易しいから、来年も、ということにはならない。しかし、九段の出題者たちが、どういうつもりか、わからないので、わからん。試験の意味がないくらいに易しくして、結局内申のいい順に合格させていくという、方針かもしれないから。そのことは、内申の配点にも表れている。40点、20点、1点という配点は、異常だ。察するに、区内枠からバカが流れ込み、九段では、制度発足当初から、授業に支障を来していたという。そこで、内申のいい子を取れば、少なくとも内申のいい子は、素行も模範的な子が多いのが普通だろうから、内申を歯止めにした節がある。しかし、九段は、そうでなくても大学進学実績は、頭打ちで、内申型の子を優先すれば、いずれ凋落した都立の再現を自ら体現することになろう。
哀れ、九段の判断かな!

◯小学生低学年指導の要諦
  ~小学生低学年の脳との通信技術

 小3の脳と、どのように通信するのか。わたしは、数を通して会話する。 
 筆算の方法について、会話する。
 足し算、引き算、かけ算、割り算の方法について会話する。
 桁を増やす、ことで会話する。
 小数について会話する。
 小数の定義について、話し合う。
 1より小さい数、0より大きな数、そんな小さな数について、話すだろう。
 数には、量を表す数と割合を、表す数がある。そんなことも話す。
 例えば、0.5について語ろうか。
 0.5に単位をつける。 
 例えば、0.5㎝。これは、長さを表している。0.5だから、1㎝よりは、小さい、半分の長さだね。
 0.5gだとどうなるかな。1gの半分の重さか。単位がつくと、その数字が、どういう量を表すか、わかるね。
 単位のない数とは、どんな数なのかな。
 同じ単位の数どうしをかけるとどうなるのかな。
 例えば、㎝×㎝はどうなるか。これは㎝の2乗、平方センチメートルになる、面積ですね。
 割るとどうなるのかな。
 100㎝÷100㎝は、どうなるの!
 ここで定義しておきます。
 ㎝÷㎝=1
 これは、一般的に表現すると、同じものどうしを割ると1になる、ということです。
 もっとわかりやすく言いますと、実は、単位の同じものどうしの割り算は、倍率を調べている、ということなのです。ですから、同じものどうしの割り算は、1倍になる、と言っているだけのことです。

 さて、単位のない数というのは、倍率を表している、ということを申し上げたわけですが、実は、単位のない数、つまり倍率を表す数に、単位をつける場合があるのです。それが、%という単位です。パーセントと読みます。このパーセントという単位は、先程の㎝という単位とちょっと性質が違います。㎝のような単位は、絶対的単位と呼びます。この命名は、例によってわたしのつけたものです。㎝の大きさは、世界のどこへ行っても変わらない。絶対普遍です。ところが、%という単位は、大きさを表す単位では、ありません。元は、倍率からきています。2つの数を比べる場合、割り算をします。割られる数は、比べられる数とも言います。割る数は、この数を基準にする、ということで、元にする数と言います。この2つの数は、単位が同じである、ということを忘れないでください。倍率というのは、大きさを表す数、つまり実体的な量ではありません。2倍というのは、大きさを表すのではなくて、2つの数の関係、つまりここでは、割合を表しています。2つの数の倍率が、小数倍になることがあります。全体と部分を比べるとき、全体を元にして、比べる場合、通常、小数倍になります。0.02倍とかなるわけです。この読み方ですけど、元にする数を1としたとき、比べられる数は、0.02と読みます。つまり、比べようとしている数が、かなり小さい、ということはわかりますよね。
0.02倍というのは、大きさではありません。比べたときの大きさの割合です。1と比べると0.02の大きさという意味です。
倍というのは、みな同じです。自分を1として、他はどのくらいか、と表すのです。
割り算をするというのは、割る数を1としたときの、比べようとする数、つまり割られる数の値を求めることなんです。
こうして、割合とは、大きさを表すのではなくて、2つの数を比べた場合の比率を表しているということがわかります。
0.02 : 1.00
これは、
2 : 100
この時、%という単位つけて、
2%、100%
と読みます。
%という単位は、大きさの単位ではなくて、2つのものを比べて、どのくらい小さいか、大きいか、を示している。
2%というだけでは、大きさは、わからない。また、2%+3%=5% と、必ずしもなるわけではない。2%と3%の、それぞれが、前提とする、100%の実際の大きさが、同じとは、限らないからである。
つまり、例えば、1000gを100%とすると、その2%というのは、20gであるが、500gを100%とすると、その2%というのは、500×0.02=1g となることから、わかるであろう。
2%というとき、全体と比較してだから、0.02 : 1.00
という比較がなされている。
元にする量1.00の実際の数が、750量ならば、その0.02倍は、750×0.02=15量 ということになる。
もともと、
15と750を比べて、
15÷750=0.02
とした。
つまり、15は、750の0.02倍
と定義したのであった。
この式が、750を1としたとき、15はどう表せるか、を表した式として、定義されていたものであった。

ある全体量の2%が、15gのとき、全体量は何gか?
これは、全体量を1としたときに、15gが、0.02と表せた、ということである。
実際量と倍率の関係を考えてみよう。
実際量を縮小して、1としたとき、
部分量15も同じ倍率で、縮小されて、0.02
となった
つまり、
15÷実際量=0.02
この式は、実際量を1としたとき、15が、0.02と表せることを示した式である。

ちょっとだけ竹の会で語られている割合の本質論についての話しを書いてみました。

と言いますのは、そろそろ新小4のみなさんが、逆算を終わって、つまり完全マスターして、割合の導入過程に入るからです。

そこで少しだけ割合に関する竹の会の基本の思想というものを説明してみました。

昨日の指導で、小5が、「思考の源22」の問題が、「わかりません」と言ってきました。
質問を受けて、帰りの電車で、考えてみました。
問題の要旨は、以下の通りです。

100gの水に、食塩を加えたら、何gか、底に沈んだ。このとき、濃度を調べたら20%だった。
次に、水70gを加えたら、全部溶けて、15%になった。
最初、水に溶けていた食塩は何gか?

面積図思考が、有効な問題ということはすぐにわかります。

中学生だったら、方程式で解くには最適の問題ですね。

でも小学生は、算数で解きましょう。算数というのは、道具のない原始時代、工夫するしかなかった時代を彷彿とさせる、素晴らしい思考の技術です。

それでは少しだけヒント。
この問題は、結局最初水170gに、食塩何gか加えたら、15%になったと言うことでよね。
これは0%の食塩水、つまり水170gに、100%の食塩水、つまり食塩を入れたら、15%の食塩水になったという問題ですよね。

水に加えられた食塩の量は、15×170です。そこに使われた食塩は、100%の食塩水のうち、100ー15=85%分です。

15×170÷85=30g

問題はこれで終わりではありません。

今度は、0%の食塩水100gと100%の食塩水を混ぜたら、20%になった、というふうに考えます。

同じ論理です。

「思考の源」は、竹の会では、割合五部作を終わって、「推理の素」、「1%下巻」を終えた後にやるレジュメ集です。

小石川や桜修館受検生には必須レジュメとなっております。

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