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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川、桜修館、九段、富士/竹の会からの合格の鍵/過去問論

2018.11.06

竹の会の見学、体験のお問い合わせについて

 竹の会のHPに明言していますように、竹の会では、品定めのための見学、体験は固くお断りしています。また入会試験についても、冷やかしの受検は固くお断りしております。入会の意思のない受検は断りします。 

ある質問について、竹の会の見解

 昨日のお問い合わせ内容 「小1から小3の夏まで理数専門塾に通いたい」とお子さんが言うので「通わせたい」という親御さんから、竹の会の意見を求められました。

 正直、自分の子をどういう塾にいつから通わせるか、親御さんの自由で、わたしの口出しすることではないことをまずお断り申し上げておきます。 

 そもそも小1が、「理数専門塾に、行きたい」などと自発的に言うものだろうか。おそらく親御さんがいろいろ情報を子どもさんにその素晴らしさを強調して吹き込んだ、そういうことなのだろうと思いますけど。

 それはそれとして、そもそもそういう塾に行くことはどうなのか、という話はあります。要は、それで理数に強くなる、と考えてのことでしょう。早期英語の発想と似てますね。そういうところに行くか行かないか、関係ないですね。要は、もともとできる奴が、できる、それだけのことです。小6から、学習指導会に入り、筑駒に受かり、東大に行った子なら知っています。多くの子が小4から週4回も通って、春、夏、冬と講習に出る、そういうのが一般的な風潮の中で小6から初めて受かってしまう。そういうのがいるのです。
 宮本算数教室というのがあるのは、知っています。またそういうところに通っている子も知っています。そもそも、そんなところに行こうが行くまいが、なんの変わりもないですね。これまで小石川に受かった子が、特別のことをやっていたか、というと、特に、何もしてないですね。いや、何やかや色々やってた子なんかが、さっぱりできない、そういう例ならいくらでもありました。要は、幼児期に特に何かやっていたからうまくいく、そんなことはない、ということです。本当に頭のいい子なら、幼児期に特別の何かなんかやらなくても関係ない。頭の普通の子ならいいのか、というツッコミもあるかと思いますが、まず特別になんかやったからよかったいうこともない。
 もちろん頭のいい子なら、そういうところへ行くこともいいのではないか、という意見もありうる。が、件の理数塾は大手でしょ。大手は、頭のいい子でも、蝕まれるリスクがある。思わぬストレスを抱え込むこともある。大手特有の悪い癖がつく可能性も覚悟しなければならない。
 大手の悪い癖とは、大量生産の工場と同じ理屈です。機械的に、同じ品質の型(生徒)を大量に生産するという本質からくるものです。大手が、均一のテキストを使い、マニュアルを作り、学生講師を教育し、均一の授業をして、規格製品を作る、のは、できるだけ大量のお客さんを処理する技術です。ここで規格に合わない人間から崩れていく。集団的処理は、必然的に、落ちこぼれを生む。親が少々できると思っていても、序列ができて、自分は下の方というのがたいていの相場である。大手は、序列化された自分を認識するところから始まる。日々の授業は、序列の下位にある自己の格付けを再確認することの繰り返しである。序列学習(洗脳)に他ならない。次第に、基本は疎かにされ、できもしないのに、自分の遥か上のレベルの問題に取り組むはめになり、悩まされる。 
 早期教育、理数専門などといい、早ければそれだけいいと深く考えもせず、子どもを放り込めば、理数が得意という子たち(凄いヤツ)に囲まれてたちまち序列化され、子どもが学ぶという本来の目的を見失い、気がつけば、できない自分、他との比較の中で、次第に、取り残されていく自分がいることになる。折角理数を早期に伸ばすという目的で大枚払って期待に胸膨らませてやってきたのに、子どもをスポイルするのにやってきたことにようやく気づき始めるのは、一年後か。純粋培養された子は弱い。親にいいところばかり吹き込まれて、マイナスのことは何もないところと思い込んでいるから始末が悪い。親は、マイナスなんか全く斟酌しない、そういうことではないか。いや親がいいところばかりに目が行って、悪いところは素通りしてしまうということではないか。
 わたしが、大手を批判するのは、大手というのは、それは資本をかけるから、設備や人材、機器を豊富に揃えて、確かに、魅力はある。しかし、大手は、できるだけ大量の生徒を集めて、集団を前提に、処理することが、求められた商業資本だということを忘れてはならない。人を如何にして集めて、どれだけたくさんのカネを引き出させるか、こればかり考えている。集団を処理するには、マニュアルの規格化をするしかない。A教室とB教室の内容が、同一であることが、当然の前提となる。したがってテキストというのは、規格化された単一の内容でなければならない。授業も規格化しなければ、教室ごとに違うことになる。そのために講師をマニュアルで規格化する。そして理数専門と謳うなら、ある程度レベルも上げなければなるまい。こうして、そのレベルを超える子は適合し、レベルに届かない子は落ちこぼれる。ただ、商売上手な企業のことだから、落ちこぼれだからといって金蔓を手放すことはない。低学年の間は、競争による序列化をあまり表面化させないようにする。補習塾や公立中高一貫校塾だと、花丸でバカを喜ばせてとにかくどんなバカでも集める。商売第一、商業資本主義たる由縁であり、利益が目的だから、雇った学生講師に払う費用、ビル賃借費用などを賄って余りある利益をあげることが至上命令だからである。 
 わたしの大手不信は、大手が、算数専門、理科実験専門、早期英語、数学専門などと、◯◯専門を謳えば謳うほど、カネ集めの偽看板に見えてくるほどに根強い。だからわたしに大手に行く相談などするのがそもそも間違っている。大手にいたという子が、一年二年後に竹の会に来たとき、その大手に規格化された子の扱いにくさといったらない。宮本算数教室というのは、そこに通っているという子から初めてそういう塾があるということを聞いて、書店で見た宮本式とかいうパズルの本の人が塾もやってるということを初めて知った程度しか知らない。ただそういうところに二年三年と通っているのに、だから頭がよくなっているということはまずない。むしろ竹の会でわたしのレジュメだけ進めていた小4が、かなりできる小6をしのぐほどに伸びていることの方がわたしには、さもありなんと、得心し、他の様々な特徴を謳う塾には興味はない。わたしには、今の竹の会の、三十年以上かけて作り上げた、到達点、究極の方法の信頼の方があまりにも強くて、申し訳ないが、他はカスにしか見えない。それほどわたしは今の竹の会の方法に自信を持っている。

 じゃ、低学年の間、何をやったらいいのか。
 指導を始めてまず問われるのは、字ですね。それから計算の基本、そういうものが、できてるとそれでは読み書きはどうかということになる。漢字をどれだけ覚えているか、知っているか、読み取りの力はどうか、大切なのはそういうことで、理数専門塾かなんか知らないけど、そういう基本の基本に専念することを放棄して行くというのがわたしの理解を超えている。早期英語だってそうだ。その分、日本語の基本は、疎かにされる。極端になると、もう日本語の基本はほとんど知らない。昨今のバイリンガルとかの、日本語は話せるだけで、中身のないバカが、最初は重宝されていたが、次第に企業もそのバカさ加減が使えないことを悟り始めた。
 いざ指導開始というときに、問われるのは、日本語の基本的素養である。素養という中には、勉強のスタンスというものも当然含まれる。そうなのである。あなたたちが、子どもを育てる上で、もっとも大切なこと、子どもを勉強という、ともすれば厄介なもの、面倒なものとして子どもたちに植えつけられることを回避して、それを生活の中に習慣として定着させること、なのである。これこそが、後々子どものかけがえのない、とても後付けで手に入れられるものではない、宝を与えることになる。勉強することが あたりまえのこと、それが生活というものだ、という躾をするのが、あなたたち親、特に母親のもっともやらなければならないことなのである。
 教育熱心な余り、焦る気持ちはわかるけど、だからといって、本来やるべきこと、それはとても地道で地味な仕事ですが、子どもに生活習慣としての勉強を植え付けること、これが困難でもっと大切なことです。
 習慣化というのは、生易しいものではない。親が家族旅行すれば、それだけで、習慣は壊れる。習慣の生命は、継続性だからです。一週間のうち5日を習い事、稽古事にかけている家庭には、そもそもの習慣はつかない。勉強も大切と塾にも通わせるが、家庭学習はないに等しく、勉強習慣のない子らに、真の学力などつくはずもなく、中身のない伽藍堂のような、張りぼての子が自尊心ばかり肥大成長させて、まるで化け物のように害悪を振りまく、ようになることだけは予測に難くない。

 ◯竹の会のレジュメは合格という宝箱の鍵
 「過去問は本屋で買って各自やる」、これが大手のやり方です。かつてサピックス中学部に三年弱通った生徒が、中3の10月に渡されたのが、声の教育社の過去問集の大量のコピーだった。過去問対策は、自分でやれ、ということなのか。こういっちゃなんだが、あの市販の過去問集の解答、解説ほど読みにくいものはない。解説が理解できない、そういう生徒が多いのではないか。わたしが子どもたちにわかりやすい解説をと作り始めたオリジナル解答解説の歴史は古い。わたしの解答は、簡明を旨として、できるだけみんなが知っている解法、教科書にある解き方にこだわった。また、難しい理屈、理論よりも、簡単な「図」一発で、解けるということに、妙味というか、美を感じた。わたしの解説に多くの秀才たちが感動した。わかりやすいと一様に反応した。公立中学の学年トップにある生徒ほどわたしの解説に狂気した。竹の会の解説は、今も様々な過去問を軸としたレジュメに生きている。某大手がやっぱり過去問集を各自やらせるという話しを聞いた。となると、解説付きの過去問集は、声の教育社のが使われるのだろう。子どもたちは、適当に解いてすぐ解説を読む。そして「あっそうか」と分かれば終わり、わからないときも多かろう。とにかくもこの過去問をたいていは自分の志望校の過去問だけ何度もやるのだろう。終いには問題見ただけで答えがわかるほどになるのだろう。そんでええの! たいていの受験生がやる過ちである。大手は、これに目を瞑る。当たり前です。大手に過去問の指導技術はないのですから。
 志望校の過去問の使い方は何度もやるものではない。そんなことしてたら、予断を持つのが落ちである。勝手に傾向を読み取り、いや極端な例は、もう同じような問題が出ると決めてかかっている、それで、本番で出た問題を見て、「今年は、新傾向だった」と親子で言うから、笑える。過去問を何十回もやって、頭の融通が全く効かなくなっている。違うでしょ。過去問というのは、そういう利用の仕方をするものではない。せいぜい自分でやるときは、本番さながらに練習すること、である。それ以上でもそれ以下でもない、だから、過去問の扱いは、非常に難しい。かなりに専門的な取り扱いを要する。また市販の解説は、必ずしもわかりやすくはない。私立中学の過去問の解説になるとさらに難解な解説が多い。私はもともと高校入試が専門だったから、かつては、難関と言われた高校の過去問について夥しい数の解説を書いてきた。そしてよく市販の解答と比べて見せた。生徒たちが、私の解答のわかりやすさにどれだけ感嘆したことか。わたしには、よき楽しい思い出となっている。当時、わたしが、色鉛筆、円定規、放物線定規などを用いて、図解したわら半紙解答は、子どもたちにコピーして配ったが、原本は、取り合いになったものだ。子どもたちは、わたしの解答を一瞬で理解したものだ。そのようなわたしの考えからは、市販の過去問集をそのままやらせて、解答も解説もそのまま読ませるなんて、わたしにはありえないことです。竹の会の皆さんが、わたしの編んだ過去問レジュメの解説を読んで、どう思っているかは知りませんが、わたしが昔やった授業は、「わかりやすい」と、大変な評判になりました。また、わたしの解説は、これまで多くの秀才たちに、絶対的な信頼をもって受け入れられてきました。だからわたしは竹の会の皆さんにわたしの解説を自信をもって提供しているのです。
 あなたたちは、わたしのレジュメの価値をまだわかっていないかもしれません。わたしのレジュメを信頼して、わたしの言う通りにそれこそ何十回も読み返して欲しいのです。そうすれば、あなたたちは、わかる、わかるはずです。わたしのレジュメが何ものにも代え難い、かけがえのない宝物だということを。それを悟ったとき、あなたたちは、合格の鍵を手にしているはずです。竹の会からのあなたたちへ最後にこの鍵をお渡しします。あなたたちが、この鍵をどう使うかは、あなたたち次第です。わたしはあなたたちに鍵の取り扱いについて、指示いたしております。あなたたちが、この鍵を合格の鍵とできるかはあなたたち次第です。

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