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小石川受検、日比谷西戸山受験は素直な心で人の声に耳を傾ける子が成功するようになっている

2016.02.15

 おはようございます。昨日の嵐はまさかの春一番でした。今年は春が早く来る、そんな予感です。桜の季節までもうあと少しですね。受験は魔物と言いますか、いつも形を変えて変幻自在、なにかウィルスを思わせるような変異ぶりですが、その魔物の正体は結局受験に群がる「人の心」が作り出す幻影なのでしょうね。

 正直、今年の受験はわたしの心に確たる証しがない状態でした。公立中高一貫校受検だけではない、都立高校受験もです。その原因は何なのだろうか、とよくよく考えてみました。子どもたちに「素直にしたがう心」がない、そういうことにつきるのかと思います。わたしの言葉を真摯に受け止めてそのために必死にしたがう姿勢というものが終ぞなかったということです。

 いや子どもたちはきちんとしたいい子ばかりです。ただそういうことではなくて、わたしの指示というか、言葉を大切にとらえて行動するということでは素直ではないということです。

 課題を先送りせずに出す、その都度解き直しをする、そういうことを律儀に果たすということをしないで平気だというその心情のことです。小5の2月にわたしが求めた勉強時間は1日5時間でした。学校が休みなら7時間、夏休みも当然7時間です。しかし、こういうわたしの言葉を真摯に受け止めてそのとおりにやるという子は皆無でした。ただ曲がりなりにも、1、2名がわたしの意に沿う行動を示してくれたのかなと思った程度です。

 中学生には、2年生になると、夏から理科や社会、英文解釈などわたしの指示が出る、ところが、中2の夏ということもあって、それほど真剣に高校受験を意識した勉強などなかなか真剣には取り組んでくれない。中間、期末のたびに3週間は先送りされる。そうすると結局せっかくのわたしの指示もなんともいい加減なままに先送りされてしまう。

 「素直にしたがう」というのは、そういうことです。平気でやり過ごす、そういう子は少なくとも勉強道については、素直ではない、ということです。「これをやっておきなさい」と渡す、指示する、しかし、今年の中3は一つとして実行してこなかった。いろいろやることがあって忙しい、そういうことです。当面のよしなしごとを片づけるために、わたしの指示などやってはおれないということです。

 「入試英語指導案」は、7回どころか、50回でも読み返すこと、でした。私立の過去問は時間を計って一通り終わらせておかねばならなかった。「英作文例」は、暗記するように渡したはずです。理科、社会は、中3になる前に、7回読み込みを終わらせることでした。英文解釈用のテキストはいろいろ渡しているはずですが、結局、そのままやらずに放置された感があります。

 自分のやりかたにこだわる、これは入試には必ず失敗する、厄介で典型的なタイプです。自分のやり方など害があるばかりである。そんなこだわりは捨ててしまったほうがいい。なにも自分であれこれ考えずに素直に言われたことを実行すること、そういう子が成功するに決まっている、それが受験の真理なんです。

 夏に7時間やったか、と問われて、「否」と答えるのなら落ちもしかたない。課題をきちんと出し切ったか、と問われて、「否」なら、落ちてもしかたない。

 わたしの「心に」形成されていく「合格の証し」というものは、そういう類い稀なる実行力の積み重ねにほかならない。

 「素直さ」と対極をなすもの、それは、反抗心、批判的態度、懐疑的心性、スルーしても平気な無責任さ、そういったものである。

 なに落ちても嘆くにはあたらない。だって落ちることに協力的な生活を送ってきたのだから。

 最近の知らない方からのメールには、「ブログをたよりに」子どもを見守ってきた、みたいなのが多くあります。わたしのブログは家族によく「厳しすぎる」と批判されますが、読者のなかには、支持してくださる方もそれなりにいることを知ってまたブログを書く気になります。時として、もう止めようとなんどとなく思ったものです。中には、わざわざ面会の約束までとって、面と向かって、「先生の独善的な意見について、先生はどうお考えですか」などと糺す親もいまして、世の中はわけがわかりません。自分と意見が合わなければ子どもを入れない、それだけでしょ。私塾ですから、共鳴しなければ、無視すればいいだけのことでしょ。それを何かを言わなければ気が済まない、そういう性格なのか、わたしは勘弁してもらいたい。

 部活やって受かるか、習い事やっていて受かるか、稽古事やっていて受かるか、そういう古典的な問題もあります。二兎を追う者は一兎をも得ない、という格言は、無価値に近いものとされてしまう。突然自分の子は聖徳太子並みの有能者になってしまう。

 将来難関の国家試験でも受ける、そして合格する、そういうことができるのは、生活のすべてを勉強一色にしたときだけです。勉強道というのは、なにかをやりながら達成できる、成就できるようなものではない。慶應の英語、早稲田の英語を苦もなく読み解くことができるには、それこそ血と汗にまみれて艱難辛苦を乗り越えるような勉強をしなければならないということです。

 小石川が私立難関中の併願校だということはわかっている。だったら「小石川を受ける」というにはそれだけの覚悟、勉強道に徹する覚悟というものが当然必要ではないか。7時間やりぬく、5時間やりぬく、課題は決して引き延ばさない、間髪を入れずに出す、解き直しは決してサボらない、そういう勉強道というものの気概がなければ合格などとれるはずがない。

 さて、そしてもう落ちた子たちは次の勉強道を歩むことしかない。もう十分勉強道のなんたるかを学習してきたはずである。勉強に休みはない。日比谷に向けて、西に向けて、戸山に向けて、行動を開始するしかない。行動は迅速に起こす、時間というものをもういい加減に知ったほうがいい。時間は人間にとって恐ろしいベクトルなのだということを。

 

 

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