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小石川中等の受検/都立日比谷の受験/作文のスタンス/高校入試をわかっていないガラパゴス親子の棲息する区立中学

2017.06.06

 今日は朝から動き回って16時から始めた日曜提出の課題レジュメのチェック作業に2時間ほどかかりまして、ようやくブログの更新をする時間がとれました。ブログには2時間は見ておかないといけないので、仕事が押しているとそちらを優先する、それがいつもの流れです。

 さて、小6に関してですが、課題レジュメで作文を扱うのも6月で打ち切り、7月からは、試験形式で作文演習を実施することを考えております。桜修館受験組についてのみ、試験形式で桜修館の作文を課し、「新作文」シリーズは、課題にすることになろうかと思います。

 桜修館の作文については、去年の桜修館の塾対象説明会において、ある大手の人が、例の弥次郎兵衛の問題について「何の写真なのか全くわからなかった子たちがいた」、「これからもこういう問題を出すのか」などという質問をしていましたが、バカな質問をするものです。学校当局がそれなりの見識をもって出題しているのならとやかく言うべきものではないでしょ。そもそもこの大手の人間には、作文の本質がわかっていないのではないか、と思った。桜修館の作文で何を書くか、はいろいろ議論はあろうかと思うが、わたしは、テーマは本質ではない、何を書くかは、実はそれぞれの生きる理念にあるのではないか、と思料している。ここでわたしの作文論を詳しく語ることはできないが、竹の会の子どもたちには、添削を通して、わたしの持論を展開している。

 ただ、どの作文も稚拙であり、幼稚であり、未熟であり、D評価ばかりではある。

 基本的な作文の作法というものができていないのである。ほとんど平仮名というのもどうかと思うけれど、主語と述語が対応していないとか、同じ言葉を何回も繰り返すか、作文の締めくくりに、必ず、どうでもいい余計な結びの文を入れて「わたしはせいいっぱい生きていこうと思います」などとやる、アホです。文中で1度使った言葉は2度とは書かない、それが暗黙のルールです。それから何か前提となる事実があるはずなのにそれを省略していきなり主張を書く、これもだめです。体験を書けと言ったら、くどくどと200字近く書く、そうではなくて、事実を簡潔に提示するだけでいい、淡々と書くのである。体言止めをするバカ、強調語を連発するバカ、極めつけは、同じこと、内容をただ繰り返すだけというのがいる。要するに、書く内容がないのだ。何も考えていない。言い回しなんかも何か凝った表現をしたがる。特に、述語はシンプルに書かないといけません。簡潔な動詞で切る。というか、一文は短文、これは常識。文の切れは助詞にある。「てにをは」を正確に使う。さきほど体験について触れたけど、体験というのは、具体的なことを生命線とする。これがわかっていない子が多い。読む人に誤解を与えないために、つまり、別の意味にとられないように、読点に気をつけたり、表現に注意しながら書く。考えたことを書くのであり、考えていないことを書いてはダメである。何を書くのか、大事なこと、核となることを決めたら、そのことについて書くのである。

 とにかくみなさんの作文は読むに堪えない、メチャクチャな文章です。だから何回も書き直して、わたしのダメだしで学んでいく必要があります。しかし、まずなかなか出して来ない、書き直しを1度やったら終わり、など作文訓練の意義を理解しない者がいますが、これはせっかくの機会を無にすることになります。怠惰は破滅の同義語です。

 ◎未だに高校入試というものをわかっていない親子というのが区立中には夥しい数、棲息しているという事実

 区立中学というのは、勉強に関心のない、意識の低い層がおそらく80%はいるのかと推測します。かつて竹の会が高校受験を専門にやっていた頃、当時は、都立高校の凋落が言われて、区立中には、学習不振児が溢れていた時代でしたが、その頃から、中3から塾を探す親子というのが多数いました。そういう親子というのは、中1、中2とそれはもう部活に明け暮れて勉強というものをまともにやったことがない、だから内申もほとんど3以下というのが相場でした。当時の親は、塾は中3になっていくもの、と信じていました。「子ども(中1)が塾に行きたい、と言っている。わたしは中3からでいい、と子どもに言っているのですが、先生はどう思われますか」などと竹の会に電話してきた母親がいましたが、当時はこんな親ばかりでした。だから中1、中2から塾に行くのは、河合塾とか大手に行く子、つまり難関私立をねらう子というのが普通でした。だからわたしも中3から来た子をどうしたら合格させられるか、そういうノウハウを積み重ねていきました。こういうバカな親子は絶滅危惧種だと思っていましたが、いやいやまだまだそういう種は生きていた、しかも夥しい数が棲息していた、というわけです。区立中学そのものがガラパゴスそのものでした。部活に明け暮れて勉強しない、親は部活なら勉強しなくてもしかたないと公然と認めるわけです。こういう人種が結局低偏差値私立に大量に流れること、つまり低偏差値私立はそういう人種の受け皿であり、大量に吸い込んでいく構造ができています。中学の頃、ああれほど部活命と親子で入れ込んできたのに高校ではその熱も冷め、勉強に興味などあるはずもなく、中途退学するか、なんとか卒業だけはしても、そのまま社会に吸い込まれるようにのみ込まれて跡形もなく消えていく、こういうことではないでしょうか。

 竹の会にも突然中3の親からの問い合わせといったものがありますが、わたしはすっかり忘れていた、そういう親子の棲息することを思いだし、まだ変わらないんだ、と苦笑するしかないのです。トップ都立高校をめざす生徒のみにしぼって指導するようになってすっかりそういう人種の存在を忘れていました。竹の会はトップ都立合格を謳い、その指導に特化するべく、つまり、小6の2月から訓練を施し、日比谷、西受験レベルに仕上げていく、ということを企図してきましたから、その趣旨に沿って処していくほかありません。

 竹の会には実は大きな問題を抱えたまま、船出した「渋谷B」クラスがあります。中1はトップ都立を狙える子たちではないことは承知しておりますが、それにしても、中学生については、成績不振なら退塾もやむなく、また去年の閑散期には入会試験不合格者について入会を認めたこと、今年は仮合格者の入会が多いこと、小5からの入会者など必ずしもいい状況とは言い難い中で、どうなるのかわからない手探りの指導が続いております。一回一回指導の粋を尽くして指導に臨んでおりますが、正直どうなるのか、最悪ほとんど退塾を覚悟しつつ臨んでおります。

 いずれにしましても、「渋谷B」は、まず来年の1月までを一つの区切りとして、その成否の帰趨を見てみなければならない、成功者が数人でも出れば「渋谷B」はその独自の存在意義を見つけることになる、だから全力で自分の指導の粋を尽くして指導に専念しなければらない。ただし、退塾は、竹の会の生命線であり、断行することに迷っては死ぬ、塾は死ぬ。

 「人はなぜ死ぬか」という新書を面白く読ませていただいた。人間にとって死は種の保存には必然的なものという論証は、説得に溢れ、とすれば竹の会が生き残る唯一の道は退塾をすべきときはきっぱり切る、そういうことではないか、と改めて思料しておる次第です。

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