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小石川、桜修館の受かり方/都立高入試成功の条件/失速の研究

2018.10.24

 おはようございます。夜明け時には広がっていた青空も今は雲に覆われ今日は一日この天気とか。気象予報士が驚く台風26号の発生は、まだまだ列島に至る太平洋の海水温の高いことを思わせます。さすがに日本海を通るコースはないと思うのですが。気がつけばもう10月は一週間を残すばかりになりました。このところの気温低下で子どもたちには変調を来す者も出てきつつあります。発熱が多くなる季節になりました。わたしなども油断して喉の痛みで慌てたばかりです。わたしの場合は、ルゴールの原液を直接喉に降り注ぎます。荒療治ですが、何度も進行を食い止めています。ただ一度しくじったのは今年のいつだったか、中耳炎まで起こしました。左喉が腫れて患部に集中してルゴールを処置したら右喉から右中耳へと炎症が進行してしまいました。これに懲りて今回は左右の喉に塗布しました。朝痛みがなくなっていたのでほっといたしました。先日のことです。

 さていよいよ11月です。竹の会の小6、中3にはほんとうに大切な時期となりました。この時期は勉強不足の小6、中3が失速する時期です。なんとか先送りして誤魔化してきてもそれがいつまでも続けられるわけもなく、ごく普通の模試で形容しがたい成績をとり、周囲にも言い訳のできない事態になる、たいていはこの流れで失速どころか敵前逃亡もあります。特に、小学生だと逃げます。戦意喪失です。

 ◎失速の研究
 小6の今頃、中3の今頃から、次第に元気がなくなっていく子らが出てくる。彼ら彼女らを叩き潰すのは、たいてい模試である。が、模試までいかないで、馬脚を顕す子らもいた。しかし、やはり模試が中身のない、見かけの実力をペシャンコにするケースが多い。ここで、模試から逃げる者、小学なら受検から逃亡する者も出てくる。中学生だと「それは自分の実力ではない」「悪いのは塾だ」と全く都合のいい理由を 言い立てて、自己の安定を図る親子もいるが、既に土台はなきに等しく、新天地を求めて、あがいて終わる、のが相場です。失速した飛行機は墜落するしかなく、再び飛び立つことはない。失速からの脱却はほとんど不可能なのがこれまでの経験則です。これは、例えば塾を替えてそれでこれまでの勉強量、勉強時間の絶対的不足を補う意図なのかと思うが、なぜそういう泥縄を綯うところに行き着いたのか、わたしにない選択ゆえにコメントする気にもならない。

 小学5年から始めるというのは、もしそれが普通の子なら、間に合わない、という話しは、あとで触れるとして、中1、中2、中3前半、たいていは夏まで、部活中心にやってきて、しかし、勉強はできるという子が、例えば、日比谷を目指して成功するのか、という話しである。中学2年までの勉強は、頭のいい子なら、部活、中にはサッカーなどのクラブチームにいたりしても、学年の2番、3番ということもありうる、が、ここに大きな勘違いがある。中3になってもそういう状態が維持できると考えている、ところに大きな誤解がある。結局、夏休みも部活というか、引退試合などと言って満足に勉強しないままに、ほぼ部活一色で過ごすのが相場で、時間が自由になるのは9月以降でしょ。それが部活命の生徒の実際ではないか。
 さて、その勘違いについて、簡単に説明しておきたい。中3でやる学習内容は、かつては、高校でやっていたものが、そのまま下ろされてきたもの、つまり中2までの中学生の優等生なら勉強さえすればわかる内容とはレベルが違う。加えて日比谷、慶応などの英語、数学のレベルの高さは、はるかに高いところにある。英文解釈なら、センター試験並み、これはどういう意味かといえば、中2の夏までには、中3で習う履修事項を終わらせて、夏は英文解釈に没頭する必要があり、つまりこの時期に部活などに時間を使い尽くしていては、いくら学校で2番だ、3番だといって、何を楽観しているのか知らないが、まるでわかっていない。数学は、遅くとも中2の夏には、高校入試の範囲は終わらせていなければならない。理科と社会は中3になるまでに終わらせておく。これが、私が、一貫して、強く求めてきたことであり、部活が勉強を犠牲にしてもなによりも大切だと言うような親子が、模試でも高得点をとれると楽観する理由がわからんし、まあ、失速したのは、当たり前だけれど、ここで、塾に鉾先を向けるのはいつものこういう親の定型化性向で、わたしにはもう3年前から想定されていた行動であった。
 日比谷、慶應に入りたいのなら、わたしの指示どおりにやるしかない。小石川に入りたいならわたしの指示どおりにやるしかない。部活優先の親子は少なくともわたしの合格の手順にはない。母親が勝手にやりたいようにやる、竹の会を利用する、そんなのはわたしの手順ではないし、わたしの中に合格のビジョンのかけらもない。
 いいですか。わたしには、桜修館なら桜修館で、合格イメージというものがある。だから、そのつもりでやっている。ところが、子どもが、課題をやらない、出さない、読めない悪字を書く、作文が幼い、算数がわからない、そうなると、そこから指導していくしかないでしょ。親がやるべき躾、教育をしていない。それで早期英語だ、習い事だ、稽古事だ、サッカーだ、野球だとそんなことばかりやらせてる。親も一緒になってやっている。そんなことより、まともな字を書けるようにするのが先でしょ。早期英語だ、バカなことを言っているんじゃない。そんなことでまともに日本語ができるようになるわけがない。英語をやってれば日本語は軽視するようになる。テレビに出てくるバイリンガルの脳みそ空っぽ、日本語は話せるだけで、中身のないヤツばかりじゃないか。ただ話せるだけで重宝されるのは一時の話だ。企業というものはそんな話せるからよくなるとかいうものではないでしょ。勘違いする親が多くて閉口する。「うちの子は小1から英語教室に通わせています」と鼻高々に言う母親の気が知れない。そんなことより肝心のことを放置してるから、勉強の習慣という大切な生活の基本がない。親が、やるのは、習い事や稽古事じゃない。生活の基本をまず叩き込みなさい。親が「この子は疲れやすいから」、「まだ体力がなくて」などと言うのは、事実そうなのかもしれない、が、その口吻から透けて見えるのは、底抜けに甘い、甘やかしの構造である。少なくともわたしはそんなことを言う親には躾などないと判断している。こういうのは、わたしは、甘い親は、ただの過保護な親は、結局子どもをろくなものにはしないという確信があるからだ。子どもには、親は、試練的であるべきである。ともすれば子どもは楽に流れる。これを放置するのから、子どもが将来、小学高学年、中学になって、バカ息子、バカ娘になって、慌てることになるのである。返り血を浴びることになるのである。子どもには、制限が試練となる。試練に耐える、欠乏を我慢する、これが、躾であり、教育である。ところが、昨今の親は、子どもの機嫌をとり、過保護と甘やかしを常態として疑わない。いやそれで心は安寧でいるという能天気さである。こういう親が、自己のさしたる見識もないのに、子どものためとか思ったのかどうか、それとも子どもが、友だちがみんな行っているから、僕も私もと親に言い出したかは知らないが、親は、それならと、子どもの言う、みんなが通っているというたいていは大手塾に、大手だと安心だしと思ったかどうかは知らないが、とにかく放り込む。まあ、こういうレベルの親が、竹の会など頭からバカにする人たちなのだろうと推測はつくけれど、まあ、それはいい。私が、こういう親や子をろくなものにはならないと切って捨てるのはいつものことで、どうかご容赦願いたい。私が嘆いているのは、子どもは、制限こそが教育なのに、子どもが欲しがれば、どんな高価なものでも買ってやる、中には、中でも一番高い物を買い与え、それを子どもが自慢する、こういうアホ親子が、東京のあちこちにいるわけである。こういう躾のない、おだてて、なんぼの子、結局、自尊心だけを栄養として与えて肥大化させた化け物ですが、これで、能力がなければ、どうなるか、わかりきったことでしょ。

 子どもを金で飼育したのが、芸能人のバカ息子、バカ娘です。子どもの心には、制限という杭を打つこと、楽な、怠けたがる、心を野放しにしないことです。芸能人の子弟の不始末が教えてくれているではないか、これを反面教師にしなで、他山の石としないでなんとする。
 我慢が子どもを成長させる。躾とは、身体の身に美しい書く。だから、子どもの振る舞いについて言うのだろうが、振る舞いは、心と表裏であるから、躾とは、心に働きかける、我慢がバロメーターになる、制限の体系である。
 だから、食べられるだけでいい、質素な生活で我慢してきた子の方が絶対にいい子に育つ。ただし、それには一つ前提があり、親が必死で子どものために頑張っている姿、姿勢が子どもには響く、教育となる。いい加減な親だと子は2通りに育つ。たいていは、捻れてグレる。しかし、反面教師にしてまともな子に育つこともある。
 子に無関心な親は、子に対する愛情が薄い、ないということでしょ。過保護と対局にある。親の無関心は、子を無感情な、社会協調性のない、不満分子にするかもしれないが、過保護、つまり加重な愛情がもたらす、甘やかしの坩堝漬けが、もたらすものは、芸能人のバカ息子、バカ娘を見ればわかろうというもの。我慢の効かない、すぐ爆発する、裕福さを何かと自慢する、自尊心の塊イコール人格、他人の悪口には弱く、攻撃的になる、人の関心を物で釣ろうとする、習い事、稽古事はオンパレードで、人より自分が優れていることをいつも吹聴している、そうしなければ自分のアイデンティティが保てないのである。一瞬で泡のように消えるのが恐くて不安に耐えられないのだ。そうです。バカはバカなりに自分の中身が空っぽだということをよく知っている。こういうおぼっちゃま、お嬢ちゃまが、勉強という我慢を本質とするものに耐えられるわけはなく、親が何から何まで面倒見てあげて、結局逃げ出す、現実から逃げ出すのが、落ちである。親は家庭教師つけたり、塾も気に入らないと何度も変える。たいていはわがままなお子ちゃまには合わないから、なんやかやと屁理屈つけてやめる。もうお分かりのこととおもいますが、この親は病気です。つまりは、過保護に抵抗のない親は病気です。子を使い物にならない、協調性の欠片もない、社会的障害者にしてしまい、野に放つ。おかしな論理で子を変形、捻らせる。
 さて、中学生は、部活で、道を見失う。勉強しないという選択を取っているという自覚もなく、もともと賢い子なら、それは自責の念となって自分を苦しめることとなる。迷い道、行き止まり迷路、それは自らの心が作った道、勉強しないという選択には、勉強しなければならない日常を回避し先送りしてきた後悔が、つきまとう。
 勉強しなくて、ずるずる来て、失速した子が、突然敵前逃亡した。夏休みの間、「小学思考の素 その他の問題編」を、とうとう終わらせられずに、仕方なく、「撰」シリーズを課したが、結局、第2巻に入ったばかりのところで、模試の結果が、きっかけになった、0点という科目もあったやに聞くが、突然消えたのでわからない。「その他編」というのは、小4早期に来た子なら、小5の夏前後には、終わる。ところが、小5前後(小4の2月以降)に来た子だと、小6まで持ち越すことが多い。家庭学習時間があまりにも少ない、というのが、共通している。習い事、稽古事という子で家庭学習時間がとれないという子もいたが、今回のように、なぜかのんびりとやってきて、ただ勉強しないというケースもある。ほどほどにしかやらないのだ。能力があるのにやらない、そういう子もいる。去年もいた。なぜか課題をほとんど出さなかった。問い質したこともあったが、ただやらないだけというのが真実のようである。その子は、模試はよかった。「その他編」などは小5の年内には終わらせたほど頭の良かったこともある。
 遅いというのは、悪い兆候である。マラソンで、遅れてしまった選手が、後から、ごぼう抜きということは、ないように、勉強というレースは、走り始めたら、もう夢中で走り続けなければならない。なのに習い事、稽古事、野球、サッカーと勉強に専念しない親子が多すぎる。当然遅れる。マラソンと同じ。遅れたらもう先頭集団から離されるばかり。わたしにはのんびり走るというのがわからない。
 失速というのは、速さが足りないということです。飛行機なら速さが足りなければ墜落するしかない。勉強というのは、飛行と同じ、飛び始めたらもう夢中で飛ぶ、飛び続けるしかない。
失速が怖いからもう夢中で勉強するしかない。失速を恐れないから、のんびりやる、稽古事もやる、習い事もやる、家族旅行もする。敵前逃亡は、小学ならまだ高校入試があると思うかもしれないけど、失速した子は、また必ず失速する。失速に学ばないからだ。私がこのブログで言ってきたことを真摯に受け止めていたならば、そういう子は成功している、中学生が部活で失速するのは、もはやありふれた例であり、小学生が様々な理由で勉強しなくて失速するのも、ありふれた例である。当の小学生には勉強してないという自覚はあるに違いない。失速中の小6はよく「5年生に戻りたい」とか、「小4の時に竹の会に来たかった」とか、言いますけど、小4の時は、大手を選択したわけですし、小5まで、習い事、稽古事などに夢中だったわけですから、小4、小5の時に、習い事、稽古事を夢中でやっていたことは、どうなのか、好きなことを思い切りやってきたことの思いはどうなのか、についての反省は見えない。ただ時間が足りないと嘆いているだけです。問題は、失速するということを考えてこなかったことではないか。

 このままでは、早晩失速するとは、考えなかったのであろうか。わたしが受験、受検という避けられない人生の第1関門を通過するということにあまりにも見識の浅い親御さんが多いことに憤りを感じてきたこと、だから「草枕」でもう遠慮なく思うことを書いてきたこと、それはわたしの竹の会がわたしの体力との相談でもうそれほど長くは続けられないであろうこと、だから思いの丈を本音を書いても一向に憚らないという思いから、このブログでこの33年間の思いを矛盾や問題への憤りを隠さず書いています。どうかご容赦ください。

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