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小石川中等の戸山越え、日比谷・西最強の都立戦国/竹の会に懐疑的な大手偏重思考の親たちの始末

2017.05.27

 おはようございます。このところ不安定な天候が続いていますが、今日は晴れの予想ですが、やや雲量が多いような気がします。小学校では運動会が催されているところが多くまずは晴れでよかったですね。わたしの小学生の頃は、秋になると盛大に運動会が催されました。親も子も楽しみにその日を待ち焦がれます。遠くに住む祖父とかもやってきて重箱の弁当を食べながら酒なども飲んで観戦します。紅組と白組に別れてそれは熱気溢れるイベントでした。母と祖母が夜もまだ明けぬうちから煮染めや卵焼き、かまぼこ、巻き寿司などそれは豪華な弁当を作ったものです。朝4時頃実施の合図の花火がドドォーンと鳴り響き、もう朝暗いうちから席取り合戦が始まります。茣蓙をもって場所取りをします。どの家庭もたくさんの人が参加しそれはにぎやかなお祭りのようでした。東京に来て自分の子の運動会が春だったことに拍子抜けしましたが、かつてのわたしの運動会は遠い昔の話しとなりました。今は親が楽しむというよりは、カメラやビデオを片手に自分の子を探し追いかけるという、わが子命の光景が普通になりました。

 竹の会が東京23区にデビューして早5年が経ちました。さしたる広告手段を持たない竹の会が23区のみなさんに知られるようになる、というのはほぼ絶望的に見えたものです。まず取り組んだのが学校説明会の日にチラシを配ることでした。これは3年ほどやりましたが、完敗でした。すでに大手に行っている人がほとんどで竹の会のような無名の塾に関心を払う人などほとんどいなかったのです。正直そういう大手志向の人たちには竹の会という塾がなんとも胡散臭い、怪しい塾に見えたことなのでしょう。いかにも迷惑顔にすり抜ける親ばかりでした。早足で振り向きもせず、まっすぐ前を見て突き抜ける、全くの無視でしたから、為す術もありませんでした。こうして竹の会が出会いを求めた真摯なチラシ配布は一方的拒絶という試練の前に崩れ去ったのです。竹の会にやってくるのは、昔も今も変わることはない、口コミか「草枕」に出会った人たちでした。27年10月にはホームページを一新し、「草枕」をホームページ内に移転させ、竹の会の主力宣伝手段として充実させることに力を注ぎました。

 大手が都下の親子を取りこみ、早10年の歳月が流れ、ようやく「大手の中身」に気づく親たちも出てくるようになりました。あらゆる私鉄沿線駅前、JR駅前に教室を展開し、近いという至便さからも大手塾は重宝され、また設備、講師、テキストなど派手な誇大設備が信用を援護したのです。しかし、大手で合格したかどうか、となるとこれほどわからない話しはない。もっとも問題なのは大手に通って結局は受検に失敗した大多数の受検難民のことである。実は学力もなくもっと問題なのは勉強するということの意味もわからないままに飼い殺しされてきたことである。そもそもの勉強というものに対するスタンスというものを作り上げてこなかったこと、より本質的な問題として、思考力という内面的な訓練というものがまったく放置されてきたこと、すべてがそこに帰着する。以上は公立中高一貫校を念頭に語ったものですが、私立中受験の親子、これはこれで「落ちるところまで落ちる」しかない末路を辿ることになる。母親は情報の奴隷となり、新情報を追い求め、勉強するという原点さえも忘れ去られ、そういう親に子は掻き回され洗脳されて、挙げ句、こちらも思考するという勉強の基本のスタンスさえも身につけられずに、目新しいものに心奪われ、まともな勉強というものを嫌う、ぶれまくりの人生を送ることになる。長続きがしない、目先の効果ばかり追い求め、ひとつのことを黙々と続けるという素朴な勉強の本質を悟らないままに、結局は底辺に沈むことになるのである。

 大手は自らの内実を隠しきれないで自滅、自壊するしかなかったのである。大手の自壊を止めるのはいかにして天才を獲得するかにかかる。天才たちの出した成果にそのご威光を借りるほかないのである。大手だけではない。テキストを中心に回すシステムそのものにすでに矛盾を内包していたのだから、つまり、授業、講師、予習、復習、確認テストというテキスト中心の回転システムは、巷の弱小塾も同じである。個別指導とか、個人指導とか、家庭教師でさえも、テキスト中心という核は変わらない。竹の会のことを「少し古い」と言った親がいたけれど、意味がわからん。大手、巷塾の罪は、こうした勉強難民を多数出しながら、中学は中学でこの難民を取りこみ商売し、結局は、底辺都立や低偏差値私立に多数の難民を送り込む手助けをしていることである。二十年も前でも日大櫻丘高校なんかは偏差値は60以上でも実質はかなり低かったけど、今は55まで落ちた。これを低偏差値私立という気はないけれど私立高は少子化で生徒の奪い合いが熾烈でありその質の低下は止まるところをしらない。難民はこうして社会の底辺に排出されていく。

 ◎遠くからはるばると竹の会に通う人たちのこと

  竹の会にははるばる1時間超かけて通ってくる子どもたちもいる。葛飾区とか、大田区、品川区(小石川合格)、江東区(小石川合格)、練馬区、板橋区(小石川合格)など今ではあたりまえになっている。杉並区、中野区(戸山合格)、世田谷区(桜修館合格、都立駒場合格)などもいたけれど、隣接区では、港区(両国合格)がいちばん多く、目黒区、新宿区(戸山合格)もいた。中央区(白鷗合格)、千代田区(九段合格)などもいる。元代々木教室時代は、町田市とか、横浜市、春日部市、江戸川区などから通って来た。近くの塾に行かないでこうしてわざわざ遠くの竹の会までやってくる熱心な人たちがたくさんいます。遠くからはるばる来るだけの価値があるから来る、そう考えるしかない。竹の会にきた親子は竹の会の指導を実際に受けて見て、これまでの塾には想像もできなかったカルチャーショックに陥る人が多いようです。「これまでの塾はいったい何だったのか」、そう隠さずに独白される親御さんも少なからずいました。かつては竹の会を懐疑的にしか見ない親がたくさんいました。入会試験を冷やかしで受けに来る親がいまして、受けたら、話しもそこそこに逃げるように帰って行った親がいましたが、竹の会の入会試験で合格して大手塾に行くという手順のようです。今ではそういう輩は最初から断っていますが、そもそも竹の会の入会試験は偏差値試験でもなんでもなく、竹の会での指導が可能かどうかを診断する目的の試験であり、それを他塾でうまくいくための判断材料とするところがバカ親の証明なのでしょう。

 通塾に1時間以上かけて、往復だと2時間、それでも竹の会に勇んでくる、嬉々としてくる、そこにこそ、竹の会の物言わぬ竹の会たるゆえんの証明があるのではないのてしょうか。

 ◎張り子の虎を作るのは親の都合

  見かけの「できる」はず、ふりとは、裏腹に実力のない、張り子の虎が普通に棲息している、これが受験・受検世界の現実です。どうしたらそういう子ができてくるのか、つまるところは、勉強しない、これにつきるのですが、学校の優等生、できる子とされている子については、単純ではない。きちんと勉強しているからです。ただ習い事、稽古事、スポーツ、家庭の都合でいくらでも勉強を先送りする、ことが張り子の虎の主たる形成要因です。全く勉強しない、成績停滞、不振児なら「張り子」の冠もないし、虎でもないのですが、曲がりなりにも成績もよくて勉強も建前としてやるし、努力もする、だからこそ虎であり、しかし張り子なんです。

 わたしの考えは簡単です。勉強の先送りが張り子の虎にする。それだけです。勉強はするけれど先送りが多い。勉強というのは、「今でしょ」じゃないけれど、継続した数か月、一年といったことが絶対に必要なんです。先送りして勉強しない日があれば、次に勉強するときにそのままの力で継続すると考えてるのだとしたらそれは大きな間違いです。勉強は一日でも休んだらたいていはゼロになります。次に勉強するときはまたゼロからの出発です。だからいつも先送りばかりしていれば実力はつかないままに時だけが流れるだけです。勉強がゼロの日はそれまでの蓄積もゼロになる、それが張り子の形成には大事な材料になります。せっせと張り子の虎を作っていることになっているのだという自覚が当の子にも親にもない。勉強というもののつきあいかたというか、性質を知らない、悟らないから、そのような無謀なことを平気でやるのです。

 かつて東大法を首席で卒業し、現役のときに旧司法試験に合格した女子が本を書いたので読んだことがありました。この人は勉強というものをよく知っているなと思いました。また親も勉強という生き物をよく知っているのか、決して何かと都合で邪魔をしない。この人は本を「読む」ことに特化し、何十回でも読み直したと言います。ノートにまとめるのは時間がもったいないし、読む時間が足りなくなるので、ひたすら読んだのだそうです。1日10時間以上毎日読んだのだそうです。大学受験では全国模試で1番になったと書いています。この人はとにかく集中力がすごい人のようです。また一日も欠かさず勉強するというのはだれにもできることではありません。いつか難関国家試験を受けるという人もいるかもしれない。難関国家試験こそ一日も休まず勉強するのが合格の最良の方法であるということを知っておいたほうがいいでしょう。

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