画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等、両国中等、白鷗附属中学/都立戸山、都立青山/小学生脳との闘い〜未分化な脳に訣別を!

2019.04.29

 4月29日、やや冷たい空気です。この季節は汗ばむほどの日もあれば、寒さに震え上がる日もある。これに騙されて体調を崩す子が出る。この季節の暖だけは信じてはならない、のが教訓です。なぜかインフルエンザが流行っているという。あれは寒の申し子かと思っていたけれど、ウィルスも春という環境にいい加減に適応してきたということであろうか。

◯小学生脳との闘い〜未分化な脳に訣別を!
 小学生の脳は未分化に特徴的である。対象の違いをまず認識する。頭の中にそれが違いと認識できない、つまり同じ風景に見える、そこからのスタートである。違いが違いとして認識されない、未分化な状態である。パソコンで言えば、初期化されたところからとは言わないが、区別できるものが少ない。小学生低学年が通分を覚えたての頃、かけ算、割り算に入り、約分を教えると、通分すべきところで、約分し、分数のかけ算で、通分するということを必ずやる。これなどは、脳の未分化なままの認識がもたらす悪戯であるのかと思う。小学生の指導において、大切なことは、何かを教えるというとき、理解しないのは、脳が未分化なために、それとして認識できていない可能性が強いということである。わからないからといって、口角泡を飛ばして、説明を繰り返すの愚は避けねばならない。これが、相手が中学生のときとは根本的に違うところである。中学生でもし未分化ゆえの認識欠如なら、それは小学生のときの対応を誤ったということで、もはや手遅れである。
 この意味でも、小学生低学年からの脳開発が重要なことなのである。
 未分化な脳に、対象の違いを認識させていく、事実を観察させる。この時、ただ事実を読む、見るだけでは、脳は働かない。人間というのは、何かと何かを比べるとき、もっとも脳を働かせやすい。このことは、真贋の判別を考えれば容易に理解できるであろう。美術品をただ眺めて、それが本物かどうかを鑑定するのは余程難しい。本物と比べるのが一番だが、とにかく「比べ」て初めてわかる。相対的判定が、基本であり、絶対的判定は、危険である。
 事実を観察させる、というとき、比べる、ことが、事実を読み取る、指導の有効な方法であることは、間違いない。
 未分化な脳が、微細な違いを正確に、認識するということが、指導のポイントになる。帯分数の繰り下がりもその前提として、繰り下がりの前と後の2つの分数の比較が、基本となる。常に指導に際しては、事実の認識に配慮した設定を用意して、新しい知識を導入していくことが求められる。その具体的なテクニックが、比較による認識の確認である。子どもには常に比べる、比べさせることで、その違いを認識させ、その違いの生ずる原因を認識させる。その原因こそがなぜの答えであり、「わかる」の正体である。

◯人は「出る幕がある」から、頑張れる
 突如としてやる気をなくす子どもの心理
 周囲の期待が、子どもの行動の原点であり、子どもは、周囲に認められているという期待感を肌で感じ吸収し、精神の充足を感じる。問題は周囲の期待に見合う実力、能力があるかである。
能力があるのなら、周囲の期待は原動力になる。しかし、悲劇は、能力が実は伴わなかったというときに、しかも志望が高過ぎた、というときに、顕在化する。
 「よくできる」と思われているという、人の期待が、できないという現実に直面したとき、悲劇は始まる。周囲の失望を極端に恐れて、様々な回避、逃避行動に出る。急に受検をやめる、と言い出す子、突然、塾に行くのが嫌だと言い出す子、誰々が嫌だからとか、意地悪をするとか、子どもの取り繕う嘘を親はまともに受け取り右往左往する。子どもの本心は言動とは別のところにある。多くの親が子どもの嘘に騙される。「うちの子は嘘などつかない」、これがまた多くの親の能天気な心理である。子どものやる気が、萎えていったというとき、その本当の理由は、子どもの言動にはない。子どもは本当の理由を隠して嘘を言うものである。
 「~塾は嫌い」と娘が言えば、親は、「うちの子は大手にいたので~ばかりの塾は苦手で」と、娘の言葉そのままにフォローする。しかし、娘の本心はそんなところにはない。周囲の期待が裏切られる、そのことを恐れてただけなのである。できない自分がさらけ出される、これを恐れただけなのである。子どもが何か回避的な言葉を言うときは、周囲の期待を躱す、摺り替えることを考えている、画策している、に過ぎない。子は全身で訴える、泣きわめく、暴れる、部屋に籠る、子は持てる武器のすべてを駆使するであろう。親は子の真の動機は知る由もなくただ困惑するばかりである。

 子どもが、回避行動に走るときとは、これまでよく問題が解けていたのが、問題の難易度が、上がるにつれて、解けなくなるといった事態、あるいは、できると思われていた仮面が剥がれてしまったとき、あるいはいちばんできると自分も周りからも思われていたのが、気がつけば自分がいちばんできてないということに気がついたとき、などである。
 子どもは能力が「ない」と思われることに、敏感であり、周囲の失望を極端に畏れている。だからいろいろ偽装する。しかし、そういう擬装は、いずれ化けの皮が剥がれるときがくる。そうなったとき、もはや、子どもは、逃げる、隠れるしか、自己を保つ術がないのである。

◯方法神話に取り憑かれた母親と子

 方法を言う人間は実行しない人間である。方法とは実行の中から生まれるものである。他人が実行の中から生み出した方法を真似して使うことが流行っているが、果たしてうまくいくものか。その方法は、その他人の実行を産みの親とするからである。あなたは実行していないのだから、その方法の仮親にもなれない。
 あなたに本当に欠けているのは、方法ではなく、実行する力である。方法とは、実行する中から必然生まれてくるものである。実行は方法の母である。わたしはこの方法で東大受からせましたなどとどこかの母親がマスコミで騒がれる。すると必ず真似する人間が出てくる。勘違いしてはいけない。その人たちは方法で受かったわけではない。類稀なる遺伝子に恵まれ、類稀なる実行を習慣としてきたから、受かったのである。
 世の中のバカがすぐ飛びついて真似をする。本末転倒も甚だしい。そう言えば、将棋の藤井七段が、幼少期に使った知育玩具がバカ売れなのだそうである。遺伝子に恵まれ、超人の実行力を持っていたからでしょ。世の中の人間というのは、遺伝子的なものも特に優れたというでもなく、実行する習慣などとは無縁のくせに、やたら方法がよければ万事うまくいく、方法さえわかれば成功する、と信じて疑わない。
 だからか世の中にはノウハウ本が溢れている。参考書は、手っ取り早くものにする本ばかりで、端折りが流行る。要領が大切で、時間のかかる本は敬遠される。
 方法神話が、独り歩きし、方法さえよければ、遺伝子の壁もなんのその、実行する力も関係ない。
 親たちは、子どもを大手塾にやり、大手マッチポンプの方法を高いカネを払って買う。これだけ覚えれば受かるという膨大なテキストを買わされて、カリキュラムで縛られて、偏差値で鼓舞されて、買う「方法」は、なんと漠然とした、気の長い方法なことか。
 方法は、遺伝子と実行から生まれた結果にほかならない。もういい加減に他人の方法などに惑わされずに、ただ黙々と実行する生活に専念したほうがいい。

◯これからの竹の会
 A4 一枚でコンパクトにまとめる、をポリシーに、受験ないし受検に特化した、レジュメを製作してみたい、というのが、来年の受験ないし受検に向けた抱負です。試験というのは、直前の集中が合否を分けること、直前の記憶勝負であることは、難関国家試験になるほど真実味を帯びてきます。難関国家試験というのは、それほどあるものではない。かつての司法試験はともかく今は法科大学院に行けばたいてはとれる資格になった。年間1500人という合格数がさらに平易な試験にしてしまった。医師の国家試験は易しすぎてここでは論外である。もちろん医学部は難関「入試」である。公認会計士試験は難関資格である。司法書士試験というのもある。こちらは一日で何科目もやる試験で、記憶限界が問われるという意味では難関試験と言える。こうした試験は今では予備校の力を借りなくてはとても合格できない。予備校が膨大な知識を整理して時間の節約をしてくれる。国立大学では、難関試験には無関心である。私立大学のように大学が主力となってやることはない。いずれにしても大学は難関試験とは距離を置いている。学生は大学などあてにしていない。みな予備校に行く。

 難関資格というのは、記憶する事項が膨大な量になります。試験本番直前1か月で、膨大な知識を一気に見直す、記憶として定着させていく、それこそ類い稀なる集中と時間が必要となるのです。そして多くの合格者が、記憶する事項、究極の記憶事項をA4一枚の紙に凝縮させて、集中と反復を繰り返している。一日10時間の集中した勉強が最後に作り出すA4一枚(実際は7~10枚程度に及ぶ)の凝縮、集約が合格の核となる。

 もともとわたしがレジュメを製作したのは、わたしが高校時代に毎日のように配られたプリントに原点があります。化学のプリント、古典のプリント、日本史のプリント、数学のプリント、英語のブリンと、生物のブリンと、文学史のブリンと、漢文のプリント、もう進学校というのはプリントがすべてでした。それから英語なんかいきなり分厚い参考書が配られたりして、戸惑ったものです。特に、物理のプリントと授業ノートは有名で、それだけで京大に合格できると言われました。わたしは竹の会であの頃のプリントを再現したかったのです。すぐれたプリントを作りたい、あの頃、すばらしいプリントを作っていただいた高校の先生方のように、それに負けない立派なプリントを作りたい、願いました。 

 わたしはわたしがLECでレジュメを作っていた頃に知った「レジュメ」という言葉でわたしのプリントを呼ぶことにしました。平成17年から例のソフトを使った、竹の会独特のレジュメの制作が開始しました。小学のための本格的なレジュメの開発は、平成24年の初めからだと思います。平成31年4月を区切りとして、令和に相応しい新レジュメの開発に意欲を燃やしております。

 

ページトップへ