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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等への道/日比谷、西への道/中学受験は破滅への諸刃の剣

2017.04.03

 春とは、ポカポカ陽気などというまやかしの衣装を纏った、真冬なのではないか、このところの底冷えに、春の正体を思う。子どもたちのことを思いながら、いやひとりひとりがそれぞれに悩みとまどうのを心を痛めながら、じっしておれなくてパソコンに向かう。割合の割合でなんのことかわからなくなる子、通分がいつのまにか迷路にはまる子、意味が読み切れなくて悩む子、・・・ひとりひとりが「わからない」壁に突き当たり、悩んでいる、そんな姿を見守る、次は、こう説明してみようか、いやもっといい説明のしかたがあるのではなどとわたしもいつも悩み続けています。ただひとつだけ言えることがある。それは竹の会の子たちはみなせいいっぱい考えている、戦っている、ということです。当面の問題が逃げない。それだけは確かです。だからみんないずれひとつひとつの当面の課題を乗り切りながら、前へ進むことができるのです。いやどうしても乗り越えられない子もいたし、いる。それは悲しいまでの現実であり、それが人間の持って生まれた能力のゆえならこれももうひとつの現実としてうけいれるほかない。

 ひさしぶりに大手進学塾で受験に失敗したという子に出会ってみて、そういえば竹の会にはこういう私立(国立)受験失敗者というのは、うまくゆかなかった、ということを思い出しました。大手進学塾でもまれてきた子というのは、なにか大切なものが欠けている、ずっとそう思ってきました。勉強というのは、こつこつとそれは地味な努力の積み重ねです。それをあたりまえのこととして、その平凡な日常になんの不平不満も言うこともなく、黙々と進められること、これが勉強を極める本質的なものと思います。

 ところが、私立難関、国立難関をめざす子たち、いや親子というのは、こうしたスタンスが欠落している。日常は、常に何かが与えられる、特別の何かがもたらされる、と信じて疑わない。だからどこそこの塾はどうだこうだなどとそういうことばかりに振り回されている。どこそこの教材はいいとか、そういうことばかり言っている。教材で勝負するのは、難関資格試験の予備校です。それは膨大な知識量をどうしても整理する必要があるところから生まれた、必要悪でした。大学受験の予備校でも、やはり膨大な知識、たとえば、古文を極めるにはよく整理された教材を作る、物理を整理した教材などと教材に負うところが大きい。東大合格者には自らサブノートを作る生徒もいるけれど、これは予備校や出版社などの時間をかけられる人たちが作ったものを使う利用するほうが効率的だということは至極当然である。

 しかし、こと中学受験、高校受験に関しては、膨大な知識の予備校による整理という必要は、実は本質的なものとはならない。これは長年にわたり高校受験を指導してきたわたしの経験的結論である。たとえば、数学なら数学で、効率的に最短でマスターする道筋というものがあり、ここで難解な問題にあえて取り組ませる合理性というのはない。理科、社会にしても、たかが都立の共通問題程度でどうということもない。わたしは少ない問題を考えさせることで一気に受験レベルに引き上げるレジュメを完成させている。そのためにどんなにすぐれた教材かは知らないが、時間をかけて取り組むだけの意味はない。竹の会の戸山合格者たちが数学で70%とり、国語で80%とった、その取るために特別に何か教材をやり、時間をかけたということもない。こと、高校受験に関しては、わたしはもっとも効率のいい、最良の道筋というものを知り抜いている、つもりである。

 中学受験、高校受験程度で、あれこれどこそこの教材がいい、それで決まるというようなことを信じて振り回される人たちがいるけれど滑稽な話である。わたしには道筋が見えているのである。単語も満足に覚えられない子、そういう地味な勉強に価値を認めない子に、何を期待できるであろうか。勉強というのは自分がやるものである。実行する、これが本質である。勉強なんて最初は面白くもない、単語をひたすら暗記するなんて、面白いはずがない、しかし、それをこつこつやる、がまんしてやる、それができない子に勉強なんかもともと合わないのである。勉強とはがまんである。がまんの利かないのが受験の子であり、即効性の効果ばかりを求めて、いい悪いと決めてかかる。勉強するのが自分である、という本質がないのである。大手塾に行けばいい教材がもらえる、それでできるようになる、と信じている。常に、勉強がうまくいかないのは、環境のせいにされる。他者のせいにされる。周辺のせいにされる。自分は悪くはないのである。自分は悪くはないのに周りが悪いから自分はできない、こういう思考で固まっている。これは親も同じでこうなるともう取りつく島がない。大手進学塾で勉強のなんたるかを学ぶこともなく、常に偏差値を競い、いい教材を手に入れることに奔走し、講師や塾の煽動する特別の「もの」があると信じてそれに翻弄されてきた、そういう小学4、5、6年を送る、中学受験生というのは、わたしから見れば憐れな姿にしか見えない。大切なものは何か。勉強に特別なことなんかない。勉強は陳腐で地味で目新しさもなにもない。ただ日常生活の中にその地味な勉強というものが取り込まれただ黙々と取り組む、それが勉強なのである。その日常生活の主体、つまり勉強する人はほかでもない、自分なのである。自分を完徹することこそ肝要である。実行する人になりきること、これが勉強を極めるということである。環境に振り回される、周辺に振り回される、なんともおかしな人たちの集団である。それが中学受験という真のリスク、子どもを破滅に導くことになるかもしれないという危機意識はもちろんない。受験を経験した子、いやそのために大手塾でどっぷりと偏差値競争にもまれてきた子、そして第一志望に入れなかった偏差値敗者、すべてに落ちた受験敗者たちは勉強というものを知らないがゆえにさらなる失敗ロードを、試練の道を歩むほかない人たちである。

 竹の会には私立、国立受験の、そして結局失敗した、小学生親子はこないことである。思いだしてみれば過去にもそういうことを書いた記憶がある。いやなんどもある。私立中学受験失敗の親子たちを偏差値地獄でもまれてきた親子を救うのはもはや不可能なのである。それはそういう人たちが、勉強というものを他者がなんとかしてくれるものと信じて疑わない、こつこつと自分で切り拓いていく、地味な作業をやることを。軽視し、忌避する人たちだからです。こういう人たちとは正直かかわり合いを持ちたくありません。

 デカルトの「方法序説」は是非読んでほしい。一度選んだ方法は後からどんなに優れた方法が出てきたとしても決して捨ててはならない。固執するのである。迷いはその意味では無意味である。自分の選んだ方法がたとえ他に劣ると思ってももはや変えてはならないのである。その道をひたすら進みなさい。それが結局は成功につながるということをデカルトは見事に論証しております。迷ってはならない。自分の選んだ道を進むだけである。

 先の人たちには迷いさえもない。常に、目新しいものに飛びつく。常に最初の選択はいとも簡単に捨て去られる。迷いさえもない人たち、わたしはこういう人を信じることはできない。人間は迷うところに本質がある。迷っているから人間なのである。ただその迷いさえも時にはあってはならないのである。勉強道では、そうである。最初に自分がこれしかないと選択したのならもう最後までその方法を完徹しなさい。ここで迷ってはならないのです。決して迷ってはならない。ここでの迷いは勉強には致命的であり、ましてやここでこれまでの方法を止めて、目移りした他の方法に移るなどということは、それは失敗の本質であり、成功を捨てることにほかならない。

 ここは先人の、賢人の教えに従ったほうがいいでしょう。

 竹の会は小学生の4年、5年という時期に、勉強とは何か、ということを伝えたいだけなのです。幸いなことに都立中高一貫校というのは、偏差値試験の対象としてはそぐわない。私立受験だと、理科にしても社会にしても客観的に知識を点数化して、評価できる。算数も国語も紋切り型の客観的解答、つまり偏差値化して、評価する。だから私立の試験は偏差値で測れるのである。そのようにしているからである。ところが適性検査問題の答えを偏差値化するのは無理である。都立一貫校にも偏差値が出ているが、模試があればその点数を偏差値の根拠とすることはできるけれど、その点数そのものが客観的な処理から出てきたものではない。

 竹の会は子どもたちに思考するということを通して、勉強の方法、スタンスというものを伝えている、それだけです。それはもちろん計算という基本学力、割合思考という中核となる思考をいかに子どもたちの中に思考枠組みとして構造を内在化させるかというテーマで長年研究を重ね、その成果を実践してきましたが、竹の会は常にあるテーマをかかえ、それを実現するための研究開発を続けてきたのであり、そういう夥しい研究開発の成果が今の竹の会の諸成果に結実しているのだと思います。

 数学をいかに効率よく受験レベルにもっていくか、難関英語を読み解くだけの力をつける手順、国語読解の方法など竹の会は常に解決すべき課題に取り組み、そのための手当てをしてきたのです。竹の会で有名な「高校入試問題撰」や「新英語指導案」、「入試英語指導案」などはわたしのそういった課題に苦しみ悩んだ証しでした。子どもたちが何をすればいいのかを的確に指示し、導いていくこと、これがわたしの仕事です。時には市販の教材も使います。しかし、それが本質ではない。特に、英文読解指導では、日本の大学受験をリードする予備校ものを使わない手はないのです。ただし、高校入試ということは忘れてならない。だからここでわたしのめ歯止めがいるのです。こういう出版物は危険である。そういう危険を熟知し、わたしはこれはレジュメでわたしが扱ったほうがいいと判断しレジュメ化して、対処することもよくあります。

 竹の会を真に理解するには竹の会の指導を実際に経験したものでなければ無理です。傍から、外から、わかったようなことを言う人がいますが、笑止です。わたしの指導の深いところはわかるはずもないでしょ。わたしはそういう浅い人間にとやかく言ってほしくない。新学期にはワークを配るけど、わたしには実はどうでもいいことなのです。ただ中学生が便利だ、役に立つというから渡しているにすぎない。わたしの指導したいことはそういうところにはないからです。わたしのレジュメに素直に取り組み、考え、勉強というものの処し方を知ってもらえばいいのです。勉強のスタンスを作り上げさえすればそれでいいのです。結果なんて後からついてきます。わたしの言う通りにやっていれば結果は後からついてきます。それがわかるのは1年経って、2年経ってです。その上で竹の会を評価するならまだわかりますが、一度もまともに指導に従ってもないのに、竹の会をダメだと決めつける、これが笑止だと言っているのです。

 わたしの手元には小学時代を竹の会で過ごした親御さんや中学3年間を過ごした親御さん、子どもたちからそれはたくさんの感謝の手紙が届いております。何年か過ごして初めてわかることなのです。竹の会の指導の意味がわかるのは少なくとも一年はかかる。そのときにかけがえのないものを手にしていることに気がつくからです。大切なものは目に見えないものです。これは1回、2回出ただけでわかるほど薄っぺらなものではない。そんなものがあったらそれは偽ものに決まっています。大切なものは時間をかけて育むものです。時間をかけなければ生まれないものです。そのことがわかるのは竹の会にきてずっと時間がたってからです。いや竹の会を卒業して、そのとき初めてわかることかもしれない。

 

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