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小石川合格の条件、実力ありと思われた子がなぜ本番で失速するのか、都立西への道など

2016.03.11

 おはようございます。すっきりしない天気ですが、そのせいでもないのでしょうがなぜか今日は頭がすっきりしません。ブログの更新もどうしようか迷ったのですが、とにかく書き始めました。わたしの場合、ブログを書くエネルギーというのは、基本「怒り」なのかなと思います。あるいは「理不尽」ということ、そういうところから「斬る」ことになっているようです。というか近頃は「斬る」文が多いのかもしれません。というのも自分の子をどう教育するかは親の自由でしょうけれどもそれで子どもをダメにする親というものを見知っているからなのでしょう。

 大衆社会とB層の誕生

 B層というのは、大衆社会において個々の大衆が行き着いた姿とされています(適菜収の説)。適菜は、大衆社会というものを階級社会、身分社会が崩壊した後の社会として規定しています。ここでは、拠り所を失い、バラバラになってしまった個人が主役です。都市に流入し、水面に浮かぶ根無し草のように簡単に流されていく人々、これをもって大衆と規定します。大衆は労働者や貧乏人のことではありません。大衆のなれの果てとされるB層は、「近代的諸価値を肯定するのか、警戒するのか」という横軸において、肯定する層です。グローバリズム、普遍主義、改革、革新、革命を肯定する人たちです。A層とちがうのは、縦軸です。B層はIQの低い人たちの層です。IQが低いため、「自分が周囲の人々と価値判断が同じであることに喜びを見出す人々」です。この人たちは、「自分より高い次元からの示唆に耳をかすことを拒否」します。これらはオルテガの見解です。オルテガは「大衆の反逆」(1929)を著したスペインの哲学者です。

 さて、今日は、「自分の周囲の人々と価値判断が同じであるひと」に安心する親たちの話しではありません。周りが大手塾に通うのを見て自分の子も大手に入れる、それで安心する親たちの結果的に子どもをスポイルする愚行についてはすでにこのブログでもたびたび指摘してきたところです。

 わたしは「根無し草のような個人」という言葉に大衆の本質を見ることができると思っています。こういうのは子どもというものを指導しているとわかってくることなのですが、どうも勉強することにブレがある、そういう子が多いことを知らされます。実力ありとさた子が本番で点が取れない、失速するということを何度となく経験してきましたが、その原因が如何辺にあるのかよく思料します。高い知能を有しながら本番で失速する、これは私を悩ませてきた大きな問題のひとつであったと思います。これを逆に、本番で普段と変わらない力を発揮してくる秀才たちと比べて見ると、後者では、勉強にブレがない、ムラがない、勉強することに迷いがない、そういうことが自明の事実として積み重ねられていて、その切り口でみると、前者の子たちは、勉強にブレがあり、ムラがあり、勉強することに迷いのある子たちであることが見えてきます。なぜぶれるのか、と問えば、まず親の態度が決定的要因であることは疑いない。親にはぶれているという意識などまるでないのでしょうが、親の勘違いの寛容、過保護というものがぶれる子どもを作り出していることは疑いないとわたしは見ています。

 自分の子を多芸にしたいのか、親という者はやたら子どもになにやかやと習わせたがり、稽古事をやらせたがるようです。子どもが欲すること、好きなことなら、害がないと判断すれば、欲しいだけ与えます。なんでもかんでも手に入る子どもに、自己を律する教育など施せるはずがないのです。そもそも教育というのは満たされない環境こそベストなのです。なぜって、「律する心」を作るのが教育だからです。辛抱する、我慢する、そういうところに教育の本質がある。がまんさせるということを全く教育しない親の作り上げた子というのが、わたしには恐ろしいものに見えるのです。子どものわがままをそのまま包容する環境を作ってやる親というのは、子どもが自分の環境が自分に合わせてあることを自慢するほどにバカになっているのを知っているのでしょうか。とにかく自分の環境自慢をするようになったらほぼバカ完成と見ていいでしょう。

 表題には、小石川合格の条件と題しました。その条件とは、ほかならない、ブレない子であることがまず先決条件です。そういう子でなければ受からない。その上で知能が高いこと、が必要です。つまり並の頭の小学生が望む学校ではない、ということです。しかし、知能が高いというだけではもちろんダメです。少なくとも小5の一年間を思考力をつけるために基礎学力とともに徹底して鍛え上げる必要があります。実は、合否はこの小5の勉強ですでに決まっていると言っても過言ではありません。竹の会で小5の1年間を鍛え上げてきた子たちがなぜ落ちたのか、2つ理由があります。が、結局は1つです。合格に必要とされる絶対的な、物理的勉強時間が足りなかったからです。それはとりもなおさず、ブレがある子だったからです。

 表題では、「都立西への道」とも題しています。もう見えてきたことでしょう。そうです。ブレがあれば受からない。過去、平成13年、20年の都立西合格者には、このブレというものが全くなかった、ということでは共通しています。ブレがある子は受からない。あれこれと勉強しない、できなかった言い訳を言い続けても、受かることはないのです。

 しかして、世の中には、ブレだらけの子が溢れています。根無し草のような子です。そして根無し草の子を根無し草の親が保護する、そういう図、これこそが大衆社会の一断面なのかなと思います。

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