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小石川中等・両国附属・桜修館中等は私立併願者との実質的戦いということ/浅はかな親が浅はかな子を作り出す構造について/末路の研究

2017.06.19

 おはようございます。昨日はそうだ、梅雨だったのか、と雨に納得し、今日はまたいつになく清々しいヒンヤリとした風が吹き込み、思わぬ贈り物とこれを喜んでおります。ついに不摂生が祟り体は悲鳴をあげています。あの食あたりをきっかけにした血液検査で畏れていた病気が発覚、受検の子どもたちをかかえ、落ち込んでいる暇はなく、あれこれと医学書を読みあさり、とにかくも食べるものに気をつけるほかないと思い到り節制した生活をしております。たいていは三日坊主の決意も今度はばかりは死ぬかもしれないと言われ恐れをなして節制しております。土曜日には新宿西口までおよ十キロ以上を歩きまして歩数にして1万3千歩ほど、あれだけ苦しんできた右膝の調子も堅調でこれは喜びとしなければなりません。ただ試しに走ってみたらこれはいけません。膝に不気味な痛みの芽を感じとりました。

 ◎竹の会夏期集中指導のお申込

  6月中のみの受付です。申込を忘れて徒過しても特に注意喚起はいたしません。また7月になって「忘れていました」と言っても受けつけることはありませんので、くれぐれもご注意ください。「忘れる」程度の親御さんなら別に竹の会でなくてもいいと思うからです。

 ◎小6、進捗状況

 小6が受検指導に入ったのが小5の2月のことでした。あれからもう5か月が経とうとしておりますが、進捗具合がバラバラでとてもそろって前進ということになってはおりません。比較的進んでいるようにみえる子でもその内実はほとんど合格はんこをとれずに解説を見て解き直しをやるということで進めており見通しはかなり厳しいと見ております。概ね息切れしているように見ておりますが、その原因は2つしかありません。入会時期が遅い、今年の小6はほとんど小5になってからの入会者ばかりで、いちばん早い子でも小4の3月です。それに加えてすべての子が必ずしも勉強ファーストできたわけではないということです。これは親の認識の甘さにも原因があるように思います。これくらいやったって「受かる」、「影響ない」だろう、という認識です。もうひとつは、能力的なものです。多くの方が勘違いされているのですが、富士、白鷗を除き、都立中高一貫校は知能が高くなければ受かることはありません。もっと言えば、都立中高一貫校というのは、知能の高い子たちの土俵です。学校の通知表で「よくできる」が8割以上ない子というのは最初からこの土俵に上がるべきではない。もちろん一般論です。

 一気に6月も下旬に突入、これから7月、8月ともっとも勉強できる期間を迎えます。どうか小6のみなさんはこの2か月をせめてこの2か月を勉強ファーストで悔いの残らぬよう過ごしていただきたいと切に願うばかりです。

 ◎浅はかな親が浅はかな子を作り出す構造について

 わたしは大手塾にいたという子たちでまともにできる子を見たことがありません。また塾に行かないという子たちの救いようのない低い学力にはあきれるばかりです。東京に夥しい塾がありますけど、その中で大手といわれる、駅前塾は、進学塾型と都立一貫校型に分けられると思います、わたしの知る限り後者には、エナ、大原などが入るのでしょう。栄光は私立受験もやるようですが、今はZ会の子会社になりまして、その位置づけもよくわからない。進学塾型といえば、サピックス、日能研、四谷大塚、早稲アカなどでしょうか。昨今はこうした進学塾型の子たちも都立一貫校を併願先として選ぶので、都立一貫校型の塾は敗色濃厚と思うのですが、新教室開設の勢いは止まらない。最近の竹の会に問い合わせて来る親御さんも「近くの大手」に取りあえず入れるという方が多いようです。

 進学塾型にはまた能力の制約からくる落ちこぼれの問題がありますが、今問題にしているのは都立一貫型の塾に通う小学生の学力レベルの低さのことです。早い子だと小4から通う子も多いと聞いておりますが、大手一神教の熱心な信者である大多数の親たちの選択がもたらす、およそ取り返しのつかない事態について、わたしは触れずにはおれません。小4から大手に通っているのに、計算もまともにできない、割合など理解する子は稀、したがってまともに思考することもできない、あるいはそもそもの勉強のスタンスをまったく培ってこなかったことのつけはあまりにも大きく将来に暗雲が立ち籠めても当の親子は脳天気に無邪気に平和裏大手に通い続ける、まことにわたしから見れば長閑な滑稽な無知の平和風景にしか見えません。

 塾に行かないという子たちも少なからずいるでしょう。大半はバカなのでしょうけれど、中には磨けば光る逸材もいるのかと思います。しかし、「磨けば」です。磨かなければただの石ころです。子どもというのは訓練してなんぼです。多くの親はこれがわかっていない。だから授業形式の大手に入れても平気の平です。小3や小4に学生講師が説明するという形式を有り難がる、「うちの子は講師の先生と相性がいい」などと言って喜んでいる。ばっかじゃないの。小4程度に授業なんかしてなんになる、もうこれは訓練するしかない、この年頃の子の「わかった」ほど信用ならないものはない。この年頃はまず体を動かして理解させる、手を使って確かめる、ひとつできたからといって「わかった」などと思うのはアホである。オウム返しの会話なんかどうでもいいのです。信用できないから手を変え品を変え試すのです。こどもの「わかった」なんか信用できるはずがない。子どもが「わかった」と言えば、安心するバカ親相手に、大手がやることなど百も承知だ。少なくとも都立一貫型の塾のように易しいテキスト使って「わかった」を演出していれば行き着く先は見えている。進学塾型のテキストはそのまま偏差値に反映するので徒に平易に作ると自殺行為となるからこちらは質が高い。だから当然落ちこぼれる者が出てくる。しかし、私立受験の親子というのは偏差値絶対ということでは疑いはないのでだから塾を止めるということにはつながらない。都立一貫型のように「わかりやすい」塾を売りにしなければ逃げられるということにはなっていない。

 竹の会では正直かなりの人が入会試験に挑戦するも、まともに合格できるという人はほとんどいない。竹の会では入会試験を希望するみなさんには「よくできる」が8割前後あることを求めていますが、最近の傾向としては、3~6割しかない人たちがたくさんやってくる。当然受からない。わたしはこういう機会を通して大手に通う小学生、あるいは通っていた小学生の力を知る機会に預かるわけですが、一人としてまともな小学生に出会わないのはいったいどうしたことなのか。特に、男の子については、親は甘いようである。欲しい物はたいてい買ってあげる、そういう親が多いのでしょうが、しつけるべきところを全くしつけていない親が多い。子の将来のことを心配しないのだろうか。受検するというのも、物を買ってやる程度の認識なのであろうか。子どもに勉強というものを訓練していくというのは実は一番子どもにとって基本的な命の手段なのであり、この点の認識がまるでない。あれこれと習い事や稽古事をするのと同レベルにしか見ていない親のなんと多いことか。子が大学を出て社会に出る、つまり職を得る、生計の手段を獲得する、そういうことを視野に子どもに勉強するということのいかに大切なことなのかを教育する、そういうことの欠落した親が多すぎる。わたしはマルクスの「資本論」を今読んでいますが、これが経済書なんかではなくて哲学書だということを悟るまでに時間がかかり、今頃になって真剣に読み始めた始末です。労働者は労働力を附加して商品の価値、交換価値を社会が付与する、子どもが将来の自分の交換価値をより高いものにするには、労働力、すなわち勉強するしかないのである。自分の交換価値は来し方の勉強量に規定されることになる。勉強しないということがもたらす効果は自明で自分の価値を限りなくゼロに近づける行為ということである。習い事、稽古事と同じ、あるいはそれ以下にする人たちの頭の構造がわたしにはわからない。アホの極致というしかない。

 ◎末路の研究

 いろいろな選択をすればそれがどういう結果をもたらすか、つまりはどういう末路をたどるのか、ということが、ここでのテーマである。小学4のときに大手を選んだ親の末路とか、地元の個人塾に通った子の末路とか、中学のときに部活命できた親子の末路とか、末路の題材には事欠かない。末路は蓋然性論である。たとえば、類い稀なる天才という人はいて、こういう人は生まれながらにして辿るべき末路というものが決まっており、こういう人が「塾に行かない」選択をしたとしても、いわゆる「塾に行かない」人一般の末路をたどることはないのは当然である。竹の会で平成22年に桜修館中等に合格した杉山太一君は桜修館時代の6年間を吹奏楽部で明け暮れて塾にも予備校にも行かないで京大法に現役で合格するという快挙を成し遂げていますが、こういう天才的な人にはいわゆる末路論は通用しないのである。習い事、稽古事ファーストの生活信念を持っている親子の末路は当の習い事で大成するでもなく中途半端な勉強がもたらす三流の人生がその末路となるであろうことは想像に難くない。子育ては親の人生の敗者復活戦ではない。子に自分のできなかったことを託すのは親のエゴにほかならない。

 「先生、なにか子どもに読ませる、いい哲学書はないですか」と言われることがある。かつては「ソフィーの世界」をすぐに紹介したものである。中学生だと池田晶子の「14歳からの哲学」がいい、と思う。わたし自身いろいろな哲学者の本を読むけれど、森本哲郎の本なんかはお薦めだと思うし、今は経済学批判の書、マルクスの「資本論」なんかかなりいいと思っている。ただし、あれはそのまま読めば経済の本になってしまうので、頭の中でいろいろと変換しながら読み進めなければならないから、小学生はもちろん中学生にも無理かもしれない。

 たとえば、ダイヤモンドは最初から交換価値が高い。人間だと生まれながらにして天賦の才に恵まれているという人もいる。その才が何なのかはわからない。仮に、高い知能、集中力だとすれば、これはもう磨かなければただの石である。その意味でやはり労働力、つまりは勉強量はかけなければ、交換価値は低い。もともと才がなければいくら勉強しても交換価値はそこそこということもしかたない。しかし、自分の交換価値を高めるのは、勉強だけではない。料理の才、大工の才があれば、それはやはり努力量で交換価値は定まることにはかわりはない。だからどういう人生を選ぶかは各人の才に則して選択すればいい。だからわたしが勉強を言うのはごく普通の蓋然性に依拠しているだけのことである。運動能力もさほどではない、音感に優れているわけでもない、芸術に才があるとも思えない、自分に残されているのは勉強することしかないという、ごく一般の人の話である。そういう人が将来生計の手段を得るためには自分の交換価値をできるだけ高いところに設定してそれを実現するために労働力をかける、勉強する、そういうことではないのか。どうでもいい末路をたどるようなことだけにはなりたくない、だから勉強するのである。

 

 

 

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