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意識の取扱説明書/黒檀の木剣/肥後守

2019.02.23

 2月22日、都立高校の入試がありました。中学生には、これからの人生を左右する、もっとも大きな試練となります。

 3月という月が、素晴らしい春の訪れとることをお祈りしております。

 さて、竹の会は閑散とした教室でわたしも実はまだ完全には寛げないのですが、それでも都立中受検を終えた解放感というものはあります。わたしには、都立中にしても、高校入試にしても、毎年経験しておかないとどうも感覚が鈍る、それが恐いですね。特に、高校入試については、長年に鍛え上げてきた感覚というものがある。こうすれば「受かる」というものがあります。都立中受検は終わるといつも反省ばかりしております。今年実感したのは、やはり内申が低い子は、小石川、桜修館のような優等生が集まるところでは、絶対的に不利だということですね。近年、小石川、桜修館は、難関私立の併願校としての地位が確定的で、これから都立中高一貫校を受ける人たちの、真の敵は、サピックスや日能研などの大手進学塾に通うトップ層の子たちだということが、鮮明になりました。現在の状況を俯瞰して、思うことはいろいろあります。これまで特に、進んだ子たちしかやることのなかった、竹の会の算数レジュメ・シリーズの中から、新たに、「算数研究」シリーズを立ち上げることとしました。具体的には、「算数共通問題」、「2010算数速解」「2010算数」などのシリーズから、難問を特集して、これに詳細な解説を執筆することとし、本年の指導の主軸の一つに据えることとしました。本年桜修館合格者の一人が、攻玉社や巣鴨に合格したのは、この子が、「算数共通問題」、「2010算数速解」「2010算数」をやっていたことが大きいと見ています。ただこのシリーズは、私立難関中の難問ばかりを扱っていますので、だれもがやれるというものではありません。自ずとやれる人間は絞られてくる。

 厳しいことを言うようですが、近年の都立中は、算数を苦手とする子には、無理です。サピックス、早稲アカ、日能研、四谷大塚などのトップ層に勝てるわけがないからです。夢だけでは受からない。それが現実です。

意識の取扱説明書~意識という、この厄介なもの
 意識するとかえって動きはぎこちなくなる。硬くなる。垣根涼介は言う。わずかな無駄な動きの連なりが、大きな遅れとなる。「力み」は禁物だ。動きを意識するな。無心となれ、と。
さて、自分が今からやろうとすることを意識する。やっていることを意識する。だから、意識に縛られる。だから脳が、体が、ガチガチになる。意識することが体の動きを不完全にする。脳の働きを不完全にする。
 俗に「上がる」という心理状態が、意識に翻弄された結果だということは、よくわかる。
 ゴルフの最終ラウンド、1差、ワンパットで勝利の場面、なぜか手元が狂う。一流のプロでも、体がガチガチに固まる。意識の力とは、恐ろしいものである。意識するから体のコントロールが利かなくなる。
 大坂なおみが、多分にメンタルに左右される人だということは、彼女のゲームを見ていればよくわかる。意識という、この厄介なもの、もてあまして余りあるもの。

 意識については、国語研究の石原千秋が、書いている。自分を意識するというのは、自分の外に意識があり、外から自分を見ている状況だ、と。

 意識とは、不思議なものである。さらに厄介なのは、脳が、仮定する働きを持つことである。人間は、仮定することができる。相手の出方を予測することができるのもこの仮定する脳のはたらきによる。
 意識はいろいろ想像するから、悪い予測も当然予測する。そして人間というのは、悪い予測を信じたがる傾向がある。マイナス思考というのは、こういう人間心理の傾向を言ったものだろう。それはともかく意識が自分の外にいてはまずいわけである。

 この意識から解放される術がある。
 おまじないを唱えるのである。例えば、チチンプイプイとやる。この無意味さが、意識にいい。とにかく意識していることを忘れる、これが無意識の状態である。
 御守りの言葉を唱える。竹の会の神さまに祈る。なんでもいい。とにかく自分を意識することから、脱却する。

 意識したときから、蟻地獄に落ちる。意識の取扱説明書が、必要な由縁である。余裕綽々とは、意識を外に置かない状態である。
 人間の生理システムは、意識が、不安と恐怖のブラックホールとしてはたらくようにできている。焦りも意識の悪戯にほかならない。意識は不安を写す鏡である。不安は恐怖が作り出す靄(もや)みたいなものである。
 ところで、雑念とは何か。
 雑念は、コントロールできない意識である。不安を入れた布袋の、粗い目から、漏れ出てくる、始末の悪い意識である。
 意識は、伝令。
 不安出身の意識、これは不安の伝令。期待出身の意識、これは期待の伝令。心の七変化。心にも風景がある。心のありようで心には名が付けられる。野心、功名心、自尊心 、忠誠心、傷心、恋心。これは「こころ」と読む。「こころ」と読ませるのは、「しん」と読むほどかんたんではない、ある種の病だからか。
 信心はやや異質か。心に冠をつけたのが、欲。欲は意識の強さを表す。名誉欲 、出世欲。欲は意識の坩堝。
意識のことを考えれば、この意識の正体がますますわからなくなる。

◎黒檀の木刀
 中学2年の時、柔道部に入った。本当は、剣道をやりたかったけど、剣道は、道具にお金がかかるので諦めた。柔道部に入ったら、小学生からの幼馴染が、主将やってて、とにかくプロレスラーみたいな体してて、不良にも一目置かれていた。不良というのが、番長格で、またデカかった。この番長は実は小学生からわたしと仲のよかった奴で、わたしには、絶対に手を出してこなかった。とにかく暴力事件の多い学校だった。毎日誰かと誰かが、殴り合いしてた。わたしは、そういう時代を生きてきた。
 大学の頃だったか、大分の剣道具店で、黒檀の木剣を見つけて、欲しくなり、何万か出して、買ってしまった。その木剣は今も部屋の片隅に無造作に置かれている。あの頃から、時代小説が、好きでよく読んでいたが、イスノキという木がある。その巨木の芯の、最も重く硬い部分を、刳り貫いた部分をスヌケと呼ぶ。このスヌケの木刀が、よく小説の中で出てきた。調べてみたら、なんと黒檀に負けず劣らずの高価なものだった。木刀を作る木は、ほかにビワの木が有名である。普及品では、樫の木がほとんどであるが、土産品としてよく並んでいるのは、正体不明である。すぐ折れそうなのがわかる。
素振り千回と言うけれど、果たせずに来てしまった。

◎肥後守の心
 小学生の頃、ポケットには、いつも肥後守(偽物)が、入っていた。学校の購買に、普通に売っていた。「〇〇の守」という銘が打たれていたが、もちろん肥後守の偽物である。私たちは、「こがたな」と読んでいたが、肥後守という本物の存在は当時知らなかった、とにかくこのナイフを持って、学校では、鉛筆を削り、学校の帰りには、木を切り、木刀やらゴム銃やら、竹笛などなんでも作った。いつかハデの木で木刀作って、顔中がかぶれたこともあった。あのとき大変だった。顔中ぶつぶつだらけで治るまで1週間以上かかった。

 この贋作肥後守、使いすぎて、錆びと、刃こぼれだらけ。それをいつも砥石で研いでいた。次第に、刃が細くなる。新しいのを買ってくれと親にねだる。そういうことを覚えている。
 大人になって、わたしは、初めて本物の肥後守が、売られているのに出会った。渋谷のハンズ、ガラスケースの中に陳列されていた。なにか夢のような出会いを感じた。わたしが、子どもの頃、憧れていた普及版の肥後守のほか、かなり高級な肥後守もあった。あまりに懐かしくて、つい買ってしまった。いつか京都の刃物の専門店で、その店オリジナルの肥後守が売られていて、またまた買ってしまう。ときには世界一硬い鋼で作られたという肥後守に出会い欲しくなる。わたしは肥後守病に罹ってしまった。肥後守は、わたしには少年の感動だった。たまに眺める。そういう使いかたしかしないけど、なぜか少年の頃、憧れて、手に入ることのなかった、高価ということもあったのだが、肥後守を眺めていると、少年の頃そのままに、目が輝き、胸がワクワクしてる。夢が広がる。時を忘れる一瞬がある。

 

 

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