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小石川、桜修館、絶対合格の意味?

2016.01.29

 おはようございます。厳しい寒気が体には過酷なのでしょうか。この冬だけで、知人の突然の死の報、病気の知らせに大きな衝撃を受けております。今日も厳しい低温でこれから受検の日に向けて子どもたちのことが気遣われます。今日は、渋谷Bの1月最後の指導日です。渋谷Bはまだ人も少なく本当にひっそりとしたものですが、これからいろいろとさまざまな指導の形態をとれる場として期待をしています。

 竹の会では、最後の指導日まで新規レジュメを制作して指導に臨んでおります。レジュメのレベルは基本に回帰した、普通の水準にしていますが、これで合格ないし準合格をとれない子たちのことを考えてしまいます。そういう子たちはやはり早稲田進学会の模試の結果も芳しくはありません。勉強するというスタンスにおいて勉強に徹しきれなかったという子たちであったと認識しております。レジュメでは本当に基本的な「単位あたり」や「割合」を試しているのですが解けていない、それはわたしの予想していたことですけれど、それがこの子たちの赤裸々な力なのであろうと思っています。

 早稲田進学会の模試を受けた竹の会の子たちは、いつのまにか「早稲進生」にされてしまい、「君たちはこの模試で力をつけた」みたいなことを言われて、「絶対合格」と大きく墨書された札までもらってきたようです。これで合格でもすれば、たちまち「早稲進生」合格ということにされてしまうのでしょう。

 ところで、「絶対合格」を期しても、絶対合格にはならないわけです。それぞれが「絶対合格してやる」と気負っても現実は絶対合格とはいかない。「合格する」という強い信念をもつことは否定しない。わたしも大学受験のときはそういう自分の強い意思が自分を支えていたと思うからです。ただその「絶対合格してやる」という意思が、努力することにつながらなければならないということです。目的を達成する過程において「絶対合格する」という強い意思がプラスにはたらく、それならばかまわない。しかし、努力もしないでただ「絶対合格してやる」と叫んでみてもむなしいばかりである。

 子どもというのは、特に小学生はまだまだ精神的に動揺しがちです。なにか神様が助けてくれるくらいのことは思うかも知れない。大人だって溺れれば藁をも掴むでしょ。いつの頃からか、竹の会には竹の会の神様がいて助けてくれると言われるようになった。一部の子どもたちは指導が終わってわたしが机を片づけて掃除の準備を始めると賽銭箱にたいていは五円玉を入れて、神棚に向かってポンポンとやっている。わたしはそっとそのような光景を見ながら合格すればいいなと思わずにはいられない。竹の会には昭和60年10月のスタートの時から神棚があった。最初の合格者が62年、青山学院高等部、市川高校、都立駒場など続々、それで神棚にポンポンとやってきた。毎年のように合格者が出る、その度にポンポンとやる。一番記憶にあるのは、早稲田実業高校に合格した鈴木君だった。彼の席は当時の神棚の真下、それでみんなが競ってその席をとりたがった。当時の賽銭箱はただの空箱だったか、缶だったか、とにかく一円玉の捨て場みたいに子どもたちが余った一円を放り込んで収拾がとれなくなった。それでいつの頃からか一円玉は入れないでくれ、と頼んだ。そのうちハンズで大きな賽銭箱を見つけて設置した。平成21年頃、確か両国に合格した子が五円玉をジャラジャラ入れていたことがある。百円玉とか、五百円玉まで入れる子がいたりして、子どもたちの合格への思いは強かった。渋谷教室になってから檜製の高級な賽銭箱に変わった。取り出し口のない立派なものだ。中には、平成10年あたりからの賽銭が鎮座している。先輩たちの泣き笑いの思いがこめられた賽銭箱、わたしはただいつまでもそのままにあることを確かめて祈り続けるだけである。

 竹の会の受検の子どもたちが賽銭箱に入れやすいように今年はわたしの手書きのお呪(まじな)いの紙を置いて「賽銭入れたら持って行っていいよ」と言ったら早速持って行った女子がいた。なかなか恥ずかしくて、照れくさくてやれないだろうから救いの手を差し伸べておいた、そういうわけです。紙は神に通じる。最後の日曜日にはもっといろいろ書いて置いておきます。何枚でも持って行ってください。ただし、紙は高価な和紙です。とてつもなく高い和紙に下手くそな字で、精魂込めて書きました。

 竹の会の子たちが合格することはなによりの喜びです。ですから、いつも厳しい姿勢を求めてしまうのです。神様があなたたちをひょいと手を差し伸べて合格の立ち位置に置いてくれるもしれない。受検は心のもちようで一変する。ただ「絶対合格」は意思の支えであり、これで何かがどうなるということはない。むしろ恐いのは、「絶対」という形容語である。お呪いは抽象的なスローガン、願い事は具体的な内容、そぐわない。抽象語は思考を停止させる。小学生が読解に弱いのも抽象語、抽象概念、抽象的な仮説の論理的な積み重ねのせいである。そういえば、大人は内容もない多数の行動に思考を停止させてしたがう。

 人間は内容でなく、言葉で動かされる・お祝いの言葉も言葉、お呪いも言葉、呪いも言葉、おまじないはお呪いと書き、呪いと同じだが、中身がちがう、願う中身がちがう。宗教も言葉、いや奇跡と言葉。マインドコントロールも言葉の力。人間は言葉に酔う。弔辞で泣き、賛辞に感動する。人間から言葉をとったら何が残る。

 さて、ソクラテスの弁明ならぬウソクラテスの弁明です。以前テキストにレオナルド・ザ・ピンチ著と書いたら保護者に叱られた。四角四面が窮屈だというのは漱石の「草枕」に、「とかく人の世は住みにくい」とあったやにも思う。以前竹の会に見学に来た母子がいた。母親は何しに竹の会にきたのか、わからない。曰く、「栄光で少しも困っていない」というのである。小4だったと思う。「土曜テストも成績がいい」と穏やかに言う、しかしてこどもはおっとりとおとなしく母親のことばを聞いている。これが大手にこどもを通わせる、母親の姿なのかなと思った。小6になってさてどうなのかなと思ったのはわたしだけ。大手に通う子たちというのは、これまで竹の会にきた子で例外を知らない。計算力は全くない、割合はほぼ理解していない、長時間の思考というものを知らない、そういう子たちばかりだった。公立中高一貫校をめざす子たちはかなりひどいが、私立ねらいの子たちだって、ない頭に無理に詰め込んでいる分、始末が悪い。だいたい自分の頭でこなせないものを無思慮に詰め込む、ろくなことはないと思うけど世の親は平気である。自分の子は「唯一の例外」と、これだけは頑迷に譲らない。そうです。自分の子は特別なんです。みんな自分の子は特別だと思っている。大手は特別な子たちの集まったところです。大手も商売がうまい。その特別性をつついて、親たちを満足させる巧みな商売を心得ている。騙くらかされて気がついたら都立底辺高校、私立低偏差値高校に行っていた、そういう親がどれだけいることやら。中退率の高い高校で、中卒で社会に出る、これがだいたいの相場でしょ。大手、大手といったけど、実は、中小塾だって、似たり寄ったり。個人塾だって信用ならない。だから大手に行くというのも一理はある。

 

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