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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等、桜修館中等、両国附属の方法/都立日比谷、西、戸山の方法/批評する人が実際にやれる人か

2017.04.02

 おはようございます。春特有の天気の変化でしょうか、真冬を思わせる冷たい空気が薄着でいたのを後悔させ、しばらくお天道様も顔を見せてくれない、そんな日が続いております。花粉はひどくはないというのに昨日は鼻水が止まらず風邪を疑って首を傾げるばかりでした。春本来のぬくもり、桜舞い散る桜並木の光景が見られる日もすぐそこに来ていると知りつつも、あまりにもの冷たい空気に戸惑いはつきません。

 膝の激痛からこのところ解放されつつあるのは、別のサメの軟骨由来のサプリメントをのみ始めたことによるようです。それまでのんでいたものと変えました。藁をもすがる心境でしたがこれが不思議と効いてきた。腰痛からくる足のしびれも和らいでいるような気がします。加えて、血圧がずっと高めでしたが、こちらもたまたま試した、植物由来のタブレットが本当に効いているようです。

 ◎竹の会の高校入試の指導について

 竹の会を知りもしないのに批判する人がいます。実は、中2の子が、今年、自分の学校では、マイクリアの理科と社会を7回まわして百点とった日比谷合格の女子がいた、ということを言いますので、中2と中3に手当てしたまでです。竹の会では実は同じ会社が出している別の、もっと薄いものを理科社会対策として使っています。これで90点台はとれると実証済みです。たかが都立の理科、社会ですから、なにを使ったからとれたということでもない。要は、いかに効率よく合格水準にもっていくかです。

 誤解されている人がいますけど、竹の会では、基本、テキストは使いません。新中学問題集も使ってはいません。基本的に、わたしのレジュメをやるだけです。問題数が多いわけでもない。高校入試のレジュメはテーマ毎に最小の努力で最大の効果を発揮できるように研究開発してきたものです。定番の「高校入試問題撰」は70問ほどで、まず都立共通問題なら悪くても90点台はとれます。私立難関の問題を解くには、さらに別のレジュメをやる必要がありますが、いずれにしろ無駄を一切省いて合格レベルまで導くように仕上げています。

 英語については、導入期の単語暗記が最初で最後の乗り越えなければならない壁です。単語も陸に覚えられないのに、やたら教材をそろえることに熱心な親がいましたけど、こういう人は教材がよければよくなる、講師がよければよくなる、で、勉強する本人の視点はまったく考慮の外にあるわけです。竹の会ではまず、単語を覚えなさい、と指導してきました。竹の会の30年を超える英語指導の実体験から導入期(小6の2月と3月)に単語を500語覚えられた者は例外なく中学3年間の英語5をとり続け、高校入試でも成功してきたからです。逆に覚えられなければ中学の英語人生は地に落ちます。この時期に教材がどうのこうのではなく、まず「やりなさい」、「実行しなさい」ということです。覚えられない人間が他人のせいにするのはその人の限界が見えている、それだけのことです。できないのを環境のせいにする人は一生できることはないし、まず受験では成功することはない。

 竹の会の英語は受験英語を効率よく受験レベルに持っていく最短の方法です。わたしが30年余の指導経験から生み出してきた、秘伝の方法です。まだ竹の会のなんたるか、何も知らない人が何を批判できるというのでしょうか。英語だって基本、レジュメ指導です。中学3年間で習う文法を短期間でマスターできるように研究してました。伝説の「英語指導案」が、真の英語の基本力を一気に培うでしょう。現に、現中1たちはこの「英語指導案」を終わらせた後に、英検3級をとっています。竹の会で市販のテキストを使うとしたら、まずこうした英語の基礎指導をすべて終わらせたときです。高校用の英語教材にはすぐれたものがたくさんあります。ここでわたしのオリジナルを通すのは合理性がないのです。センター試験レベルの英文なら慶應や早稲田の英語も楽に解けるでしょう。ここで実は塾専用を謳うのは意味がないのです。要は、子どもたちに、50分ないし60分で解ける英文読解力をつける、そのためにはどうすればいいか、これだけです。そのためにこと英語の仕上げの段階では大学入試の良書を使うことにも意味があると言っているだけなのです。わたしは中2の4月頃に、かつてプログレス英語の副読本として出されていた英文読解用の英文20撰ほどにわたしの5文型による解説を執筆し、これを訓練に使っています。プログレス英語は基本導入のところが斬新でこの手法はわたしのレジュメ制作にも参考にさせてもらいました。ただそれだけのことです。竹の会の英語の本質はと問われれば、英語5文型思考の訓練・形成ということになるでしょう。巷の人が竹の会の英語のなんたるかをも知らずしたり顔で批判することには内容について何も知らない、したがって、根拠など何もない戯言ということです。

 ◎卓越した指導体系を完成させた、いやさらに進化を遂げつつある、竹の会の小学生指導

 このところの小学3年、4年を念頭に置いた指導法が進化を遂げています。たまたま小3を一人だけですがみる機会に恵まれまして、この子を念頭にいろいろと指導法を研究してきたわけです。たとえば、計算のしくみをこの年齢の子にどのように効率よく教えるか、そのための方法を実践と集成を重ねながら開発してきたわけです。小数の計算から分数の計算へ、分数の短期マスター、逆算の短期マスターなどの課題にひとつひとつ取り組んではそれなりの方法を発明してきたと思います。また「割合」の導入から、「割合」概念の形成、「割合」の本質的枠組みの養成、つまり抽象化過程の教育法などわたしの乗り越えなければならなかった様々な課題をこの小3の子を実験として試しては作り直すという過程を繰り返しながらさまざまなレジュメを作品として制作してきました。自ら「考える」という姿勢を習性として身につけること、常に「考える」という姿勢を、スタンスをもっている子に教育、つまり訓練することをこころがけてまいりました。

 ◎都立中高一貫校対策は竹の会のレジュメ指導に耐えられる思考形成を前提とする

  竹の会では、小5の1年間を、正確には、小5の1月までに「割合」を通して強靱な思考力をつける、ということをめざしています。ですから、小5の4月以降は入会時期が後になるほど不利となります。遅くても合格する例はありました。ただし、それを補うに足りる高い知能と誰にも負けない努力が必要です。

  理想の入会時期が小4であることは実証されてきたことです。小4の4月がもっともいい。が、8月でも遅くはない。ただし、能力、もしくは能力開花しだいという面はある。竹の会では小4期に竹の会に来てくれることがもっともやりやすいというのが本音でした。しかし、これまでの経験では、特に、公立一貫校ねらいの親御さんというのは、「小5でも早い」と思っている節がある。それでしかたなく小4の2月からの募集にしてきました。ところが、それでもだれも来てくれない。たいていはみな大手に行ってしまう。大手は鷹揚なもので習い事、稽古事も好きにやっても自由ですから、親たちの受けもいい。それで小5の終わりとか、小6になって、つまりいろいろ試したけれどだめだったという子やもともと塾なんか行かないという子が竹の会に目をとめてくるのがほとんどです。いや今来ている子たちだって最初から竹の会という子は少ない。たいていはどこかの大手などに通い、つまりいろいろ試してみてダメだったからという子が多いと思う。竹の会という無名の塾を最初からめざしてくる人などほとんどいないわけです。ごく少数の親御さんが竹の会に出会って疑うこともなく信頼してくださった。そういう希有な人たちに支えられて竹の会は細々と生きながらえられてきた。20年の夏でした、小4の男子が母親に連れられてきたのは。その子が23年に小石川に合格することになるのですが、竹の会にくる前に少し四谷大塚だったか、日能研だったか、忘れたのですが、通っていたというようなことは申しておりました。とはいっても分数の計算なんかはまだできなかった。それで夏はとにかく分数の例のドリルをやらせたわけですが、今「ある」竹の会の指導レジュメの算数のシリーズは、この子を念頭に研究開発を重ねながら制作してきたものでした。当時はまだワードをよく使いましたが、平成20年に3年をかけて完成させた高校受験対策のレジュメ制作の経験を都立一貫校のためのレジュメ制作に活用し始めたのは4年後の24年のことでした。レジュメ制作にあたっては、みくに出版の算数の過去問2005年版からと適性の過去問2007年版から、2017年版まで逐一読み解き、良問を探してはレジュメ化していくという過酷な生活を送ってきました。この苦しい時代の体験が、今では、自分の指導イメージから適切なレジュメ教材化するという今の指導スタイルを可能にしているのであろうと思っています。

 わたしのレジュメでは、特に、解説部分がいいということをよく言われます。これも昔は解説なしでその都度現場で説明するという手法をとっていたのですが、平成20年前後だったと思うのですが、なかなか生徒が集まらずしかたなくアルバイトを始めた。LECという司法試験などの難関国家資格試験の大手予後校がありますが、あそこの模試で全国順位200番内をとったことがあり、それがきっかけで講座用の問題制作の仕事をいただくことができました。1問作って2万円が基準で、できのいい問題をを作るとプレミアムがついて3万円以上になったりしました。わたしの作る問題はよくプレミアムがついたので結構な収入になったのです。問題を作るということは、そのための解説を作ることまで含まれます。つまり解説まで請け負って「いくら」というわけです。この解説作りが大変で様々な関連文献を探して読む必要があります。それで1問を完成させるともうへとへとになってしまう。そうこうするうちに竹の会でも小石川や桜修館などに合格する子が出てきました。当時いた受検生というのは、3人とか、4人でしたから、少なかった。しかし、もうアルバイトをやる時間はとてもないと思い詰めたのです。わたしは止めたくはなかったけれど塾の指導に影響が出るとなると止めるしかない。生徒が集まらないから始めたけど、集まらなくても、3人しかいなくても力を抜くことはできることではない。それでやめたのです。わたしのレジュメに詳しい解説が入るようになったのはそれからです。LECでの経験がこだわりの解説を作ることになりました。今ではわたしのたいていのレジュメには詳しい解説が必ずついています。

 ◎仮合格という受け入れ

 小3期の子については、この時期の脳が可塑性に富み、知能の伸びが急速であり、そこから能力の可能性判断が難しいことから、仮合格ということにして、3か月ほどようすをみましょう、という仮の入会を認めています。やはり無理だったというときは、すぐに退塾していただくための安全弁ということですが、すくなくとも竹の会の指導を体験していただくにはいい制度かなと思っています。

 ◎「渋谷A」募集のこと

  対象 新小4

  募集数 2名のみ    

  竹の会所定の入会試験に合格したこと。直近の通知表が8割基準を満たす子は、合格する蓋然性が高いというデータが出ています。「よくできる」が8割「ある」ことです。「よくできる」がほとんどないか、少ないという子が合格することはほとんどありませんので、最初からそういう方は申し込まれないほうがよかろうかと思います。

 

 ◎「じゃー、お前がやってみろ」ということになる

 これはよく吟味しなければならない。いやほとんどの人の主張や意見のことです。今は情報が氾濫し、ともすればその情報に流されて本来の自分を見失う人がいかに多いことか。どうでもいいゴシップレベルの情報ばかり気にして、自分の軸というものがない、そういう人が多い。テレビのコメンテーターとか、どこそこ大学の先生、医師、弁護士、肩書きでものを言うわけですが、たいしたことは言ってないわけです。たいていはどこかでだれかが言ったことというのが実際ではないか。医者が言えば何でも正しい、弁護士が言えば何でも正しい、実際に携わっている人に聞いたから「すべて」正しい、そういう粗い頭の人、つまりは、権威主義ということなんですが、これもまたただのステレオタイプの頭はからっぽということです。今の世の中はすでに「わかっている」ことについての批評ばかりです。後知恵でいろいろと言うわけです。結果がわかっているものについて、後からいろいろ理屈をつけてくる、結果が起きる前には何もわからない、ただのバカです。わたしたちは、結果を見て、だったらこうしてればと言うけれど、結果が出る前は何をしていいのかわからなかったのではないですか。

 問題を解くとき、未知の問題、初見の問題について、どう考えていくか、どう解決の糸口を見つけ出すか、そういうところに頭を使うと思うのです。だから普段の勉強というのは、そういうことを想定して頭を使う訓練をしなければならないのに、答えをすぐ聞く、解説をすぐに読む、そういう人が多すぎる。人に教えてもらうことを疑わない親子というものがいるものです。どこそこの大手塾の東大卒講師は教えるのがうまいとか、どこそこは理科と社会がいいとか、そんなことばかり言っている。受験勉強というのは、自分がやるものです。だれかに教えてもらいできるという発想ではいつも新しいだれかを探すしかない。なにしろ主体は「いない」のですから。そうではないでしょ。受験勉強というのは、わからない問題が出たときにどうするか、そのために訓練するのです。そのときに「解き方を思い出す」というのではもう終わっています。解き方を思い出さなければ解けないわけですから。前提として解き方を覚える勉強をしてきたということですが、そこから間違っています。少ない問題体験でいいのです。その代わり考える。とことん考える。考える体験だけが考えるということの効率化というものを自己内形成するのです。定義を思い出す。図にかいてみる。そこからなにか解決の糸口はないかと考える。この訓練が大切なわけです。あれこれと塾の用意する魅力的なテキストを使えばできるようになるという、その単純な頭がすでにして思考のなんたるかをわからないままに終わるということを示唆しているのです。

 問題を解く、考えるという過程は、後知恵の知識を巧みに作ることとは、全く無関係な思考作用です。そもそも「覚える」ということが、思考とは相容れないことなのですが、しかし、思考というものは、まず「覚えなければどうにもならない」本質があるのも確かです。単語はまず覚えなければ始まらない。数学にしてもまず定義については、しっかりと頭の中で反芻できるほどにたたきこむ、覚えこまなければどうにもならない。実は、国語だって「定義」が大切ということなんです。この点については、わたしの書いてる「新国語読解」の発展である、「最新国語読解」の解説で持論を展開していく予定です。定義というのは、「・・・とは、・・・である。」ということですが、これは抽象的な価値主張です。人はなにかについての定義というものをそれぞれに想定しています。その上で何かについて論じるとき、その定義にしたがって展開する。そして最後に、抽象的に定義でまとめる。わたしは都合国語というものをそういうものだと考えております。ここで定義化するときに、世の親たちのように安易に他人の意見を借用して憚らないというのでは困るわけで、つまり後知恵ではだめで、きちんと自らの定義を示してほしいと思うのです。現在竹の会で進めている「抽象化訓練」レジュメもその思想の一貫として制作しています。

 

 

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