画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等をめざして大手塾に行くの愚

2016.02.01

 おはようございます。昨日は小6の最後の指導を終えましてみんなそれぞれに思いを胸に秘めて竹の会を去っていきました。最後のレジュメ「直前チェック」を70分~90分かけてやり終えました。レジュメが終わった後は気が抜けたのかなかなか勉強に集中できずにおしゃべりしたりなにかと騒いでいたようですがとにかくもすべての指導はこれで終わりました。「直前チェック」の結果が今の力をそのまま反映しいるのだろうと思いました。小6のみなさん、これまでありがとうございました。本番での健闘、そしていい知らせを期待しています。

 このところわたしはどうも大手塾について腹立たしさを禁じ得ないのです。いや親が勝手に大手をよかれと信じ選んで自分の子を行かせるのですから一向にかまわないわけですけど、それにしてもやってることはひどいと思うのです。親は無知なのか、無定見なのか、自分の子が実際どうなっているのかさえ全く把握していないのですからとにかく始末が悪い。受検直前になって自分の子の成績を見て「これはおかしい」とようやく気づくわけです。小学校ではトップクラス、優等生のはずが模試などではまったく冴えない、そういうことがさすがに鈍感な親でも目についてくる。しかし、そのときは時既に遅しです。

 まあ、世の中の大半の親というのはこの手の破滅のスパイラルにはまっているのかと思います。自分の子のことがまるでわかっていない。日能研か、四谷大塚か知りませんが、1年も2年も通ってまともな計算ひとつできない、割合の基本さえわかっいない、そういう子が推定何千人いることか。もともとわたしは私立受験の小学生が大手のカリキュラムからこぼれてただ通っているだけという多くの実例を見てきた人間ですからそのへんの実態をわかっていましたが、それはかなり昔の話です、しかし、今も全くその事情は変わっていない。平成17年から公立中高一貫校制度がスタートすると、今度は、エナとか、栄光ゼミナール、はたまた大原みたいなところが、それを専門に商売するようになる。当初からこれらの予備校がやっていたことは適性類似の問題を作って練習させる、ということだけでしたが、まあ、世の中の親というのかすぐこういうものに飛びつく。エナなどは何百人受かったなど吹聴していますが、多摩地区がほとんどでしょ。しかも合格数はそのまま信用できない。模試の受験者など水増しを疑うのが無難だ。多摩地区の公立中高一貫校は進学実績も同じ多摩地区にある国立、東八王子など旧来型の都立高校と比べて全く冴えないわけですから、多摩地区の秀才が敬遠し、23区の公立中高一貫校を受けるか、公立中から高校入試をしたほうがいいと思うに決まっている。エナにしても栄光にしてもよくもこういうカリキュラムと授業だけの形式にカネを払い続けて子どもを託する気持ちになるものだと思う。

 小5を軸に、その前後の一年というのは、もっとも思考力をつけなければならない大切な時期である。下らないカリキュラムで子どもを潰す親がなんと多いことか。無定見、無見識としか思えない。何かのきっかけでたまたま竹の会でそういう子の片鱗を見る機会があるとき、わたしはいつも唖然としてしまう。よくも子どもがこうなるまで大手に通わせたものだ、と大手の無神経な商売に怒りさえ覚える。

 竹の会などは毎年九段で催される合同説明会の日にチラシを配付するのですが、みな最初から大手ありきで竹の会のような塾には見向きもしてくれないわけです。しかし、そういう親子のほとんどが結局受検直前期になって挫折してしまうという、ありきたりの光景は変わらない。

 大手の何がいけないのか。カリキュラムとテキストと授業だけで子どもの未来は安心と思い込む親の単純さも問題だが、そもそも子どもにとって何が大切なのかまるでわかっていないということです。

 子どもというのは、テキストやらせて土曜テストかなんかは知らないが、それでチェックしたら先へ進める、そういうやりかたでは確実に破滅するということです。そもそもそのテキストにしても、土曜テストにしても疑わしい。最初から解きやすい、わかりやすい、平易な問題ばかりで編集して、解き方なんかも例題で示して、その解き方で練習問題も解けるようになっている。土曜テストもその延長で、親も子も「できた。できた」と喜んでいるわけです。そんな環境に1年もいれば完全なバカが仕上がるに決まっています。大手で難しい問題を出すと、落ちこぼれが出てくるし、ついていけないなど言い出す子も出てくる、だから本番間近までけっして難しい問題はやらないようにする、これが商売だと言っているのです。親はそれで子どもはできている、ついていっていると安心しているのですが、これほどおめでたいことはない。

 わたしは説明会の日に竹の会を無視する人たちはおめでたい人たちなのだと思っています。

 子どもというのは極端に言えば一問一答でしか育たない。一問をやらせたのなら本当に理解したのかどうか、一々確認しなければ先へは進めないということです。真似をしただけ、解き方を真似ただけ、だれかの答えを見た、などいくらでも信用ならないことをやるのが子どもです。そういう子どものずるさを織り込み済みで指導しなければならない。わたしのレジュメは一枚一枚ができたかできないかです。常に子どもの理解をチェックしています。できたかできないかを確かめながら先へ進める。それでもずるをやる子がいる。わたしが解答集を見ているときに盗み見する子だっている。隣の席の子の答えをカンニングする子だっている。だから「できた」と言ってもそれをそのまま信用なんかできない。次から次に試す必要がある。竹の会のレジュメ指導というのは、そういう子どものずるさを折り込んだ指導という面もある。子どもは真に自分の向上を願う子なら、常にレジュメに挑戦し自分を試し、実力、思考力をつけていくことができる。竹の会のレジュメは子どもたちの思考との葛藤の軌跡である。

 形式的なカリキュラムに子どもを預ける世間の親の愚はなくなることはない。自分の子だけは特別という意識が、大手の「あなたの子は別です。できるようになります」という甘い言葉にすぐひっかかる。大手の人間だってその子が大手のやりかたで伸びないことは知っているのである。大手はもともと天才しか相手にしてないのである。大手はバカがもともとの天才と同等になるといっている、それをそのまま信ずる親も親でしょ。世の中というのは、相手に判断をさせるけれどその判断を狂わせる騙しの構造というものが多かれ少なかれある。真実を隠匿する。あえて言わない。オレオレ詐欺も真実を隠匿して相手を騙すけど、本質的には相通じるものがある。世の中というのは騙しの構造を正当化した社会である。騙されるヤツが悪い、それが共通の認識である。

 小石川中等に行きたい、桜修館に行きたい、両国に行きたい、・・そういう子どもの純粋な夢を親がねじ曲げて失敗へと導くのに手を貸す、それが実際ではないか。

 少なくとも竹の会は昭和60年開設以来、常に、子どものそういう夢を実現するために、何をすべきかを追究してきたし、少なくともささやかながら子どもたちにほんとうに必要なものを育ててきた。

 それを信じるかどうかは、世の親御さんには難しいかもしれません。

ページトップへ