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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川、両国、白鷗、都立戸山に成算あり/偽物ほど分かりやすい

2019.05.21

 

 

◯偽物ほど分かりやすい
 わかりやすい、はいいことか。
 昨今の風潮、わかりやすい参考書、解答がわかりやすい問題集、わかりやすい授業などなど、わかりやすさが、価値とされて、難しさの回避、追放が、脳を劣化させる。世の中には、頭の悪い人間が、一流ぶって書く文章が多く、こういう文章がわかりにくいというか、理解不能なのは、あたりまえのことであるが、頭の悪い人間ほど、難しい言葉を咀嚼もしていないで、やたら使いたがる。こちらは結局ちょっと何を言っているのか、わかりません、というオチがある。
 ただわかりやすいだけの説明が、子どもにいいことなのか。この辺のところは検証してみる必要がある。「わかる」ということが、次のステップにつながることは、明らかにしても、難しいものを避けて通るという姿勢がもたらす悪影響の方が気になるからである。というのは、頭というのは、難しさに揉まれて、初めて深みを増す。俗な言い方をすれば、皺が増える。これは、どのような状態なのか。自分の理解している割合の原理をなんとか使おうとする、しかし、使える場面は、ない、どうしたものか、露頭に迷うが如し。そこで事実を正確に読み取ろうと読み返す。事実の意味を考える。時系列、論理列に即して、整理してみる。、何度も読み返す。
この辺のところをもう少し具体的に敷衍してみる。

問題
 100個の豆を、AさんとBさんの2人で分けました。はじめにそれぞれ自分の年齢の数だけ取り、続けて2人とも2人の年齢の平均の数だけ取ったところ、豆がちょうどなくなりました。その結果AさんとBさんの豆の数は2:3になりました。Aさんの年齢はいくつですか。

 この問題を読んですぐ「わからない」「難しい」という子らがいますが、一日でも考えてみろよ、と言いたくなります。
 事実をよくよく読んでください。
 2:3ですから、全体は5として、1は20個にあたる、A40個、B60個とわかりますね。
 次に、「2人の年齢の平均の数」とは、どういう意味なんでしょうかね。平均とは、ここでは、(A+B)÷2のことですね。それぞれが、この数を取ったのだから、結局100個の内訳は、Aの年齢2回分、Bの年齢2回分取ったら、ちょうどなくなった、ということですね。
 2人の個数の差20個は、Bの年齢とAの年齢の差になっている、ここまで読み取れますか。

IMG_1152[1]

 よく考えてみてくださいね。

 あと、Aの年齢とBの年齢の和は50というのも読み取れますか。
 こういう時って、線分図かくと「わかる」んですよ、というか見えてきますよ。

 脳は、視界良好を求めて、はたらくと思うのです。

 IMG_1151[1]
 

Aは30÷2=15

どうですか。
これだけ考えるのにずいぶんと頭を使ったでしょう。これを全く考えないで、説明だけ聞いて、終わらせていいんですか。
折角、頭が良くなるチャンスが与えられたのに、あなたたちはその機会をいとも簡単に捨てるのですか。
 いいですか、脳の皺というのは、事実から、結局単純な意味を見つけて、そう、常識的な意味、あたりまえのことを見つけて、常識的判断をすること、そういう脳の働きかたの体験を重ねることによって、増えていくのです。
 算数というのは、よくできた脳の訓練装置です。一見難しそうに見える、そういう事実から、常識的なこと、あたりまえの論理をはたらかせて、あたりまえの答えにと辿りつく、それだけのことなんです。

 あなたたちは、算数という機会をあまりにも蔑ろにしている。よく「考えたけど、わからない」といくらも時間が経っていないのに持ってくる子がいますけど、30分かそこらです。その子は算数ができる方だと思います。諦めるのが早いこととすぐ聞きたがるのが小学生です。そういう中で延々と考えている、持ち帰って何日も考える、そういう子がいます。ほんとうに伸びて行くのはそういう子です。「わかりやすさ」を求める子は、偽物の力をつけている。

 わたしは、もう何日も考えている、そういう子に声をかけます。そして「もういいから」と、指導室に呼んで、丁寧に説明してあげます。心の中では「お疲れ様、もう十分にあなたは戦いましたよ。今度はわたしの説明に耳を傾けてください。それが頭の栄養になる、染み込むように吸収されるから」と言ってますね。
 こういう子ほどこちらから声をかけるまで質問してこない。投げ出さない、んです。

 再び、世の親たちが礼賛する「わかりやすさ」とは、いいことなのか。
 あらかじめ噛み砕いてわかりやすくしてから、子どもたちにやらせる。
 大手のテキストには、「わかりやすい」ということを売りにしているものもある。謎もなく、疑問もわかない。読めばなんでも親切に説明している。ワードの注釈も豊富、そんなテキストが、いいとは、わたしにはとても思えない。わかりにくくて結構!  難しくて、一度読んだだけではわからない、それで結構! わからないから、脳の登場の意味がある。難しいから脳を働かせられる。私の脳が働くのを、活性化するのを、邪魔しないでほしい。 なんでもすぐ説明するなよ! 説明したがるなよ! 詳しい解説なんかいらない。最後に、もうほとほと疲れ果てて、脳が働かない、そういう時に、これ、という一言、で救ってくれる本、そういう本が、いい。
 だから、わたしは、そういうレジュメ解説を心がけてきた。あなたたちが、実は、ここのところが、わかっていない、そういうところを掘り下げて、説明してきた。
 わたしの解説は、「よく考えましたね、お疲れ様でした!そういう心を込めた」、ものです。
 昨今は、例えば、司法試験でも、いわゆる学者の書いた体系書というものを読まない。いや読む人がほとんどいない。たいては予備校の書いたダイジェスト版、サブノート形式、整理、まとめ本で済ます。それで合格してしまうから、学者の本は要らない。
 つまり、専門試験でも、難しさからの解放が、判型、定型の頭を持った専門家❓ を量産している。
 実は、大学入試でも、予備校本には、そんな本で溢れている。現代国語然り、古文然り、全ての科目に「こうやれば楽にマスターできる」本が溢れている
 数学も、東大数学にしても、解き方を組み合わせて解く、ことで対応できるから、ひたすらこういう問題にはこういう解き方というのを集めて練習して受かったという人まで出てくる。
 勉強というのは、わかりやすさという商品を売る、市場です。自由競争ですから、確かに、いいものが出てくる。便利な方法が売れる。簡単な方法が重宝される。
苦労しないで、楽して、点取る、そういう風潮の生まれやすい土壌です。
 わかることしかわからない、わかりやすいことしかわからない。難しいことには頭が「ない」に等しい。そういう人間が増殖しているように見えるのは私だけでしょうね。
「わかりやすさ」を求めることは、脳を使わない方法を求めることにほかならない。脳を使わない生き方、常に、誰かが、易しく説明してくれる、そういう社会を求めているのは、あなたたちではないのか。親も子もを「わかりやすさ」で動く。だから簡単に合格する方法を教えて貰おうと大手に集まる。つまりは脳を使わないで、いやもしかしたら、自分には、脳がないので、誰かわかりやすく教えてもらったほうがいいと思っている人もいるのかもしれない。

 少なくとも、竹の会では、「わかりやすい」という毒を振り撒くことは、したくない。

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